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『暇と退屈の倫理学』をともに読んで──読書会「ブックダイビング」に出ると何が起きるの?①

前回に続き、読書会をともに企画開催している仲間である、ゆーじんさん・ちさとちゃんと一緒に、読書会「ブックダイビング」について語った対談の内容をお送りします。

前回の記事はこちら

『暇と退屈の倫理学』をともに読んで

まさき:
今回も前回に引き続きゲストで、ゆーじんさんとちさとちゃんに来てもらっています。

過去2回は読書会「ブックダイビング」の説明が中心でしたが、今回はもう少しカジュアルに私たちの体験談をお話したいなと思っています。

「ブックダイビングに出ると何が起こるのか」という問いを囲んで話していきたいと思います。

まずちさとちゃんが第1回に出てくれましたが、どんなエピソードでも大丈夫なので、「ブックダイビングに出ると何が起こるのか」についてお話してもらってもいいですか。

ちさと:
「ブックダイビングに出ると何が起こるのか」ですね。以前お話ししたイラストの話もありますが、それは自分にとって大きな変容で、それ以外にも結構日常的な変化もありました。『暇と退屈の倫理学』ではそもそも「暇とは何か」とか「退屈とは何か」の感覚が本に書かれていて、その感覚を獲得したという感じですね。「今、私が感じていることが退屈なんだ」と気づけるようになったのが日常的な変化だと思いますね。

それから本にも書いてある「それは(退屈の)第一形式なのか、第二形式なのか、第三形式なのか」というカテゴリー分類もできて、「そうであれば自分はどうするべきか」と次の行動ができるようになったので、そういう変化もあったなと思ってます。

まさき:
少し補足させてもらうと、「ブックダイビング」の第一回のテーマ本が國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)を扱わせてもらったので、そのときの日常の変化について、ちさとちゃんに話してもらいました。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)

本の中で、退屈の第一形式、第二形式、第三形式という退屈の分類をしていることにまず驚くのですが、「自分は今どの退屈なのか」と当てはめることは僕もやってしまいますね。

特に「第一形式の退屈」は、自分の意思ではなくて、環境のせいで退屈させられてる、という受け身な退屈なので、否定的に書かれてたと思うのですが、「今自分は第一形式じゃないか」とか、「何かに支配されてはいないか」とか、僕も本を読んで考えることが増えましたね。

ゆーじん:
ちさとちゃんは分類した上で、第一、第二、第三で対処が違ったりするんですか?

ちさと:
そうですね。第一形式に気づくのは難しかったりするので、あとから「私、この時期はもしかしたら第一形式だったかもしれない」と第二形式になったときに気づくんですよね。第二形式っていうのが、本にもあった言葉で「正気である」という言い方をするんですけど。

その期間は「自分に向き合える余裕がある」という、退屈だけどそういう気晴らしもあるという点で、その状態を目指して、「自分が今どういう形式なのか」と立ち止まって考えるようになりましたね。

それこそ記録を取ることによって振り返ることができると思って、自分の日記とか本とかを見ながら、「この時はこういう状態だったな」と、本を読んだ後に改めて自分が書いたものが新鮮に面白くなって楽しめるようになったなと思います。

まさき:
ある意味「退屈」を楽しめるというか。そういう余裕が出てきたみたいな感じですね。

多分この本を読む前は、「退屈」という言葉だけだと、そもそも楽しいものではないじゃないですか。「退屈」だから。でも、それを楽しめるようになるって不思議な感覚ですよね。

ちさと:
本を通して「退屈」という感覚の新しい一面と言うんですかね。楽しみ方、味わい方が出てきたかなと思います。

ゆーじん:
『暇と退屈の倫理学』の流れで言うと、僕はそこまで分類はしないんですが、あえて分類すると、今までこの第三形式の「なんとなく退屈である」状態になることが結構あります。「何だこの、何か理由もないのに退屈は?」みたいな、「ネガティブになっていく感覚」があって、それとどう付き合っていいかがよく分からなかったんです。

この本を読むことで、得体の知れないものについての分類がされて、さらにこの本に出てきたバートランド・ラッセルとかいろんな哲学者も考えてて、結局、「持て余してる」というか、「これはもうどうしようもないんだ」みたいな「退屈」があることがわかった。

「人が退屈するのはもう仕方ないことである」という逃れられないような扱いをされてたので、「自分だけじゃなくて人類共通の悩みなんだ、逃れられないものなんだ」と僕の中では救いになったという感覚ですね。

「当然そういう退屈もあるよね」という捉え方になったので、それはもう一生続くわけですし、逃れられないとすれば、それは異常なことではなくて、ごく自然な、あってもおかしくない状態なんです。別にネガティブなものではないというような中立的なものとして「退屈」が修正されたというか、補正された感じがあります。

したがって、「そこから逃れよう」ということがなくなったので、「来るもんは来る」という向き合い方ができるようになっています。そうすると逆にそういう状態になりにくくなった気はしてます。退屈が怖くなくなったがゆえに、別に「来てもいいよ」という感じになって、「(退屈が)あんまり来ないな、最近来てくれないな」みたいな。それが変容と言えるか分からないですが、すごくいいことだと思っています。そういうネガティブな雲がかかる時間が減ったことは、ブックダイビングで読んだ効果だと感じています。

第一形式は、なんとなくごまかせたりしそうじゃないですか。強制的に嫌なことしないといけないから退屈っていうのは、その時間が過ぎればいいことだし。「なんとなく退屈」っていうのは一番取り扱いが難しいんじゃないかなと思ってたんです。理由がないわけですから。

たしか、どんな成功した人でも、どんな豊かな人でも、時間がある人でもない人でも逃れられないものだと描かれてたと思うんですが、実際そうだと思うので。それが分類がされたからこそ、僕の中では取り扱いできるものに変換されたみたいな。

昔、ライオンが発見されたときに、「ライオン」という名前がなかったときは、ものすごい恐怖の存在みたいな、魔物が来たみたいに、みんな怯えてたんだけど、それを誰かが「ライオン」と名付けようと言ったときに、「ライオン」として扱えることになって、冷静に対応できるようになったみたいな話を何かで読んだ気がするんですけど、それに似てるのかな。

名前を付けてカテゴライズすることで、取り扱い可能なものに変換できるみたいな感覚を少し感じてます。

まさき:
それ案外いいかもしれないですね。参加者の皆さんがこの本を読んで一様に獲得していったものって、「退屈をメタ認知した」ことだと思うんです。「退屈」って自分たちが普段当たり前のように感じているけど、あえて言葉にしてなかったことじゃないですか。要するに「退屈」に飲みこまれているものなので、あんまり意識しないというか、そこで困っている自分しか今まで存在しなかったものだし。

ゆーじん:
そうですよね。それが分類があるとも思わないし、取り扱い方があるとも思わなかったものだし。

まさき:
参加者それぞれが、「自分にはこういう退屈があってね」という話を持ち出して、みんなで味わったというか。「こういう退屈あるよね」とか、「こういう退屈はちょっと扱いづらいよね」というのを認識して、「じゃあどうしていくか」を考えさせてくれたのが、この『暇と退屈の倫理学』という本の偉大さだなと思います。

ゆーじん:
そうですね、確かに。まさきさんは何かあるんですか。

まさき:
『暇と退屈の倫理学』でつなげて話してみますと、僕が気に入っている言葉で「待ち構える」という表現が、本の結論のほうに書かれています。

「人間とはそもそも退屈をしてしまう存在である」「そういう退屈も含めて人間を楽しもうよ」と國分さんは述べていて、そして、あるときに「夢中になるとき」がある。それを國分さんは「動物になる」と表現していて、結論のところで「人間であることを楽しむことで、動物になることを待ち構えることができる」と書いているんです。

僕は、「待つ」ではなくて「待ち構える」ことが大事だと思っていて、「待つ」は受け身で、周りの環境に変化が起こることを待っているという感じになってしまうんですが、「構える」はそこに能動性が入って、「準備してる」という感じがします。

したがって、僕が学びを求めていることも、「待ち構える」ことだと思っているんですよね。そういう意識で学んだりとか、教養を深めてたりしてて。要するに、自分に対して必要なことが起きたときや、環境が何かを自分に求めたときに、ちゃんと応えられるようにしてるという意識づけとして、僕は「待ち構える」ようになりました。

ゆーじん:
なるほど。そういう学びのチャンスが来て「これだ!」って思ったらすぐ飛び込めるというか、注意深く見逃さないように、という感じですか。

まさき:
そう、見逃さないというのも大事だと思っていて、察知することができるというか、サインを捉えることができるという感じです。

ゆーじん:
それはある意味センサーみたいな感じになってるから、それが来たら「来た!」という感じですね。それが「待つ」だけだとそういうセンサーがないから、気づけないことはないかもしれないけど、反応が遅れてしまうのはありそうですもんね。反応が良くなったという感じはありますか。

まさき:
まだちょっとそこまでわかんないんです笑。ただ、その意識でいます。そういうときが来たらちゃんと反応できるように。

ゆーじん:
来たらすぐ飛び込むという。

まさき:
はい。その感覚はありますね。お二人は「待ち構える」で何か残っていることありますか。そうでもないですか。

ゆーじん:
僕は「待ち構える」よりも「遊び」ですね。「遊び」を取り入れるのがすごい重要だと書いてあった気がしますが、「遊び」になりそうな瞬間というか、「これは遊びにできるのか」と、そういう意味では常にそれを待ち構えてるのかもしれないです。何をしてても「それをどう遊びにするか」という感覚は持つようになった気がしますね。

あと「消費」の話もあって、普段気をつけないといけないのは、消費的に遊びも提供されて、それを消費することが、資本主義では浸透してきているので、お金を出せば遊べる遊びはたくさんあるんですが、「消費」になってしまうのは退屈につながるんじゃないかなと思ったんです。

自分で作る「遊び」が大事。能動的に遊びに転換する力が大事だと感じ取ったので、「どう工夫して遊びにできるか」はすごい意識するようになりましたね。

ちさと:
私も「待ち構える」に関してなんですけど、ブックダイビング中は最初に「問い」を持つじゃないですか。最初に持った「問い」、何回かにわたってその「問い」が変容することもあると思うんですが、1回立てた問いを持ちながら生活していて、その問いに関係することを待ち構えているような気がしますね。

それで気づきがあると思うので、それに関係することをブックダイビングの間に経験しながら、その気づきを皆さんとシェアするそれで新たに別の問いに派生したりするので、それをまたもらって言語化する、そういうことがブックダイビングの中で起きていたなと思いますね。

まさき:
「問い」は「ブックダイビング」で大事にしていいますが、確かに問いに対して待ち構える空気感はありましたね。

この辺りもまだもう少し盛り上がれそうな雰囲気もあるんですが、また次回続きを話していきたいと思います。

では、また次回お楽しみください。ありがとうございました。
(続きはこちら→読書会「ブックダイビング」に出ると何が起きるの?②『日本文化の核心』編

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