「大丈夫」

「生き地獄だ」と担当看護師ポロッとこぼした時から、さかのぼること数カ月。

日々「体調どうですか?」と聞かれる度に「大丈夫」の一言を満面の笑顔で口パクした。 

声を出そうよ、と思います?

声は喉から手が出る程欲しいけど、人工呼吸器を装着しているから声が出せないの。

さらに、さかのぼること2週間。

普通に通学し、部活に奮闘し、毎日が輝いていた。

何故、たかが日常生活がそれほどまで七色に光り輝く最高の毎日だったかって? それは、つい半年ほど前に抗がん剤治療を経て、悪性リンパ腫が寛解したばかりだったからだ。(悪性リンパ腫は白血病の兄弟のような疾患。)

夏休みの友達との約束を全て断って入院して個室で治療した日々を経て、外界に再び降り立った私にとって、バス停でただボサッと待っているだけの人々を見ることすら物凄く楽しい出来事だった。

だから、通学できるということも、部活に行けることも、友達に会えることも、ただホームルームに遅刻すれすれで到着して着席することまでも、すごく楽しかった。

友人が学校の一発芸大会に参加することになっていたので、それを見るのを心待ちにしていた何食わぬ朝。目が覚めると、動けない。

状況が吞み込めない。

とりあえず、「おかあさ――――ん」と呼んでみる。

部屋に入った母は慌てる。私は脳に障害を負った時のような体勢でベッドに横たわっている。通常そのような状況で意識はない。取り合えず、母が医師としてのシックスセンスに従って「911」を受話器に叩き込む。

救急コールセンター「どのような緊急事態ですか?」

「私は医師です。娘が(医学用語)のような姿勢です。呼吸はあり、意識も鮮明。昨日まで元気に歩いていました。原因は不明です。直ぐに来てください。」

救急車は直ぐに到着する。

正直、事の重大さなど微塵も感じていない私は、笑顔で「初めての救急車だ~。自分が乗ってもいいのだろうか?」と悠長に感動しつつ、元気なはずの自分には不要な救急車を出動させてしまったことに、ちょっぴり罪悪感を感じていた。

とても優しくて陽気なジェントルマン救急隊が、私をおぶって救急車に担ぎ込んでくれた。

入院後に検査を重ね、リンパ腫の再発ではないと分かった。幼き私にとっては当然の事実。元気で強い私に、完治以外の結末が訪れるはずもないとドヤ顔。

膀腫瘍性症候群というがんに付随して現れる疾患を発症してしまったのだ。背景にあるのは、別の希少がん。

こんなことは、私にとってなんの問題でもない。最初のがんも完治(緩解)させた私にとって、次のがんだって根絶できる取るに足らない敵でしかなかった。

「私を宿主にしたことを後悔するがいい!愚かな病気め(笑)サクッと消されて後悔するがいい。」内心、自信に満ち溢れていた。(子供だから、ナルシストでもいいよね。)

確立された治療法が無い中でも最善と思われる治療を重ねるも、病状は階段を下るように悪化した。動かなった四肢に加えて、呼吸状態も悪化してきた。

そのため、血中の酸素を指で推し量るモニターを装着したら、通常95%以上ある酸素の値が、ガクッと60台まで下がっては上昇を繰り返しているではないか!

当然、即日集中治療室(ICU)に転室する。

ICUに入った当日、私は呼吸が停止した。

今でも目に焼き付いている。ベッド左の真っ白な病院の壁に背中を押しあて、真っ青な顔でPHSを鳴らし続ける肩上ボブカットの女性主治医。額に滲む冷や汗すら見えそうなほど鮮明な光景だ。

呼吸停止時の状況は、気温や湿度でさえ、今この瞬間タイムスリップしたかのように、全てが鮮明に再体験できる程記憶に刻まれている。

私の頭上の壁には、大画面のモニターが取り付けられており、部屋の何処からでも一瞬で心電図、酸素、呼吸数、体温等が把握できた。

そのモニター脇に立つ男性麻酔科医が、主治医に「人工呼吸器付けますか?」(挿管しますか?)と聞いている。

その後、私は麻酔科医に「挿管して欲しい?」と聞かれ、「YES」と大きく頷いた。

麻酔科「OK! 挿管するね!」

その中でも続く、私の血中酸素のカウントダウン。78,76,74

Black Out! <意識が飛んだ>

そのまま63まで低下。

血圧も地に落ちた。

目が覚めたのは、同じ麻酔科医の声でだった。

「口に呼吸をするためのチューブが入っているため、しゃべれません。YESは瞬き一回、NOは瞬き二回。分かったら、YESと答えて。」

私は結構必死に瞬きを一回だけし、その後目をしばらく開けていようと頑張った。

「OK。ちゃんと伝わってるね。」

瞬き一回。(YES)

「口からチューブを入れているよりも、喉に穴を開けて、直接人工呼吸器のチューブをつないだ方が肺炎になりづらいとされています。喉に穴を開けて良かったら、瞬き一回。NOなら瞬き二回。あなたが決めていいんだよ。」

当然、瞬き一回。

「YES!!!」

承諾に一瞬も躊躇わなかった。肺炎にならずに済む方が良いに決まっている。

直ぐに、その場で気管切開キットにより、ICUのベッドで首に穴を開けてくれた。こうして、長い人工呼吸器生活がスタートした。

その後、残念ながら肺炎にもなったし、抗生剤の影響で重症な腸の感染症である偽膜性腸炎も併発した。(免疫低下中の挿管ではやむを得ないね。)

一時は、徐々に不全臓器が増えるような過酷な状況だった。

この時、私は極楽のお花畑の中。青ざめた自分を外から眺めて、網羅的に状況把握している感覚があった。そのまま目を覚まさなければ、永久にこの極楽に居続けられるとも瞬時に悟った。

が、目覚めることを選んだ。

「お母さんが呼んでいるからね。」

起きることを選んだというのは、若干語弊がある。起きない選択は、なかったのだ。そこが極楽でも、絶対に起きなければいけないと分かっていたのだ。まぁ、元々の性格上、もしも、ここで起きるか起きないかの二択を迫られたとしても、ここから回復を目指す選択しか頭になかっただろう。事実、この入院中、一度たりとも回復しないかもしれないなどという可能性が脳裏をよぎったことはなかった。心底、完全快復を確信し続けていたのだ。

ここから、「起死回生!」と怒涛の復活劇を繰り広げるのが、定番のパターン。しかし、そうは問屋が卸さない。

とはいえ、命が今すぐ奪われるかもしれない危険な病状からは、ある程度回復でき、ICUから一般病棟へと移れたのだ。

そう…… 回復した筈だった。

一般病棟に上った後、唯一動かせていた頭も、左を向いたままの状態で一切動かせなくなってしまった。

人工呼吸器装着中、首の穴から毎日頻回に痰を吸引してもらっていた。(普段の生活では、気が付きすらしないが、身体は常に肺や気道を分泌液で掃除し、それを細かい毛のような組織で押し上げている。私達は、意識せずともごっくんごっくんとその痰を飲み込んでいるのだ。しかし、人工呼吸器装着中は気道の途中に管がつながっているから、口まで痰を上げられない。そもそも、人工呼吸器を必要とするほどダメージを食らっている呼吸状態だ。様々なことが相まって、痰は肺や気道に溜まってしまう。気道内のそれは、30㎝くらいの長さの長いプラスチックチューブを首の穴から奥に押し込み、掃除機のように吸い上げる。これを吸引又はサクションと呼ぶ。)

眼球と瞼と口だけは動かせたが、その他は微塵も動かない。本当に、ピクリとすらしない。

その中で、手術後の切開もまだ新しく、痛みがある。

病気自体の痛みで、頻繁に医療麻薬をボーラスする毎日。

人工呼吸器装着のための穴が首に空いているので、空気は声帯を通らない。すると、声は一切出ないのだ。

意思疎通はというと、大きな文字盤を相手が「あ、か、さ~」と50音の行を声に出しながら指を差して確認してくれる。当てはまる所で瞬き一回。か行ならば、そこからさらに「か、き、く~」と続き、自分の思い浮かべた言葉の文字の所で瞬き一回。こうやって、一文字一文字言葉を伝えていくことで意思疎通を図る。

あとは、YESかNOで答えられる短い質問に瞬きで答える。

ある時、痰の吸引で嘔吐するようになってしまった。その少し後、しゃっくりでも嘔吐する状態に突入してしまった。

看ている側としても、相当痛々しい状態だったのだろう。確かに、回復できなければ、待っているのは衰弱の末の感染、そして死。

一切身動きが取れず、人工呼吸器装着中に痰の吸引をしてくれ、その刺激で嘔吐し、その後も嘔吐が続く私の傍らでポロっとでた呼吸音でかき消されんばかりの独り言が「生き地獄だ…」だったよう。

ただ、本人としては、「大丈夫!」だったのだ。

何故?

亡くなってしまった兄弟や友人と比べたら、生きているだけで全てがマシではないか。だから、耐えられる。当然、聞かれたら「大丈夫」以外の返答など頭になかった。

このような肉体的窮地の中でも、両親や友人、スタッフの皆さんは大変優しく、すごく手厚く対応をしてくださっていた。

動けない病状など、望んで陥るような状態では決してない。

しかし、あまりにも周囲が優しすぎて、意思疎通に困ることはほとんど記憶に残っていない。

父とは口パクでリアルタイムで会話ができたし、母とも文字盤でスピーディーに会話が弾んでいた。母は透明の文字盤をマスターし、私の顔の前に文字盤をかざし、それを挟んで立つ。私は伝えたい文字を一点に見つめ、母は文字盤を動かしながら私の視線を探す。お互いの目線が合う文字で、速攻で瞬き一回。ワンステップでスピーディーに文字を伝えられたので、スムーズに会話ができていた。会話内容は覚えていないが、いつも笑って会話していたことだけは覚えている。

両親と話すのは、いつも楽しかった。

一部の友達とも口パクで会話ができたが、他の友人達とは会話は成立しなかった。しかし、会いに来てくれたし、話しかけてくれるのも非常に嬉しかった。側にいてくれるだけでも生き甲斐になった。

主治医とも口パクで会話ができ、雑談まで楽しめることもあった。世界一の先生の元、世界中の文献や最新技術も調べてくれた。様々な病院や科に問い合わせて連携もしてくれたことも、果敢に国内初の治療に挑んでくれたことにも感謝してもしきれない。最高の主治医団も執刀医も、夏休みに代わりに担当してくれた先生方も憧れの存在だ。

看護師の中には、口パクを読める(瞬時に理解する)者もいれば、毎回私の表情を見ながら、文字盤で必ず意思確認をしてくれる者もいた。全員が非常に優しく、全員が必ず私と「会話」をしようとしてくれた。常に120%の優しさで最善を尽くしてくれていた。白衣の天使とは、まさにその状況に寄り添う看護師にふさわしすぎる呼び名だろう。正に救い。

リハビリの先生も工夫を凝らして、最高に楽しく心身ともに配慮した、抜群に気晴らしと活力になる最高のパラダイスと訓練を施行してくれた。一瞬一瞬が最大限楽しいリハビリも生き甲斐の一つ🎶

皆が皆、私の人生を最善に導く治療のために、団結して精一杯挑んでくれた。

なので、このままでは命が危なく世界的に生存例がない病状においても、私の世界は幸せだったのだ。

「治してあげたい」という皆の想いが実を結び、奇跡の快進撃が始まった。

最初は、呼吸器の設定を変えて、呼吸器を装着した状態で自分で呼吸動作ができるようにリハビリをする。人間って、呼吸を忘れるということが可能なんだね。息を吸えるためには呼吸を吐き切れることが大切だと、先ずは全エネルギーを注ぎ込み息を吐き切るところから呼吸リハビリが始まる。息を「吐いて、吐いて、吐いて、フーッ、ハイ!吸って~!!」という理学療法士さんや作業療法士さんの掛け声で息を吐き切れると、自然にスーッと息が吸える。これを、来る日も来る日も何度も繰り返すのが最初のトレーニング。

ただ、この途中でつい眠ってしまう。

すると、コクンと寝た時には呼吸を忘れて、リハビリの先生の声と人工呼吸器の無呼吸アラームで目が覚める。

こうして、圧を調整して空気よりも呼吸しやすく、呼吸を忘れてたら呼吸器が自動的に強制換気で代わりに呼吸をしてくれる補助輪付きの呼吸環境から、徐々に徐々に練習を重ねる。

これが順調に行くと、呼吸器の設定を変更し、自分で呼吸する回数を徐々に増やし、抵抗は上げて(PEEPを下げ)空気での呼吸に近づける。

見事、本人が呼吸を忘れずにできそうで、空気の負荷でも呼吸が出来そうだと主治医チームが判断したら、短時間ずつ呼吸器を外せる時間が設けられる。こうやって、一歩ずつ呼吸をすることを再学習し、続けて呼吸することに慣れていくのだ。

この時の華は、何といっても声が再び手に入るという最高のプレゼントだ。首の穴には、カニューレと呼ばれる接続チューブが四六時中入っている。これにも、色々種類があるのだ。中でも最高なものが、スピーチカニューレだ。その名の通り、スピーチ(発語)が可能になるカニューレが発明されている。日中に呼吸器を外している時に、弁付のキャップを装着すると、息を吐く時にピトッとそれが閉まり、声帯を空気が流れることができる。こうして、声が出せる仕組みだ。カニューレだけあって、呼吸器も装着可能。

もう、何カ月間、声を出せない生活をしただろう?

声が再び手に入った時の感動たるや、もはや言葉にもできない。

お見舞いも盛り上がる。

友達皆で大爆笑をしていたら、看護師が血相を変えて私の部屋に入ってきた。

凄い慌てようで、逆に皆びっくりしている中で、看護師が「皆、ストップ!」……OMG……「脈が180だよ💦」と、私の体調が大丈夫か聞き、今何をしていたか質問をしてくれた。(健康成人の平時の脈が約60、運動時の目標が約120。不整脈で倒れる時は180~300くらい。)

ただ、話して笑っただけだった。

そういえば、室内のモニターはけたたましい音で鳴り響き、なにやら脈の値が点滅していたっけね。あまりにも楽しかったから、無視しちゃってたよ(苦笑)

スピーチカニューレ装着当初は、ただ呼吸をしているだけでも、激しい運動をしているかのように脈が上がった。その度に、看護師が来てくれて、一旦会話を中断するように促してくれた。

とはいえ、笑うのを止めようとすればするほど、なんだかもっと面白くなって笑いが込み上げてくる。皆が笑いを堪えて会話しないようジェスチャーするのだが、それが尚のこと面白くなってくる。

クスクスから、ゲラゲラになりかけては、皆で必死に静止に努める。

こうして、やっとこさッとこ部屋も私も静まり、私の脈が120くらいと比較的落ち着いたら、また部屋で会話が盛り上がる。

当然、こんな環境にしてくれる周囲の皆にめっちゃ支えられていたからこその幸せな闘病生活だった。

頸も座らず、ベッドを起こした時に姿勢も保持できず、当然腕も脚も、手も足も全く動かない状態からのリハビリは……

楽しすぎて止められない。

今まで、寝返りも打てず、そもそも痰すら出せず、生存に必要な全てを医療従事者が代わりに担ってくれていた。それはそれは、非常にありがたい。自分は他人に生かされていると、ここまで骨の髄まで沁み、感謝する出来事もそうそうないだろう。

当然、感謝しかない。

そうはいっても、自分で思った通りに動けるというのは、やっぱりプライスレスな喜びなのだ。

加えて、元々スポーツ好きの筋トレ好きだ。

リハビリの時間のリハに加えて、自主トレは…… もう、朝から晩までずっとやっていたんじゃないかな? 重力に逆らって動ける程の筋力が無い時期には、ベッドで指を左右に滑らせることで、少しずつ少しずつ筋力アップを図っていった。

リハビリの楽しみは、自分との競争でもある。

ノルマを決めて、その動作をこなした時の達成感。そして、自分が立てた目標を上回る回数がこなせた時の達成感。

加えて、自分が決めた目標達成期日よりも早くそれを達成できる充実感。

元々、入院前の健康な日々も、抗がん剤治療中でも中学生から3年以上、一日たりともかかすことなく腹筋を毎晩継続していた。筋トレは元来好きな性格だった。だから、単調に見える反復動作を一回前よりも上手く行うことに、多大なる喜びを感じる性分なのだ。

だからこそ、それがリハビリという名に変わり、目標が重力に逆らえる筋力や日常動作に変わったとしても、その背景にある「以前の自分を上回る動作」を目標にするのは、かなり性に合っていた。

中でも記憶に新しいリハビリ目標は、寝返りを打てるようになること。それまでは、何カ月も看護師が昼も夜も体位を変えてくれていた。それでも、何カ月も寝たきりだと、今までは痛くなかった部位も短時間で痛みが出てくるようになる。その度に、ナースコールを押して、体位をわざわざ数名がかりで変えてもらってた。感謝。

けどさ、自分で寝返り打ちたいよね。なので、身体をもぞもぞ動かして圧点をずらし、ベッド柵につかまって片方を向けるような方法をリハビリから指導してもらう。

他のリハビリ同様、その後はただひたすら自主トレに励む。付き添いの家族が24時間ベッドサイドに居てくれたので、休んだ方がいいよとか、リハビリ再開始してもいいよ、と無理しすぎないように要所要所で声をかけてくれていた。

実は、意識がない時なども、脚を動かしてくれていた家族のおかげもあり、脚の筋肉の衰えは、手のそれよりもマシだった。何カ月も1㎜たりとも身体を動かせなかった私の筋肉が無に化していなかったことに、数々のスタッフが驚きと感心の声を上げてくれた。リハビリが捗ったのは、こういう日々の積み重ねもあるのだろう。感謝だね~。

実は、お世話になったICUにどんどん改善する姿で挨拶に行くのが目標でもあり、楽しみでもあった。

当時、懸命に治療してくれた皆さんが、私が親やスタッフと一緒に遊びに行くと、満面の笑顔で嬉しそうに励みの言葉をかけてくれた。大量の枕で一人では座れない身体を倒れないように支え、初めてリクライニング車椅子に乗って向かった先もICUだった。

こういうと、一般病棟と比して、ICUが圧倒的に良い場所に聞こえてしまうだろうか? そういう意図ではない。確かに、ICUはそのままICUで亡くなる重症患者が多く、患者あたりのスタッフ数が多い。心身ともに相当手厚いケアを心掛けてくれている。

しかし、一般病棟もかなり工夫を凝らしてくれていた。愛情たっぷりに可愛がってくれたし、大変丁寧にケアをしてくれた。些細なことでも褒めちぎってくれた。清拭の際などにも、よく面白い話しを聞かせてくれた。どちらの方が良いという比較ではなく、これは普段一般病棟にいる患者のリハビリ目標や心の支えとしての別空間という意味もある。同時に、ICUに居た時は瀕死だった。それでも、こんなに回復した!これからもっともっと頑張って、完全に元の生活に戻れるようになるんだよ!という自分への励ましと原動力になっていたかもしれない。ICUに挨拶に行くことは、目の前の実現可能な目標でもあったのだろう。

小さな目標を一歩一歩、しかし確実に達成していけることは、この上なく嬉しい。そして、リハビリを楽しんでいたとはいえ、めげずに継続するための術でもあったのだろう。

リハビリが進む中、私の首にはまだスピーチカニューレが装着されており、その間は気道に唾液などが垂れ込まないように気道内に風船のように膨らませたカフが膨らんでいた。

そして、この間はまだ食事をとっておらず、鼻から胃まで入れたチューブに栄養剤のような液体を流し込んでいた。

飲み物も、当然飲み込みを確認した後、吸い込まないようにとろみで加工して少量だけ摂取できるところからはじめる。

飲み込む練習を開始したばかりの頃、色々な飲み物にとろみの元を入れて加工してくれた。

てっきり、もう飲み物だけなら解禁だと思い、お見舞い人に水をねだった。

「そんなに水飲みたいの?」

多分、本当に目が輝き、全身で喜びを現していたことだろう。

「うん!」

コップに極少量の水が注がれた。

正直、この時の水は金の延棒よりも、どんなダイヤよりも輝いて見えた✨

舌を湿らすよりもちょこっとだけ多めに口に含んだ。

美味い!✨

ゴックン🎶

感激

涙ナイアガラの滝状態。
😊😭😊

この時以来、水を飲めることがいかに幸せなことか実感するようになった。

ふとした瞬間、水を飲める状態の自分に、しみじみと「いや〜、本当凄いね〜」と思う時もある。

そして、この時から一番好きな飲み物は水になった。

リハビリはさらに進み、いつしか食事も食べれるようになっていた。

3食のご飯以外は、ベッドでも、その脇でもリハビリに奮闘し続けた。
 
最初は、室内の移動でもナースコール必須。

次に、室内だけは自分で動いても良い許可がおりる。

今度は、理学療法士や看護師と一緒であれば、廊下に出ても良いという許可が下りる。

もう、楽しすぎるよね。

目標は、どんどん伸びていく。

最初は、部屋から体重計まで。

それが順調に毎日できると、今度は部屋からナースステーションを目指す。

クリア❗

ひゃっほ~~~🎶

今度は、徐々に距離を伸ばして、病棟一周を目指す。

当時、病棟看護師さんにお願いすると、100%リハビリに付き合ってくれていた(^^♪ (現代も同じなのかな? こういう良さが脈々と続いて欲しいな)

そして、ある日突然主治医の先生が笑顔で魔法の言葉を放った。

「病棟フリー」
🎉😳😁😍🎉

病棟フリーとは、病棟内であれば自室外も一人で歩行しても良いという許可だ。

私が病棟フリーという言葉を知ったのは、「病棟フリー」の許可が下りた時のことだった。(笑)

とはいえ、この輝く言葉を聞いた瞬間、満面の笑みを浮かべ、目は一瞬でダイヤのように輝いたことだろう。

聞かずとも、魔法はかかれば感じるのだ~(笑)

病棟内ならば、どこへ行ってもOK🎶

好きな時に、好きなだけ歩いてもOK🎶

最高過ぎるでしょ!!

今まで、ベッド周辺をとめどなく往復していたのが、舞台は病棟に変わる。

景色が変わる。

入院初期、お母さんに介助してもらった時に、一緒に倒れそうになったトイレが懐かしい。

中にある尿瓶まで懐かしい。

当時は車椅子だったが、今は歩行者用のトイレに入れる。

やっぱり、身体的回復による進歩が嬉しすぎる。

病棟一周の後は、二周……のはずだった。が、 結構イケるじゃん🎶💖 ということで、速攻でいつまでも病棟をグルグル歩いてる人へと変身した。

病棟を歩いている時に、ふと自分の足元を見ると、黒のスニーカーが見つめ返してくる。

そもそも、自分でスニーカーを履いて、靴紐を結べるようになったのも嬉しすぎる。

そういえば、指一本動かせずに、人工呼吸器に繋がていたのは、つい数ヶ月前ではないか。

すっごい進歩。

自分凄いなぁ。

同時に、全てのスタッフや家族、友人達への感謝が込み上げてくる。

ぽわ~

幸せの象徴のような瞬間。

そうやって、どんどん目標を持っては、確実にクリアしていく。

やった分だけできるようになるというリハビリは、もう楽しすぎ🎶💕

リハビリがさらに進んだある日のお話。

歩行は可能になっていたが、動くと直ぐに脈が上がった。

私の当時の運動時の脈の上限目安は180か190くらいだった。

リハビリで1段だけのステップを上がれるようになり、その後、階段が導入された。

そして、理学療法士がモニターを見ながら階段を少し登っては、脈190から200強に上がった。

若さってのは宝だね~

高齢なら、脳卒中リスクがありそうだ。

今でも、私の肉体はその脈拍数に耐えられるだろうか?

当時は、もう脂の乗った回復期のリハビリ好き小児!!

血気盛んなスポーツ好き💕

ということで、心臓がちょっとくらいバクバクいっていても、お構いなし。

そのまま、止まらずに階段を登り続けようとしては、脈190強で一時停止要請。

120くらいまで落ち着いたら、もう少し登って、再び脈でストップ。

最初はそれこそ数段で引き返していた。

しかし、1/3階、1/2階と登れる距離を伸ばし、いつの間にか1階分を休み休み上がれるまでに回復していた。

本当、動けるだけで幸せ💕

歩けるとか、もう嬉しすぎて止まらない。

階段!?

もう、飛び上がるほどの楽しさ🎶

本当、楽しすぎて、楽しすぎて世界の全てが輝いて見える日々って、本当に最高だよね!!

主治医からも大丈夫とお墨付きをもらって、晴れて退院!

こうして、入院前の日常へと戻った。

退院後、私は学業でも快進撃を見せた。試験も課題も休んでいた分をこなしきり、卒業試験も学年上位の成績で卒業。志望の医学部にも現役で合格できた。

当然、主治医にお礼を伝えた脚で挨拶に向かったのは入院病棟、ICU、リハビリ室だ。

病棟の廊下で、理学療法士さんとスキップをして祝った日を、今後も忘れることはないだろう。

今を大切に生きよう!




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