田舎の僧侶

関東田舎の僧侶 家庭とお寺と僧侶の狭間

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最近の記事

高見順「ガラス」

ガラスが すきとほるのは それはガラスの性質であって ガラスの働きではないが 性質がそのまま働きに成つてゐるのは 素晴らしいことだ  という詩を初めて見た。 40年近く生きて詩という物は避けていたけれど、感動してしまった。 私はまだ足りない物だらけ。素晴らしい詩に出会えた。ありがとう。

    • コロナになって感じた

      人の命も、太陽の周りを地球が回るように、円を作るように線を描いている。どこかで力を加えれば、歪んだ線を描いたのち、その円を描き始める。 このままいけばこうなるだろうという予測は付くけれども、思った線を描くことは殆どない。 お釈迦さまの教えは、ただ円を正しく自然に描けるようになる事なのではないかと思った。 コロナで寝込んでいても、正しく生きていれば、身近な人が助けてくれる。三宝の僧の部分、サンガなのだろうか。これは一部分、というよりも利益を見ているから違うのだろうが。 歪

      • 祈り

        先日、3時間程と供養を行った。 やる直前まで、あんまり合わせをしていないけど大丈夫かな、まぁみんな真面目な方だから大丈夫だろう。なんて考えていました。 始まってみれば、いつも街が鳴らすお昼のチャイムを挟んで3時間。あっという間だった。 終わりのお経に近づくにつれ、あぁ、もう終わってしまうのかと思うようになっていた。 が、 終わると結局、あー終わったーとなっていた。 しかし、途中で感じた終わるのが残念なような、この瞬間が愛おしいような気持ち。仏を大切にして、一生懸命

        • 忍辱

          六波羅蜜の1つ、忍辱。 これはどういう意味だろうと考えるありがたい機会がありました。 檀家さんのおばあちゃんが亡くなって、ご家族にお話しを聞くとおばあちゃんはよく言っていたそうです。 「普通の人が耐えられることは我慢と言わん、それ以上に辛いことを耐えるから、我慢と言うんだよ」って。 なんて立派な人だろうと思いました。私は1度大きな挫折をしたことがあります。死んでもいいとと思いました。 耐えることの難しさ、厳しさをありますが、身体が壊れる程耐えてはいけません。 忍辱とは

        高見順「ガラス」

          サンガ

          善い人と関わり合い、その人を大切にしなさい、という教え。 3つの宝の1つ。仏さま、仏様の教え、サンガ。 気付いていなかったけれど、自分が頑張って進もうとしていても、心が折れそうになっている時、自分の信じた人が一緒に行動しているということはとても頼りになる。 間違えていても、きっと正してくれる。 仲間は大切だ。

          仕事?に失敗する夢

          年に何回か、必ず葬儀でとんでもないミスをする夢を見る。 今回は結構こたえる。 そんなことは全くないのだけど、通夜を同じ日に2軒入れた。 どちらもうまくいかず、というか片方通夜無かった。 著名人やらつべ僧侶が参列する夢で、とんでもない夢だった。 もし、檀家さんと話して相談に乗る中で、夢の話はとても大切にする。その時の精神状態を表すものとして、馬鹿にはできないだろう。 と思っているから、いつも自分の夢はネットでどんな意味があるのか調べる。 仕事に失敗する夢は、自分の仕事に

          仕事?に失敗する夢

          お経を読む意味

          功徳を求めて読む行為に意味はない。 大切な事は、心に仏がいる事だ。 読む先に仏がいて、心は慈悲に満ちて、口から出る音がお経となって仏に届くように、姿勢を正して唱え、心が仏になる事だ。 お経の意味を知ることも大切だが、真言を意味を翻訳したところで意味はない。むしろ狭まる。人の言葉で知る意味を超えたものがある。 お経は、むしろ意味を知り、自身の生きている生活に生かすべきだ。活用して、智慧を得ることが必要だろう。 というのが今の感じ。時が経つとどうなるかな?

          お経を読む意味

          想い、祈りと身体

          梅干しと檸檬が口の中に入ってると考えると、不思議と涎が出る。存在していないのに。 これが空だ!なんて話では無く。 想うことによって、よりリアルに想い描くことによって、私たちは身体に影響が出る。 酸っぱいものを食べると涎が出るとか。 目隠しをして、水滴を垂らす拷問もあるらしい。 人の想いというものは、他者に影響があるかは分からないけれど、自分自身には影響が必ずあるのだろう。 供養、祈りもまた、想いの先には自分の身体へ返って帰ってくるのではないか? 脳は、感覚器官はどん

          想い、祈りと身体

          信仰

          以前は真言や仏の存在に疑問を感じていた。 目に見えないのに、どう信じればいいのか、何か役に立つのかなどと考えていたような気がする。ただのよく分からない文字に。 であれば、もっと分かりやすい四諦八聖道など、文字としてわかりやすい十善戒などが良いのではないかと考えていた。 最近は変わってきてしまった。なぜだか分かはないけれど、練習で書いた梵字を丸めて捨てることに抵抗が生まれ、法事の意味をより仏寄りに理解するようになった。 それがなんだということはないのだけれど。 仏を一心

          雪が降りました。 雪が手のひらに落ちて、水となったらそれは雪とは言わないでしょう。雪だった何かは水となって、その水もまた、何かに姿を変えるでしょう。 私たちも同じ、雪のように溶けたら、この身が無くなればまた次の姿へ変えていくのでしょう。 空気の中に、水の中に、全ての中に人であったもの、雪であったものはいるのでしょう。 私たちが、この白く冷たいものをみて、雪と分かるのは教えてくれた人がいたから。 人を殺してはいけないと分かるのは、教えてくれた人がいるから。 自分1人で生

          法事、何回忌まで

          和尚さん、法事っていつまでやるの? って聞かれることがありました。 100回忌までやりましょう!といつも答えます。 お金もかかるし、めんどくさいなぁなんて笑いながら言われる時もありますが。 私自身も、何で法事をやるのか、明確には答えられませんでした。でも最近、逆に考えられたんです。 死んだ後、私たちがどうなるかなんて誰も知りません。死んで帰ってきた人はいませんから。 でも、死んだらどこに行くのか分からないなんてことはないのです。 こうして100回忌まであるんです。ずー

          法事、何回忌まで

          不生不滅、不増不減

          生まれこともない、滅することもない。 増えることも、滅することもない。 なんだろうとしばらく思っていたけれども、欲という心の動きを考えていたら腑に落ちてきた。 生まれるでもなく、滅するものでもない。増えるものでも減るものでもない。 私たちエネルギーとも言える心の欲は、常に存在しているものであって、寝たい、ご飯を食べたいなど生きる事について、思うことは常に存在するものなのではないか。 もっと良いものもっと良いものとなると苦しくなってくる。これを無くすにはどうしたら良いか

          不生不滅、不増不減

          違う世界

          霊や魂というものではないが、目に見えない、感覚で捉えられていないものがあると思うようになってきた。 言葉では表せない、なんというかわからないけれども、見えないし聞こえないし。 でも確実にあるだろうと思う。なんだろうか? ただの精神的に不安定なだけだろうか

          言葉

          どうして人間は、文字や言葉でしか理解し得ないのだろうか。 言語化できない内面の感情と言われるものは、幸せや地獄、では表現できないだろう。 どうしたら想いは伝わり、感情を手放し、自然となれるのだろう。

          布施

          私はこのお寺ではやっていけないから、資格を取って副業をしなければならない。 という相談に やっていけないならやっていけないでいい、お前は仏道を極めなさい。そうすれば周りの者が助けてくれる。 そんな話があったようだ。 実際にその人は、唯識か何かの詳しい人となり、第一人者となったようだ。 釈迦の教えを突き詰めていれば、私は大丈夫と信じて歩むべきか。 周りと合わせて、基準はあるけれど、貧者の一灯の話にもあるように、灯明の価値は人によって違う。 あなたの一円の重みを伝えるのが

          葬儀の布施

          どうしたらいいかわからない。自分でも高いと思う。好きな額でいいと言うのも本音だが、修繕費の積立として貰わなければいけない額があるのも本音。 就職していいのなら就職するが、今人亡くなったんで、枕経行きますって抜けられて、平日ど真ん中二日間休める仕事があるのだろうか。 自分の給料が一番高くて邪魔なことはわかっているが、他所で仕事ができるほど暇でもない微妙なところ。私はどうしたらいいのだろうか? 正直、お坊さんというのを突き詰めたいと思う。釈迦の教え、最澄、空海、達磨大師、い