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【SERTS】scene.5 火鍋処理場

※この話には一部グロテスクな表現や性的な表現があります。



 夢の引き際がやさしくて、瞼を開けようか開けまいか迷いながらももう朝だと察して僅かに気を落とす。瞼の裏の淡い橙色が告げる太陽の位置はまだ低く、起きれば暇で、眠れば朝食を食べそびれるくらいの時間帯。微睡みの中で、さっきまでどんな夢を見ていたのか思い出そうと試みるが、中々上手くいかない。悪い夢ではなかったはず……と大まかに分類して夢の内容を掘り下げていると、ふと横臥してシーツをゆるく掴んでいたその手元になにか柔らかいものが触れたのを感じた。頭だ。やわらかくもすこしコシのある体毛をもった小型犬程度の頭がある。それから、ぐいぐいと僕の手を浮かせようとするちいさな角。よく動く垂れ耳。……これは王だ。獣形態の。
 薄目を開けてそちらを見ると、王はどうやら僕に撫でられたいらしく、その細い前脚で踏ん張りながら僕の手の下に入り込もうと頑張っているようだ。ぴろぴろと振れる尻尾。角の先から尻尾まで真っ白なその獣は、子ヤギだ。その懸命なちいさき生き物の姿に、つい笑ってしまいそうになるのを堪え、知らんぷりをしてしずかにしていると「め、め」と可愛らしい鳴き声がする。それを聞いて心の中でがんばれ、がんばれ、と応援していると、漸く僕の掌の下に身体を捩じ込むことに成功した王は、ちいさな溜め息を吐いて丸くなったようだ。後はふわふわの手触りに気付いた僕が無意識に撫でてくれることを期待しているのだろう。無意識ではないが、さり気なく撫でてやると、王は長い睫毛をうっとりと下ろしてどうやら満足気。可愛いなあ……と思いながら爪で耳の辺りを掻いてやると、ちいさな首が反った。気持ちいいのだろう。
 そのあとも首をわしわしと揉んでやったり、ちいさな蹄を触ってやったりしているうちに、庇護欲がたまらないほど昂ってきて、僕もうっかりと獣形態へと変化してしまう。僕の場合それはハウンドで、デフォルトだとアフガンハウンドに近い。子ヤギとは恐ろしく体格差があるが、それはある意味で普段通りだ。前肢で王を引き寄せ、その和毛を舐めていると、王は僕が犬になっていることに漸く気付いたらしい。しかし驚いて目を丸くしただけで、特に何も言わずに舐められっぱなしになっている王は、その四つ足で立ちながら前肢を掻いている。もっとして欲しいのだろう。僕がこのままがぶりとその薄い腹を食い破ることだってできそうなのに、王は呑気に僕の胸の毛に埋もれている。僕たちの外見は人型だろうと獣型だろうと、捕食者と被捕食者のようでいて、実際は従者と主君の関係だ。もう永いこと一緒にいるのだから、なにか特別な絆だってあるに違いない……それを愛と呼びたい僕と、特になにも考えていなさそうな王とのあいだに生じるぬくもりは、たとえどんなかたちをしていたって、きっと尊い。
「よし、散歩に行きますからそのままでいなさい」
 しばらくしたあと、ぽん、と人型形態に戻った王は犬のままの僕の腹を撫でながらそう言った。堪らず「そんなあ!」と叫んだものの、鼻歌を歌って楽しげな王の姿を見て、たまには悪くは無いと思い直し「まぁちょっとなら」と行儀よくお座りをして王が支度を整えるのを待つ。僕は公私共に犬である。きちんといい子にしているだけで王に可愛いと思って貰えるなら僥倖だ。
 それからネグリジェより若干余所行きの風情があるだけの、リラックスしたワンピースに袖を通した王が僕に首輪とリードを装着する。手先が不器用な王でも簡単に着脱できる仕様のものを選んでいたので、スムーズに散歩の用意が整った。スマホとルームキーだけをハンドバッグに押し込んだ王とエレベーターで階下にくだりながら、その場でぐるぐる回って撫でてくれと強請っていると、途中から何人か乗り込んできたので、隅に寄ってお座りをする。前肢を揃え、お利口に。
「おや、お上品なワンちゃんですね」……押したボタンからして朝食会場を目指しているであろう男が、王と僕を見てそんなふうに声を掛けてくる。
「ええ。いい子ですよ」
 にこりとして相槌を打つ王の、その胸元を注視した男がねちっこい目になったのが解った。人型形態だと波風立てないよう振る舞うことにしているが、獣形態のときは別だ。露骨に唸って睨んでみせると、男はそそくさとレストランフロアで降りて行く。
「カスが」
 ドアが閉まった後、そう吐き捨てると、王が「心配しなくて大丈夫ですよ」と僕の後頭部に手を伸ばしてきた。そのまま柔らかく撫でられ、少しいい気分になりながら、ホテルのロビーを通って外に出る。
 獣形態だと視線が低い。体高のある犬種とはいえ、省都に聳える発展の証はずっとずっと背が高く見え、人々も大きい。子供ですら大きく見える。視界いっぱいの物量と人混みに、どこか圧倒される心地になりながら、王の体側にぴったりとくっついて進む。王からはいつだって花束のようないい匂いがする。何度も王のワンピースのひらひらした裾に鼻を擦り付け、そのくらくらする香りを吸い込んでうっとりしていると、ふと王が立ち止まった。その視線を辿れば、前回も食べた馿肉火焼リューロウフオシャオのぼり。どうやらサンドイッチ等を売る店のようで、パンの種類と中身、そして味付けを選べるシステムを採用しているらしい。
「わほほ」
 そんな嬉しそうな声を発した王が、小走りでその店に向かうのに続く。そして通りに面したカウンターの中に向かって、ディスワン、と言って先程の幟を指さした。そうか、僕が話せない状態にいると、王は中国語が話せないから困るのか……と、若干の後悔をしながらその様子を固唾を飲んで見守っていると、どうやら英語を話せる店員が出てきてくれたらしく、胸を撫で下ろす。流石は省都だ。
「お好みは? パン生地から具材、ソースが選べますよ」
「ええと……普通? のやつがいいです」
「馿肉火焼には保定式と、河間式というふたつの基本形がありまして、簡単に言うと保定式はパンが丸くて、お肉が香辛料味。河間式だとパンが長方形で、お肉が醤油味なんです。どちらがいいですか?」
 なるほど、本場にも色々種類があるのか。上から降ってくる声を聞きながら立て看板を眺めていると、王がちらりとこちらを確認したのが分かった。気にしてくれていることを嬉しく思いながら、好きにしなよ、と鳴いてみせると、僕の声を聞いた店員がこちらを見て「あ」と高い声を発した。
「ワンちゃんがいるんですね! なら、そうですね……河間式にして、お肉は多め、ソースは別添えにしておきましょうか?」
「そうします。あと野菜は抜きで」
 状況を察してくれたらしい店員のホスピタリティ溢れる提案を受け入れた王が、スマホを使って電子マネーで決済をするのを見上げながら、またしても小遣いを使わせてしまったことを申し訳なく思う。そしてホテルに戻ったら幾らかチャージをしておいてやろうと決めた。
 そもそも王には会社から役員報酬が支払われているのだが、本人はあまり金を使いたがらず、僕が与えている小遣いと、ポケットマネーとして小遣い口座に引き落としている雀の涙程度の金で毎月やりくりしているらしい。しかも買うものといえば慎ましくもおやつ程度のものなので、追加の小遣いを強請られたことはないのだが、たまにコインケースの中を覗き込んでじっとしていることもあり、何が欲しいだの金が欲しいだの言ってくれたほうが保護者としては安心できるというものだ。それに、我が王は大変賢いことにも、時折僕に気を遣って「これを買ってください」などと敢えてお強請りをしている節がある。そのときは喜んで買うことにしているのだが、経費として処理できるものや、余った小銭で買えるようなものが大半。これで心配になるなと言うほうがおかしいというもの。しかし王がなにか悪いことをしているわけではないので指摘もできず、贅沢をした経験がないのだろうとなんとなく嗅ぎ取るだけだ。
 火焼が完成するのを待つ間、店員と王が雑談をしているのを盗み聞く。どうやら中国語を話せない王を気遣ってくれているらしく、語気は強いものの内容としては優しくお喋りをしてくれており、その配慮に僕まで嬉しくなった。
「旦那さんは駐在さん?」
 そんな問い掛けが聞こえて来て、思わず勢いよく顔を上げる。どうやら犬を連れているので旅客だとは思われていないようだ。旦那さん……つまり僕のことだ。今は犬だがそれは僕のことだ。尻尾を大きく激しく振りながら、王に熱視線を送る。期待に満ち満ちている僕を見て、王は少し悩む素振りを見せたあと、笑顔で言った。
「はい。夫は忙しく、わたくしは土地勘がなくて……どこか日帰りで遊びに行ける場所はありますか?」
 軽く肉球を持ち上げ、雰囲気だけガッツポーズをする。夫。便宜上仕方ないとしてもそう言ってくれたことが嬉しく、その場でくるくる回ってしまう。
「そうですね……廊坊にある演劇電影城なんてどうですか? 紅楼夢をイメージしたテーマパークで、観光客にもファミリー層にも人気みたいですよ」
「それは気になりますね。ぜひ行ってみたいです」
 完成した火焼と一緒に有益な観光情報を受け取った王と、ベンチに移動する。旦那さん。僕、旦那さん……嬉しくって回りながら移動する。犬の姿でいるときは気分が高揚しやすく、ついはしゃぎ過ぎてしまうが、王はそんな僕を咎めずに頭を撫でてくれた。
「はい、おにく」
 そう言って、王は火焼の中からロバ肉を幾らかつまみ、僕の口元に向かって投げてくれた。それをキャッチし、咀嚼する。
「味薄いなあ」
「犬なのですから我慢しなさい」
 今の僕は外見が犬であるだけなので、塩味やタマネギに配慮する必要は無いのだが、王があの店員の優しさを受け取った結果なので悪い気はしない。別添えのソースを肉に垂らして、王も馿肉火焼を口にするのを、その膝に顎を乗せながら見上げる。今日も王は機嫌よくニコニコしていて可愛らしい。その笑顔に向かって「ハオチー?」と訊くと「ハオチハオチ」とのんびりした声が返ってきた。
「この間のと味が違いますね。この四角いパンもハオチーです」
「王、お野菜抜いたでしょ」
「むん……犬がいるので」
「タマネギ抜くなら分かるけどさ。お野菜は食べないと」
「きょ、う、は、そんな……キブン、なのです」
 そっぽを向き野菜嫌いを歯切れ悪くはぐらかす王に、口煩く野菜も食べるよう言い聞かせていると、向こうから散歩中のゴールデンレトリバーがやって来るのが見えて、咄嗟にベンチの下に滑り込む。呑気に「お友だちですよ」と呼び掛けてくる王に「友だちじゃない!」と拒絶の姿勢を見せつつ、金色の毛並みが見事な彼が通り過ぎるのを待った。傾向としてレトリバー系は陽キャばかりなので、とても苦手なのだ。僕が人型形態のときは勿論可愛いと思うし、触らせて貰えるなら撫で回したいが、この姿のときに限っては彼らは天敵だ。底なしの明るさに揉みくちゃにされてしまう。
「ああ、行ってしまいました」
 僕が嫌がるあいだに遠ざかってしまった金色の犬の後姿に、王は残念そうに肩を落とした。王もかなりの動物好きで、確か騎兵隊の馬などもよく可愛がっていたことを思い出してしんみりするが、ここは譲れない。僕がいるのだから僕を撫でればよいのだ。
「行っていいんだよ。別に犬だからって皆が皆友だちって訳じゃないの。大抵はただの犬だし」
 姿形が同じといっても、言葉が通じる訳でもない。これは僕たち人外族と人間についても同じことが言えるだろう。僕はだいぶ人間寄りに感覚をチューニングしていて、王も僕を見て学んでいるだろうが、根本的には原初の神性を信奉している。その信仰対象とは強さであり、暴力だ。力こそすべて。僕たちはそういった感覚の生き物であり、王の神性も突き詰めれば暴力が根幹にある。人間界のニュースについて王と「殴って黙らせればいいのにね」と話すことがままある程度には、僕たちには『話が通じない』のである。人間界に帰属しようという努力をしているので話が通じない素振りを見せることはたまさかだが、性根ではどうしようもなくそうなのだ。
「それとも王には僕と他の犬が同じに見えるの?」
 わざと不貞腐れてそう問うと、王は少し考える素振りを見せたあと「うちの子が一番いい子で、かわいいですよ」と若干的外れなことを言って、ベンチの下から出て来た僕の首を抱いた。

 それから古鎮と呼ばれる、まるで映画のセットのように古い街を歩いた。千年以上の歴史があるものは千年古鎮と呼ばれ、特に尊ばれて当時のままの姿で残されている。しかし案内板の写真にあったように、夜になればネオンでギラギラに飾り付けられるあたり、街の維持のために観光客を呼び込むことには余念が無いようだ。ギラギラとした姿もそれらしくて良いが、日中にしか見られない陽光の似合う落ち着いた色味で構成された街並みも素晴らしく、カラフルだが優しい色の灯籠タンロンが歩道や建物の軒先に吊るされ浮いているさまは日中にも関わらず特に幻想的で、それを見上げた王が指をさして喜ぶ姿に思わず目を細めた。この笑顔を見られるのなら、王を旅行に連れ出した甲斐があるというものだ。
 レトロな建物を利用した様々な店が軒を連ねる中を、犬の姿のまま歩くのは勿体無い気もするが、これはこれで貴重な体験だ。時折何か買い物をしに店に入っていく王の背中を見送って外で待たされるのも悪くない。王を待っているあいだ、僕を撫でようとする子どもらには気前よく応じ、わざわざ寄って来る生き物嫌いには唸って応戦する。そして人気のない場所で、フライドポテトとぶつ切りの鴨ローストを香辛料で和えた謎のスナックを貰いながら、手ぶらの王になにを買ったのかと問う。すると王は「お土産です」と言って自販機で買ったオレンジソーダの缶を開けた。ベギョ、と嫌な音がした気がしたが、人気がない場所なので大目に見る。
「会社の皆にです。配送サービスがあったのでそのまま送りました。後は保存がきくものを家にも」
 そうだ。王はそういう性格なのだ。自分のものはあまり買わないくせ、人のためには惜しみなく金を使う。僕や社員への誕生日プレゼントだって欠かさないし、普段の差し入れも行き届いている。僕の苦手とする愛嬌や愛想の部分を王は補ってくれており、社員からの人気は圧倒的に王の方が上であることから、王の持つ気質が経営にも良く作用していることは火を見るより明らかだ。これについては大変誇らしく、文句は一切無い……と言いたいところだが、欲を言えばもっと自分のために金を使ってほしい。例えば出先で桃缶を一気に箱買いして僕を困らせるとか。
「……もしかして、今までもお土産買ったりしてた?」
 ふと思い付いて訊ねると、王は「たまにですよ」と頷いた。
「家の宅配ボックスのチェックはゾエにお願いしてありますが、彼女の手を頻繁には煩わせてはいない筈です」
 ゾエとは弊社で最も日の浅いエージェントで、新人ながらも大変真面目な仕事ぶりで将来を有望視されている吸血鬼デルタ種の女性だ。よく気が回るタイプで、しかも僕の魔眼が効かない稀有な存在であり信頼できるので、僕の代わりに王の補佐に付かせることも多々あった。今の王の不在で一番寂しがっているのは、恐らく彼女だ。……顔には出ないだろうが。
「ゾエには連絡してるの?」
「ええ。チャットワークでやりとりしていますよ。こちらの方が気付きやすいからと言われていますので」
「ふーん……なんて送ってるの?」
「お互いになにをたべたとか、どこに行ったとか、そういう話ですね。……あの子が怪我をしていないか、心配です」
 その遠くを見る横顔に嫉妬して、ついべったりと身を寄せる。今は犬なので鴨の骨をバリバリと齧りながら、撫でてくれるのを待っていると、王はきちんと僕の喉を摩ってくれた。
「……大丈夫じゃない、ゾエなら」
 ぶっきらぼうな返事になってしまったが、王は気にした様子もなく「そうですね」と笑顔で頷く。
 僕がゾエに嫉妬する理由は、ふたつある。ひとつは、彼女をスカウトしたのが王だという点。もうひとつは彼女の恋愛対象が女性だという点だ。
 基本的に弊社のエージェントは、僕がスカウトしている。王が魔力の枯渇で眠っている間に設立した会社なので、人選については必然的にそうなったのだが、目覚めて暫くしたあと王自身が霞舟ゾエという女を見つけてきた。ゾエは王子様然とした凛々しい女で、現に同性から異様にモテるのだが、真面目極まりないことにも王に心酔している。しかも僕に靡かないときたものだ。こうなると、僕が彼女と王との仲を邪魔できず、純度百パーセントの、ただのジェラシーが由来で、僕はゾエのことが若干苦手なのだ。社員としては申し分なく、好ましくはあるけれど。
「じゃあゾエにはなにかしらお礼をしないとね」
「そうなのです。しかしなにを贈ったらよいのか……」
「彼女、何が好きだっけ」
「紅茶味のスコーンですね」
「確かに、この国でプレゼントを買うには困る好みだね」
 悩むふりをしながら、王のワンピースの裾に鼻を突っ込む。こら、と叱られながらも僕に注意を引きたくて、スカートの中にすっぽり入ってしまうと、王のか細くも柔らかな腿に身体を擦り付けた。流石に下着には手をつけないものの、僕を引き摺り出そうとする王の手を舐め回し、膝の間から顔を出したりして困らせていると『王』の声で「やめなさい」と言われてしまったので渋々スカートから出る。しかし次の瞬間には優しく「今日は甘えん坊さんですね」と頭を撫でられるものだから堪らない。
「そうだよ。僕は甘えん坊だよ」
 こんな姿、あの人には見せられない。
「甘えん坊さん、手を繋いで帰りますか?」
「……うん」
 リードを外して貰い、人目を確認してから元の姿に戻る。もう一度人目を確認してキスをすると、ひんやりとオレンジ味がした。

 ホテルに戻ってエレベーターに乗り込むと、今朝のあのスケベな男も乗って来た。僕を見て表情を固くするので唸ってやろうかとも思ったが、今は人型形態なのでただ黙って見下ろすに留める。ヒトは自分より体格の大きい者に威圧されると途端に大人しくなる、可愛い生き物だ。
「ほら、足を拭きますよ」
「今は靴ですー」
 部屋に帰るなりタオルを持って寄ってきた王を抱き上げ、ソファに腰を下ろす。すると王が「お手」と犬の芸を求めてきたので渋々従えば、王は手のひらで受け止めた僕の拳を握ってその甲を指で撫でてきた。その軌跡を目で追って、もう片方の手で捉えて、掴んだ手首を伝ってか細い二の腕へ。それから肩、頸、えらのない頬。薔薇色の唇。さらに滑ってつめたい耳。ちいさな後頭部を引き寄せて、額を合わせながら「ねえ」と呼びかければ想定よりも甘ったれた声が出た。
「僕、旦那さん?」
 問うと、目の前の王は唇をぎゅっと引き結んで眉根を寄せた。困らせるつもりで言ったことだが、ここまで見事な困り顔をされると、すこし可笑しくなる。
「違うよね、やっぱり」
 ぱっと手を離して自嘲気味にそう言うと、王はその困った顔のまま首をぐるんと傾げた。その動きが相変わらず梟のようで、傾げた勢いでもげてしまいそうで、咄嗟に両手でその頬を捕まえると、僕の指で頬を潰された王は喋りにくそうにしながらも口を開いた。
「その視点はなかったというのが正直なところです」
「どういうこと?」
「夫、というものをわたくしが得るという発想がなかった」
 その言葉に、確かにそうだと思い直す。故にロールプレイ上だったとしてもしっくり来ない感覚なのだろう。
「それは、そうだね。うん、王だもん」
「しかし第三者目線だとそう見えるのかもしれませんね。ええと、ゴツゴツした個体と、胸の膨らんでいる個体が並んでいた場合に。本能的に生殖が可能な年齢の番だと判断されるのでしょう。春っぽいというか」
 王らしい観察眼に、つい笑ってしまいながら頷いて返す。
「そうかもね。あと、王は知らないかもしれないんだけど、僕たちはよくきょうだいにも間違われる」
「わたくしが兄ですか?」
 僕の言葉を聞いた王の顔がぱっと明るくなる。それを見て幾らか気まずくなりながら、下手に下手に出ようと王の両手を下から握った。
「う、うーん、たぶん違うと思う。これはパッと見の話だから気にしないで欲しいんだけど、まぁ……妹だろうね」
 お伺いを立てるようにそうできるだけ柔らかく言うと、王は僕の手を握り返してくれたが、その口はへの字に曲がってしまった。
「そうですか……残念です。下のきょうだいがいたら可愛かろうと考えたことはありますから」
 王は双子の妹だ。当事者ではない僕などは双子ならばどちらでも変わらないだろうと思ってしまうのだが、王の態度からしてどちらが上でどちらが下かというのは重要な問題だったのだろう。実際にあの人は王を『あの子』と愛おしそうに呼んでいたし、王はあの人のことを『兄様』と呼んで敬っているのだから。
「じゃあ僕のこと弟みたいに思ったことある?」
 王とあの人は恐らくどちらが兄かということで喧嘩をしたことでもあるのだろう。なにかを思い出したのか、王がくちゃっとした不貞腐れ顔でいるものだから、忖度するつもりでそう問い掛けてみた。すると王は、
「いいえ。おまえはおまえであって、他に代替のきかない存在ですから」
 と言って僕に甘い動悸をさせるものだから堪らなくなって破顔を手で覆い隠す。矢張り王に僕の望むような常識や感覚を押し付けるのは宜しくないのだ。王は王なりのやりかたで他者と向き合っており、そのフラットな目線にきちんと僕のことも映してくれているのだから、甘ったれたことを言ってはならない……と、思うものの、現実はそう上手くいかない。有言だろうが不言だろうが、実行こそが難関なのだ。
「僕って特別?」
 いつなれるとも分からぬ理想の恋人像よりも、目先の依存。困ったように眉を震わせる王の眼窩に唇を寄せて、その睫毛の生え際に舌を這わせる。犬の姿でもないのに。眼球のそばに歯があるというのに一切怖がる素振りをみせない王は、まるで音楽にでも耳を傾けているかのようにしずかな顔で「特別ですよ」と頷き、続けて「わたくしは……」となにか言い掛けて、ふっと唇を噤んだようだった。
「なに?」
「いいえ、なんでも」
「嘘。教えて」
「ほんとうになんでもないのです」
「教えてくれないと今から抱いちゃうけど」
 脅し半分、期待半分。既に目は犯している。
 すると王は目元から涙のように垂れてきた僕の唾液を舌先で舐めとり「おまえと」と切り出した。
「火鍋が食べたい」
 火鍋。ホットポット。赤くて熱くて辛いアレだ。
「へ? 火鍋?」
 新手の告白か。なにかの比喩か。はたまたマクガフィンか。王はにこりと微笑んで、身を乗り出し僕の唇に軽くキスをすると、立ち上がってテレビのリモコンを手にした。そして「ヌンチャク・パンダの時間ですね」と呑気に言ってボタンを操作し、オープニングテーマが流れるチャンネルに行き着くとベッドに座りクッションを抱いて大人しくなった。
「え、ちょっと待ってよエッチしようよ。そういう雰囲気だったじゃん今さあ」
 愕然としながら王を追い掛け、クッションを取り上げて代わりに抱いてもらおうとするが王の腕は頑なに僕を迎えない。テレビではナレーションが「前回までのヌンチャク・パンダは……」と説明を始めるのを聞きながら、平身低頭で、しかし喚きながら頼み込む。手を替え品を替え、好き、大好き、愛してると連呼して。
「うう、お願いだよ。お願いだよー」
「むん。ほら、手を出しなさい」
「違うの! 手じゃないの! エッチがしたいの! 王と! 愛してるから!」
 吸血鬼が血を糧に、夢魔が精力を糧とするように、僕の糧となるのは主との粘膜接触で得られる魔力だ。いや、正しくは粘膜からでなくても良いのだが、そこは効率の良さに乗っかって文字通り欲を出している。
「このあいだしたではないですか」
「この間だよ? 月で言うなら先月だよ? お腹すいて死んじゃうって!」
「週で言うなら先週ですが」
「週一でも足りないんだよ……毎日でもしたいの。お願いだよ」
 テレビを注視したまま動かない王の肩を揉み、手を揉み、頬にキスを落としまくる。王はアニメ視聴を阻まれていることが不服なのか、或いは性交を迫られていることが不快なのか、口をへの字に曲げて絶えず僕に背を向け続けた。それをしつこく追い回していると、王は言った。
「わからずや」
 そんな可愛い悪口に思わず動きを止める。心做しか悄然とした様子の王の横顔の、その視線の先を辿ると、主人公であるパンダ師父とヒロインの仙鶴大姐が一緒に火鍋を囲んでいるシーンがテレビに映し出されていた。デフォルメされた絵柄であるが声や音楽、照明の描写からして、なんだかいい雰囲気なのが存分に伝わってくる。それを見て唐突に先程のあらすじ紹介のナレーションが思い出された。
「前回までのヌンチャク・パンダは……ひょんなことから仙鶴大姐と食事に行くことになったパンダ師父。同じ鍋を囲んで想いを交わすことができるのか? そしてそこに忍び寄る怪しげな影の正体は?」……と。
 王は先週もテレビに齧り付いてこの番組を視聴しており、パンダ師父と仙鶴大姐の所謂両片想いと呼ばれる関係性にも気付いていた筈だ。つまり火鍋を囲むロマンスシーンがこの回の見どころで、おそらくこの回を境にふたりの仲が一気に深まることだろう。闖入者が場を掻き乱す流れもまたロマンスのスパイスとなるに違いない。つまるところ、王は比喩表現として火鍋と言ったのだ。僕たちの関係性は燃え上がるような火鍋を囲むほどのものだと。……なんて、いじらしいんだ。なんて可愛らしいんだ。拙い暗喩であるがゆえにより一層僕の心を掻き乱して堪らない。素直じゃないところもまた最高だ。我が王はどこのなによりも誰よりも素敵だ。
「か、わいー……」
 ひそやかな呟きとは裏腹に、胸の中で嵐のように吹き荒ぶ感情。愚かな従者を許したまえと懺悔したいような、今すぐにでもその細い身体を抱き潰したいような、そんなこんがらがった意欲が湧き上がり、むすりと唇を尖らせている王に抱き着くよりも先に務めを果たそうとスマホに手を伸ばした。検索ワードは勿論『近くの火鍋』である。
「……王?」
 ちいさな拳を握り締め、真剣な眼差しで食い入るようにロマンスシーンを観ているその横顔に呼び掛けると、王は「むん」と意識がこちらに向いていないような返事をした。
「今夜火鍋食べよ?」
 そう言って王に僕のスマホを見せる。飲食店の予約アプリであとは『予約確定』ボタンをタップするだけのところまで持ってきた画面だ。すると王は「ふーん」と意味深に喉から声を出すと、右手中指の関節でノックするようにして予約を確定させてくれた。
「ちょっと遠いけど、電車なら早いよ。例の演劇電影城ってのも近くにあるみたいだし、行ってみよう。終電に間に合わなければ向こうでホテル取れば良いし」
 僕がそんなプランを並べ立てている最中、王はパンダ師父と仙鶴大姐の手と手が重なるシーンを見て「きゃっ」と顔を手で覆う。胸躍らせるには些か控えめすぎる描写ではないのかと疑問に思うが、王の中身はまだ子どもなのだ。しかしそうなると手を繋ぐ以上のことをしている僕たちの関係性について王はやはり、名状し難いなりに伴侶のようなものだと認識しているのではないだろうか。きっとそうだ。それ以外となると僕の思考が暗澹とし始めてしまうので、ポジティブに考えるように意識を誘導していると、テレビ画面では突如姿を現した黒衣の男が仙鶴大姐を攫って暗闇に消えたところだった。
「なんという不届き者……!」
 身を乗り出すようにしてひとり熱くなっている王は、昔よりも幾らか感情表現が豊かになったように感じる。「ええ」だの「そうですね」だのとしか話さなかった頃に比べれば、心がやわらかくなってきたのだという実感がある。であれば僕に対する感情や感受性だって変化し続けているに違いなく、いつかとっておきの報酬が得られるのではないかと期待してしまう。しかし王の成長とともに、僕はどんどんと甘ったれて、一緒に成長してゆきたいのにその実感が一切ないことについては、ずっと怖い。
「王は、パンダ師父と仙鶴大姐の恋路を応援してるの?」
 電車移動もあるのでお小遣いも兼ねて王の電子マネーウォレットに幾らか振込みをしながらそう問うと、王はコマーシャルに入ったタイミングで「もちろんです」と大きく頷いて僕を振り返った。
「想い合っているなら結ばれてほしいと思います」
「結ばれるとどうなると思うの?」
 王の真っ当な発言に、つい意地悪な問い掛けをしてしまう。個と個が結ばれるということがどういうことなのか、王はきちんと認識しているのだろうか。
「それは知っていますよ。ヒトの場合、ですよね。ええと……デート。デートなることをするのです。手も繋ぎますし、一緒にごはんを食べたりします」
 どうやら王が考えている『お付き合い』とはそういったある意味ファンシーな程度のものらしく、つい鼻で笑ってしまう。恐らく、全年齢向けの映画やコミックで学んだことを並べ立てたのだろう。
「チューとかエッチもする?」
 王も成体なのだからこれくらいは踏み込んでも良いだろう。すると王は、僕の問いにきょとんと目を丸くすると、首をぐるんと傾げた。
「それはまた別の話では?」
「別の話?」
 しかし無垢な王の口から飛び出したのは、期待していたような恥じらいでも無知でもなんでもなく、ある意味哲学めいた答えで。
「愛と欲はベツモノです。愛は愛の処理場、欲は欲の処理場で処理するものなのでは?」
「え。兼ねないの?」……今度は僕がきょとんと、いや、唖然とする番だった。
「むん? 基本的に兼ねないのでは……?」
 そう言った王の視線は、特になんの名残りもなくコマーシャルの終わったテレビ画面に再び吸い込まれていく。その眼差しはおよそ創作物を楽しんでいるとは到底思えないほどに透明で、口許だけ笑顔のかたちにしているのではないかと思われるほど、無に近かった。
「じゃあ……王はどうして、お嫁さんが欲しいの」
 問うと、王はパンダ師父が誘拐犯を追い詰めるシーンをその目に映したまま言った。
「生殖欲です」
 それはどのぬくもりからも程遠い、あまりにも冷ややかな事実だった。
「兄様も言っていませんでしたか? ……ああ、兄様は成体になる前に死んでしまったから、そういう感覚はなかったりするのかな……。あ、おまえ、兄様ともしたでしょう。なにかソレについて話しませんでしたか? おまえと兄様はその気になれば子を成せるはずでしたものね」
 そのフラットなトーンで発せられた言葉に、なにも言えず固まっている僕とは対照的に、テレビではいよいよ愛し合うふたりのキスシーン。しかし王はそれを見届けずにリモコンでチャンネルを変えた。やがて王が手を止めたのは昼の三分お料理コーナー。僕の知らない調味料が生肉の塊に満遍なくまぶされていく。
「さて、クウフク、なのでしょう。しましょうか。同意しますよ」
 美しく微笑みながら、王は僕の手を取った。

 王は僕しか男を知らない。処女だって僕が切った。契約に必要だったからだ。
 痛覚が鈍いのかと思っていたが、そのときの王はひどく痛がった。心底可哀想になるほど、痛がった。二度目からは何事もなかったかのように応じてくれたが、慣れるまでは痛かったに違いない。実際、僕たちの体格差はかなりあって、王の骨盤は子供のようにちいさいのだから、当たり前である。もしかすると今でも痛いのかもしれないが、真相はわからない。王が行為のことについて普段一切を語らないからだ。
 それでも僕は、今まで一度だって手を抜いたことはない。性衝動の動機は都度違うにしても、いつだって丁寧に抱いてきたし、すこしでもよくなるように努力してきた。それは自分が処女を切ってしまったという罪悪感からでも、主従の義務感からでもなく、僕がそうしたかったからだ。好きな人を抱くのに愛情をかけない馬鹿がどこにいるだろう。好きな人を抱きたい。優しく抱きたい。いつでも抱きたい。そういった欲求は愛に属するものではないのか。
 僕は王のどの処理場で待てば良いのだろう。
「痛かったら言ってよお願いだから」
 過呼吸みたいな声が出て、自分でもはっとする。
 今まさに抱いて、抱き締めていた王が「むん?」と気の抜けた声を発して、王の肩越しのシーツに額を擦り付けていた僕に顔を向けた。互いの息の温度差なんて微塵もないほどに近い場所で目が合う。近くて、ぴったりとくっついていて、なんなら身体の内側にくい込んでいて、そして怖いぐらいに他人だ。そんな位置関係で、王はぱちくりとまばたきをすると、僕の肩の下から引っ張り出した手で頬に触れてきた。
「痛くないですよ。どうしたのですか、いきなり……ええと、結合部の話ですよね?」
「結合部て」
 思わずふっ、と笑ってしまいながら肘をつき、僅かに身体を起こす。見下ろす形となった王は目元を特に赤くして、胸をゆっくりと大きく上下させている。大きな乳房が僕の胸板と密着し、圧されていたせいで息が苦しいのだろう。
「身体はどこも痛くありませんよ」
「本当? 我慢してない?」
「痛いときは痛いと言いますよ」
 さも当然かのように言って、王は僕の背に手を回してきた。しかしその言葉はどうにも疑わしい。王は初めてのときも、痛がりこそしたが「痛い」とは言わなかったのだから。王はそんな疑念を抱く僕の首筋にちいさな頭を擦り付けて、優しい声で「よしよし」といつもの調子で囁いてくれる。
「おまえはいつも優しいですね。いいこいいこ。わたくしは優しい使い魔を持てて嬉しく思っていますよ」
 そしてそんな上位然としたことを言うものの、髪を下ろした王は幼い印象があるので妙にアンバランスだ。しかしそれはいつもの王の態度なので、幾らか安堵しながらその柳腰の下に手を入れ直す。王と体温差のある僕の手のひらにその薄い骨の……背骨と骨盤の感触がしっとりと吸い付いて、それがいつもすこしおそろしい。身体の大きな僕が圧し掛かれば、たちまちに砕けてしまいそうな骨なのに、王は実際平気だし、平気そうにする。それが無性におそろしいのだ。
「ねえ、こういうことするの、僕に対する餌やりだと思ってる?」
 どこかで怯えながら、現に僕に餌をくれている王に問う。
「その認識はありますよ」王は頷いた。
「じゃあ、仕方なく僕に抱かれてる?」僕は追求する。
 怖いのに、真実を暴こうとする欲求を止められない。まるで性欲だ。
「ええと……『おまえに餌を与えたい』『おまえにぎゅっとされたい』『おまえにすっきりして貰いたい』というのは、おまえではなくわたくしの、主体的な欲求であり、言ってしまえば願望なのでは……? それを昇華するためにうってつけの手段がこういうかたちであるのなら、あるいはそれでしかないのなら、それを選ぶのは至極当然のことでしょう」
 僕ではなく、天井を見上げながら王は答えてくれた。揺さぶられながらもひっそりとつめたいその胸に僕の汗が滴って、透明に汚れる。
「……非常に整然としたご意見だ。感謝と、支持を……」
 語尾の掠れた僕の喉からは混沌の滲む唸りが漏れる。ほとんど獣と同じ声帯の震えが、全身の骨に伝播して、骨盤を伝う電気信号とリンクしていく。どろどろに融和していく。快楽とは汚いのだ。沈泥のようなテクスチャで、美しくなく、いっそ醜い。こんなにも美しい王にそれをぶつけるのは冒涜だと思うのに、王でしかその汚穢を雪ぐことができないという、難儀な性質も持ち合わせているから、僕はただひたすら清廉なる王に縋るしかない。
 たまにそんな自分に嫌気が差して外で処理をしてくるときもあるが、決まってその後更なる自己嫌悪に陥る。僕は最低だ、と何度も唾を吐く度に色々なものが絡まって、巻き込んで、一個の大きな黒泥になって、動けなくなる。欲望が持つ油性。己が己であるだけで生じる粘性。美しいものに綺麗さっぱり壊されてしまいたいという脆性。それらが混ざりあったその泥と向き合うとき、それは黒い犬の容をとって僕を威圧する。
「まぁ、他に済ませたいタスクがある際に捩じ込まれると、優先順位を精査する時間がほしいとは感じます」
 そんな僕の逃避願望に突かれながら、しかし王は冷静に指を動かす。まるで空に数式でも描くかのように、はたまたコンダクターのように。ふたりぶんの熱、あるいは僕から垂れ流された黒が延びたこの虚空に一体なにを記しているのだろう。
「それは申し訳、ない……」
 余裕のない声。謝罪の色を帯びないただの情欲まみれの音が、言葉の意味を掻き消しそうで、それが堪らなく許せないが、今はもう本能がただ堪らなくて堪らなくて。もう泥に飲まれる。
「では、はやくもう一度ぎゅっとしてください」
 焦燥と諦念でごちゃごちゃになっている僕に、王はそんな緩急の狡いことを言って、天に向けるかのように、その白い腕を開いた。天使か、神か。いや、花か。
「え、ああ、はい、ぎゅっとね」
 王の聖なるおねだりに惚けた返事をして、その腕の間を通って僕は再び肉体を王の上に沈める。つめたい肌だ。僕の体温の移った、ほんのすこしだけ温い肌。
「あと、そこ、もっとしてね、ラドレ」
 そして唐突に可愛いことを言う王の、にこりと可愛い笑顔。惚れた身として、これに絆されないわけもなく。
「くうう、負けた……」
 王の狭苦しい肩に額を突っ伏すと、躁鬱状態の敗北を宣言した。この件についてはもう、病ませては貰えない。論破で憂鬱への意欲を消し飛ばされてしまったのだ。もう泥もない。
「負けてもいいから、がんばって?」
 遠回しに満足させろと命じる王の、ちいさな膝をひとまとめにして抱く。気合を入れろ、と己に向かって念じながら体勢を整えたら、あとは我が王に「愛してるよ」と宣誓するだけで、僕はどうにかこうにか、やっていける。

「王ちゃん可愛い、王ちゃん元気、王ちゃん強いぞ、王ちゃん最高」
 今日は僕が歌をうたう。呆れるほど単純な男が歌をうたう。
 僕に引かれた手を大きくスイングされている王は若干疲弊した様子だが、それでも「二番もどうぞ」と合いの手を入れてくれた。
「えっと……王ちゃん僕の、王ちゃん僕の、王ちゃん僕の、僕のだよー」
「三番は結構ですよ」
「えー。はーい」
 そんな会話をしながら改札を抜け駅を出る。やって来たのは、廊坊市だ。滞在しているホテルのある石家荘市から高速鉄道で数十分。距離にしておよそ三百キロメートルといったところだが、二十年代に高速鉄道での所要時間が一時間を切るようになってからはめきめきとその時間的距離を縮めているらしい。そのまま鉄道にもう少し揺られていれば、国の直轄市である大都市北京に到着する筈だが、今回は途中下車だ。北京や天津の手前なこともあるのか中々の発展具合で、まだまだ明るい夕空に都市の輝きが満ち満ちていた。
「今日のおまえは、なんというか、ずっと犬ですね」
「そう? 僕はずっと王の犬だよ。ブリテンのコーギーにも負けない寵愛を受けているよ」
「はいはい、寵愛ですよ」
 寵愛。嬉しい響きの言葉だ。今は尻尾はないが、激しく振りたいぐらいの気持ちになってしまう。幻肢ならぬ幻尾がバタバタと振れるのを感じながら、腕に王の手が絡むのを感じてそちらを見れば、黒いレースのマンダリンドレスをその身に纏った王は普段よりも濃い色のリップをして麗しい。出発前に「この中から好きなの選んで」と三本の中から選ばせたのだが、王は意外なことにも色彩感覚に優れているようだ。薄々と感じ取ってはいたが、自分に似合うものを理解している節もある。
「んん?」
 ふと、王が往来のなか立ち止まった。それに気付いて半歩後ろを振り返ると、王はひとり小首をぐるんと傾げている。
「どうしたの。おなかとか腰、痛い?」
「いえ、なんでも……」
 僕の問いに、王は今朝と同じようにふっと唇から力を抜くことで二の句を封じたようだった。その瞬間の唇といえば、雨粒を垂らして揺れる花弁のように儚く揺れるものだから、やけに視神経に残る。
「それ、やだな。悲しくなる。僕にならなんでも話せるって思って欲しい」
 交尾が達成されたことで幾らか気が大きくなっているらしい僕は、そう言って強気に王の手を掴んだ。事が済むとテンションが上がってしまうのが僕の悪い癖である。
「……いえ。ただ、瘴気の香りが。ええと、クチナシと……苺かな。一瞬だったのですが」
 片手で額を押さえながら、王は話してくれた。嗅覚なのに頭を? と疑問に思ってしまうが、もしかして頭痛でもしているのだろうか。
「なんか可愛い香りだね。女の子かな。まぁ、北京も近いし、これだけの都市なら同族の一匹二匹はいるんじゃない?」
 いや、一匹二匹ではなく、もっといてもおかしくはない。
「それもそうですね。強い個体だと良いのですが」
「また求婚? まったく、今日は僕とデートなんだからね」
「デート?」
「そう。火鍋デート。パンダ師父と仙鶴大姐みたいに」
 僕だけのことを考えて欲しくて念を押すと、途端に王は目を最大限に大きく見開き、今度こそ地面に縫い付けられてしまったようだった。不思議に思って「ユアマジェスティ?」と呼び掛け肩を抱くと、王はぱっと僕を見上げた。
「デート。デート……ですか?」
「うん、デートですけど」
 驚いた。王の目が泳いでいる。それどころか、唇も震えている。心做しか、耳がほんのりと血色を帯びているような。
「あっ、あの、ええと、知っていますよ……先程も言ったように、手を繋いだり、一緒に食事をしたり、どこかしらで遊んだりするあれのことですよね。もちろん。知っていますよ。わたくしは王ですからね。おまえの信じる威光ですから」
「うん……そうだね?」
 普段は幾らでも待つ心構えでいなければならないほどおっとりとした王の口調が、途端に幾らか早口になったので疑念を抱く。これはもしかすると、焦っているのだろうか。
「知識はあります。ありますよ。参考書を読んだことはありませんが、だいたい……どのようなものかは、ええ。ですが……ええとですね、練習を、していないので……今日はデートはできません。練習をしてから、改めてしましょう」
 珍しく困惑した様子の王は、密着していた僕の脇腹をぐいと押すと、するりと腕の外へと抜け出してしまった。現時点で王の言葉の意味が上手く飲み込めていない僕は、咄嗟にその腕を捕まえる。
「えっ? 今更?」
「も、申し訳なく思います。……こんなところまで着いて来てしまったのにキャンセルなどと……」
「違うって。いや、今更が掛かっているのはリスケじゃなくてデートのほう。だって、今までだってたくさんデートしてきたじゃない。数え切れないほど手を繋いだし、ご飯食べたし、遊んできてるのに。練習もなにもないよ。失敗が嫌なのかもしれないけれど、ちゃんとできてるよ?」
 もしかして王は今までずっと一緒にいたことそれ自体を、ただの一度すらデートとして認識したことがないのだろうか。
「んん? おまえがデートだと宣言したことがありますか?」
「えっ、宣言、いるの?」
 口ではそう言いつつも、背筋に冷たいものを感じる。交尾について同意を取れと口を酸っぱくして教えておいて、デートの同意は取らなくていいなどというのは、矛盾している。そう思った刹那、王は予想通りに頷いた。
「いりますでしょう。デートとは、あれですよ。手と手が重なってトキメキなるものを得たり、横顔を見てキュンなるオノマトペを発生させたりするやつですよ。暴漢が出てきたときに撃退するとかも、見たことがあります」
「うーん……いつもしてるけど。ていうかキスもセックスもしまくってるじゃん。なにが怖いの? 簡単だよデートなんて」
 矛盾を承知でそう言ってみる。それは勿論、肩の力を抜いて欲しいという意図で発したものだが、王はどこか納得できないらしい。僕の手を振り解いて、ぎゅうぎゅうと力んで拳を作った王は、その勢いとは裏腹になにかに怯えているのかマイナス記号型の瞳孔を左右に細かくふるわせた。
「失敬な。怖くはありません。そうではなくて……そんな、デートをするなんて、ロールプレイだとしても予習をしておかないと。勉強して心構えをしておかないと。おまえを満足させてあげないと。だって、デートだなんて、まるでおまえがわたくしのことをスキ、みたいではないですか。その感覚は、未知です」
 その言葉に、は、と乾いた吐息が洩れる。
「なんでよ。そんなこと言わないでよ。僕、最初から王のこと……」
 大好きなのに。と、言いたかったが、腹の奥よりも先には出なかった。いつも好きだの愛してるだのと言って付き纏っている筈なのに、無性に悲しくて喉にビー玉が詰まったかのように苦しくて、ただただ顔を歪ませることしかできない。眼鏡のレンズの青が、黄昏の色を吸い込んで黒くなった気がした。
「……おまえ、兄様とデートはしましたか」
 ふと、王が口を開いた。
「……今の王の基準で言うなら、してないね」
 そもそもあの人は、王宮から殆ど出たことがない筈である。それに、ふたりで過ごした時間は、僕の生のなかではほんの一瞬の出来事だったのだ。
 デートとか、したかったな……と思うと無性に苦しくて吐き気がした。
「……ならば、わたくしは。おまえとデートはできません」
「なんでよ……してよ。僕、あの人とデートしたことないよ。さみしいよ。そのうえ王ともデートできないなんて、嫌だよ」
「兄様がしたくてもできなかったことを、わたくしはすることができません」
 きっとそれは、叫びだった。しかしそれを受け止めるより先に、僕の腹からは強い語気を帯びた言葉の羅列が飛び出す。
「じゃあなんで僕と火鍋食べたいって言ったの。それはどこの処理場からのアナウンスだったの。僕ちょっと期待したよ。愛の処理場から聞こえてきたんじゃないかって」
 すると、王が明らかに狼狽えたのがわかった。ピンクのネオンライトに照らされているのに、初めて見るほど悪い顔色を俯かせて、う、と僅かに呻く。きっと吐き気がしているのだろう。自分にない感覚を何度も何度も強要されて、流石に精神的に痛手を負ったのではないだろうか。
「……火鍋処理場です」
 すこしの沈黙のあと、王は俯いたまま言った。
 それがあまりにも喉奥から命からがら絞り出したような声で、僕はそこでようやく冷静になる。僕は王を傷つけてしまったのかもしれない。しかしそれでもこの訴えを無かったことにはできなくて、一旦細く長く息を吐くと、王の下がった肩に手を置いた。
「……それは、愛の処理場のご近所? 位置関係、教えてくれる?」
 すると王は、ゆっくりと顔を上げた。
「ご近所です」まだ狼狽を引き摺った表情が露わになる。「斜向かいです」
「そっか。斜向かいか。両処理場間にある道は広い?」
「それはもちろん大型車両がすれ違える程度には。搬入がありますので」
 僕の無茶振りにも、王は瞬時に対応してくれた。ふたりの脳内に情報を元にした地図が浮び上がるのが解る。
「近いね。……頑張れば、合併吸収できる?」
「売上高によります」
「決算いつ?」
「春頃……?」
「参考までに、欲望処理場はどこ?」
「工業地帯の……奥。大きな幹線道路の向こうです」
「遠いな。よし。取り敢えず火鍋食べに行こう。デートじゃなくても、練習でもそうでなくてもいいよ。ご飯食べよう」
「……よいのですか」
 王はどこか傷付いたような顔のまま、僕を見上げた。おそらく、僕を気遣ってくれているのだろう。
「よくないよ。でもとりあえず火鍋処理場に移籍したい。行ってみるよ、ターレに乗ってさ」
 笑いながらも、心のどこかがじくじくと痛い。しかし僕たちはたくさん対話をしなければならないのだ。これから先の時間を輝かしいものにするために必要な建設的なこと。時折交える過去のどうしようもないこと。それらよりも大切なかけがえのない雑談。今までずっと、話せなかったことを。そう決意して、優しくて僕に優しくなかったりもする王の手を握った。

 予約の時間が迫っていたので、僕たちは少し早足で店に向かった。周囲は高級店が軒を連ねる地域だが、今回は敢えてカジュアルな店を選んで予約をした。箸が苦手な王に幾らかリラックスして欲しかったからだ。
 そして到着したのはグルメ情報アプリに記載があった通りにテラス席が豊富な店で、ウェイターによって往来に面した角の席に通される。外装も内装も落ち着いたトーンで、雰囲気が良い。辺りをざっと確認してから王の向かいの席に腰を下ろすと、他の席から漂うスパイシーな火鍋の匂いと夏の木花の香りが混ざり合って、夜が一層濃くなった気がした。
「この辺りは西安よりもずっと涼しくて過ごしやすいね」と僕が言うと、王は「そう、ですね。おそらくは」とまだ少しぎこちない様子だ。開いてみたメニューは写真付きだったので王に渡して「王が食べたいものを食べよう」と促すと、王はゆっくりとページを捲り始めた。
「火鍋……以前ニューヨークで食べましたね」
「あったねえ、そんなこと…王がワンピース思いっきり汚してさ」
「箸を手に取ってから日が浅かったので、むずかしかったのです」
「まぁ……あの頃よりは王の箸の持ち方は上達したよね。でも一応フォークとスプーンも貰おう」
 ふと、王がページを捲る手を止めたのでそのページを覗き込むと、燃え盛るフォントで大きく「火鍋鶏フーグゥオジー」の文字。説明書きによると隣の滄洲市で生まれたご当地グルメらしく、この店では夏の期間限定で提供しているようだ。
「この火鍋の後ろに付いている字はね、ニワトリって意味。ここのところ豚や羊ばっかりだったから、いいかもね」
「では、これがいいです」
「お酒は?」
「おまえと同じものを」
「了解。じゃあビールにしようかな」
 店員を呼び、注文を済ませるとすぐにビールが運ばれてきた。サービス品なのか、アミューズなのか、いつの間にか小鉢も置いてある。その中身は鶉の卵の煮込みで、屋台でも売っていたりする僕の好物だった。味付けは主に醤油と八角で、豚肉と一緒に煮込まれることもある。
「はい、じゃあ乾杯ガンベイ
 まずは乾杯を済ませ、ビールを喉に流し込む。ひとくちふたくち程度でジョッキを置いた僕とは対照的に、王は一気に飲み干すとぷは、と聞き慣れた吐息を聞かせてくれた。
 本当に王は酒に強い。酔わせてどうこうする、という悪人どもの手が通用しない点では安心できるが、飲んでいる最中は起きていること自体に飽きやすくはなるらしく、クローズドな環境下の場合には唐突に眠ったりもする。そしてこの飽きには同席者の有無も関係しているらしく、屋外であることと僕がいることが重なれば絶対に眠らないので、僕が酒量に気を付けている限り王は何杯飲もうと安全ということだ。
「もう一杯……だめ、ですか?」
 なんだか妙にしおらしい王が可愛くて、もう一杯注文してやる。僕も一気にジョッキ空けて追いつこうとすると、王は「こら」と僕を柔らかい声で叱った。
「おまえは弱いでしょう」
「弱いわけじゃないよ。王は自分を基準にしてるからそう思うだけ」
「知っていますよ。おまえは、会食や接待ではいくら飲まされても平気だってことを。しかしそれは理性でどうにかできているだけなのですから、無理はしないでください。わたくしはおまえが眠っても浮ついた行動をしても抱えて帰ることができますが、ヒトの目には奇特にうつるでしょうから」
 そう言われてしまっては、一気飲みなどできるはずもない。大人しく持ち上げていたジョッキを置き、鶉の卵に手を伸ばした。すると王はにこりと笑って「グッドボーイ」と褒めてくれる。そうだ、僕はグッドボーイだ。一番いい子で一番可愛いのだ。またしても尻尾を振りたいような気持ちになりながら、テーブルの水面下で王の脚を脚で捕まえようと、見えない猟を繰り返しているうちに、ワゴンに乗った火鍋鶏が運ばれてきた。
「まあ、綺麗ですね」
 王が喜びの声を向ける先には、一本足の土台つきの鍋。煙突つきのそれはよく見るステンレス製のシンプルなデザインのものではなく、緑色に塗られ花の装飾が至るところにあしらわれている美術品然としたデザインのものだ。そしてそのドーナツ型の溝にはたっぷりと溢れんばかりの鶏、鶏、鶏。見るからにシビ辛そうな麻辣をまとったそれらは、濃い夜にも負けない熱い湯気を立てていた。
「わ、匂いだけでもう舌がシビシビしてきた」
「なんだか……香りの底のほうに香ばしくさっぱりとした感じもありますね。穀物でしょうか……? イネ……いえ、それだけではないような」
 流石は王だ。視覚ハウンドとはいえ犬である僕よりもずっと嗅覚が鋭い。身を乗り出して匂いを確認している王を見て、追加のタレとスープをテーブルに置いたウェイターが口を開いた。
「それはおそらく老陳醋ですね。簡単に言えば熟成黒酢ですが、紅コウリャンを主原料として長期熟成したものが老陳醋です。コク深い味わいが特徴で、美容にもとても良いとされているんですよ」
 どうやら英語が話せるウェイターらしい。それが地道な努力によるものなのか、それともBMIによるものなのかは傍目には不明だが、それでも話し掛けてくれたことを王は快く思ったらしい。「ふふ、それは素敵ですね」と美容に微塵も興味がないくせ彼に向かって上品に微笑んでみせた。そしてそんな王の麗しさに固まってしまった彼に「ビールをもうひとつ」と言って石化魔法を解いてやっているその慈悲深い姿を含めた一連の流れに、ひどく嫉妬心を煽られる。
「なんだよ。色目使っちゃってさあ」
 しかし今日は可愛くいこうと片方の頬を膨らませてみせると、王は箸を手に取りながら「イロメ? とは」と首を傾げた。
「誘惑する目付きのこと。王の場合は不可抗力かもしれないけれどさ、見てる側は不安ですよ」
「……そういうのは、おまえのほうが得意なのではないのですか? ぜひお手本を」
 そう言われて見せない訳にもいかなくなり「しょうがないなあ」と思ってもいないことを洩らしつつ眼鏡を外した。それから王を見つめて普段の感じで色目を使ってみる。だが、僕の魅了スキルは王に効かないので案の定「あら、うるわしいですね」と赤子をあやすような声で言われたうえに拍手を返されてしまった。
「うーん、やっぱり無理かあ。残念……」
 相手が僕より強い相手か一部特殊事例でなければ、一瞬で虜にできるのだが、流石に相手が悪すぎる。しかしながら、王を魅了したうえでやりたいことなどなにもない。
「わたくし、おまえを褒めたのですが」
 そう言いながら、王は自分の皿を僕の方に押してきた。どうやら具を取り分けて欲しいようなので、レードルで掬った鶏肉を山盛りにしてやる。肉がごっそり消えたことで流動したスープに触れた鍋肌が、じゅわりと気味の良い音を立てた。
「僕が麗しいって?」
「ええ。おまえはうつくしい。なにをしてもうるわしいですよ」
 乱れた箸で鶏肉を突き刺して、王は言った。肉だけを見つめるその白と虹色を滑らかに孕んだ睛は、僅かに笑って僕をちらりと一瞥すると、羽扇のようにやわらかな帳によって伏せられた。そしてフルボディの赤に塗られた唇が、一瞬だけ剣歯を剥き出しにして肉を齧る。
「僕からしてみれば、王のほうがずっと麗しいよ」
「わたくしなどただ目立って白いだけですよ。白さではシャンスゥあたりと共通の話題がありそうですね」
「……他の男の話しないでよ」
「それは、デートのマナー?」
「エチケットだよ」
 答えながら、僕も肉を口に運ぶ。まず、痺れが舌を素早く伝って脳髄を刺激し、視神経を通って目の前で弾けた。その感覚に思わず「んん」と声を漏らしながら、まだ口の中のものを碌に咀嚼していないのにビールで胃に流し込む。
「結構、ビリビリするね」
「ああ、これはビリビリ、ですか」
「そうだね。シビシビ、とかでもいいかも」
「シビシビ、ビリビリ……面白い表現ですね」
「歌にしなよ」
 ひとくちめをじっくりと味わえなかったので、いそいそともうひと切れを箸でつまんで口に放り込む。ここ最近で食べたものの中で、最も熱く、辛い。鶏肉はぶりんとした歯ごたえで、濃厚な肉汁が溢れ出るのに、麻辣と老陳醋のお陰で爽やかな印象で、ニンニクが効いていることもあって箸が進む。スープは牛骨ベースだろうか。じっくりと炊かれたであろう雑味のない出汁が、調味料や生薬の数々と見事に混ざりあって、腹に落ちると途端に薬として機能しそうなほどの存在感を放った。ビールと合うカジュアルな風情も良い。これは、間違いなく夏の料理だ。食欲減退に打ち克つ漢方だ。
「王の口には合う? ハオチー?」
 箸に四苦八苦しながらもいいペースで食べ進めている王に、フォークを渡してやりながら問う。すると王はそれを断って、手を差し出すことで僕に持ち方を正してくれるよう求めて来た。
「ええ、ハオチーですね。ニューヨークで食べた火鍋とはまた違った味がします。あれも今思えば、ハオチーでした」
 その言葉を聞きながら箸を直してやる。何度だって直してやろうと心に決める。
「向こうに帰ったらさ、また行こうよあの店」
「みんなで?」
「……僕とふたりきりでと、みんなでと。向こうでも王に友だちができたら、一緒に行ったっていい。心配だけど、友だちとふたりきりでも。行きたくなったらいつでも行っていいんだから。あそこ深夜もやってるしね」
 僕がそう言うと、王は僕の空になったジョッキをぴん、と爪で弾いた。どうやらもう一杯飲んでもいいらしい。
 それから、最近王とユーファンがどういうやりとりをしているのかについてや、取締役ふたりが不在の弊社の動向について話したりして、追加注文した鶏肉もふたりで綺麗さっぱり平らげた。その間に僕に許された酒はビール三杯。正直まだまだ飲めるのだが、今日のところは王の言うことを聞くことして、ウェイターを呼んで会計を頼んだ。
「知っていますよ。デートではここで胸の膨らんだ個体がお化粧を直しに行くことでゴツゴツとした個体を立てるのです」
「そんな、支払いなんてどっちがどっちを立てようが、コイントスで決めようが割り勘にしようが、なんでもいいんだよ。ほら、リップ直しておいで。できる?」
「できます。おまえがやるようにやればよいのですから」
 得意げな顔で胸を張る王の背中をパウダールームに促してやり、ウェイターから渡された端末を操作してインボイス希望の欄にチェックを入れる。そのまま生体認証を……と思ったその瞬間、視界がブラックアウトした。

 あの花畑だ。星の表面では白い花が咲き乱れて。空は淡いピンクとパープルで。であればあの人がいるはずだと振り返れば、瓦礫の上に白い人影。
「ラドレ?」
 僕を見て驚いたように目を丸くした彼は、また作っていたらしい花冠を手にしたまま瓦礫の上から飛び降りると、僕に向かって駆け寄ってきた。その嘘みたいな光景に、思わず彼を抱き締めようと腕を伸ばすと、僕の数歩前で彼は急ブレーキを掛けたかのようにつんのめって足を止めた。
「うわっ、酒くさっ!」
 そう言って、彼は顔を顰めたのちにくしゃりと笑った。
「ひどいな……ハグさせてくださいよ」
 言いながら、嫌な浮遊感のある足元に吐き気がする。いや、彼の言葉通りなら地面が動いているのではなく僕が千鳥足なのか。
「いやいや、今は駄目だよ」
 王より高い背丈。王と同じく秀でた額。王ほどではないが眠そうに垂れた目尻。ああ、いつ見ても。可愛い。
「そんなあ……」
「キミ、酒に弱いだろう。本当は自覚もしてるはずだ。なのに一体どうしたんだい」
「あなたもあの子と同じことを言う……」
「双子だからね。そしてこれはキミへの問いだ。一体、どうしたんだい?」彼は僕の手を取った。ひんやりと柔らかい、慣れた感触だ。「考えるんだ。キミはどうして、そうなった?」
「ええと、ビールを三杯飲んで……」
 ずきずきと痛い額を擦りながら、彼の言葉に促されて泥濘んだ思考にエンジンを掛ける。動け、動け。
「いくら弱いと言っても、キミは三杯程度で寝たりしない」
「寝る……?」
「そうだ。僕は夢だ」彼はそんな悲しいことを言う。
「酒になにか盛られた……?」
「誰に?」
「可能性は……あのウェイター? でも彼は」
「人間が盛るようなものでキミが倒れるかい」
「……人間、じゃない誰かに、」
「そうだ。だとすると今はフーダニットより重要なことがある」
「……王が危ない」
 そうだ、と彼は頷くと、僕の背中を力強く押した。
「走れ! 僕の騎士! 僕の愛をまるごと頼んだぞ!」
 走る。言われて、走る。視界がどんどん歪んでいく。白い花。血痕。瓦礫。血痕。空、空、空。あの人が恋しくて振り返りたくなる。本当は、会えたら訊きたいことがあった。
「あなたは僕との子どもが欲しかった?」……でも今は駄目だ。なんせ僕は、酒臭い。

「王!」
 飛び起きる。途端に痛んだ頭を抱える。なんとか辺りを確認すると、あの火鍋屋のあのテーブルだった。ほんのついさっきと全く同じ光景。火鍋だけが下げられたテーブル。向かいの席に、王がいない。
「お客様、お加減は大丈夫ですか?」
 先程と同じウェイターが、水の入ったグラスを手にして僕の顔を覗き込んだ。洗練された所作をしているが、どう見ても純朴そうな青年だ。薬を盛ったのは彼ではない。
「……どうもご迷惑を掛けたようで。僕はどのくらい寝てました?」
 額を擦りながら彼に問うと、彼はこういう客にも慣れているのか穏やかな眼差しを僕に向けた。
「ほんの十分、十五分ほどですが……会計を終えられたあとにいきなり頭を抱えられまして、何度も大丈夫と仰られましたのでしばらくそっとしておこうかと……覚えていらっしゃいます?」
「いや……すみません、酒に弱くて。一緒にいた子は?」
「お手洗いのほうに行かれたままですが」
「失礼、男女共用?」
「三つあるうちのひとつはそうです」
 であれば男女でそれほど離れてはいないはずだ。パウダールームが独立しているとしても近いだろう。
「誰か変な挙動の人を見掛けたりは?」
 立ち上がりながら、彼に問うが「テラスの向こうにハスキー犬がいました。野良ですかね」と的外れな返事。
 そのまま早足で教えて貰った道順を辿ると、じわじわと燻る焦燥の通りに、すべてのレストルームとパウダールームが空だった。王が、いない。
「本当にお姫様だな……! 桃缶姫め!」
 思わずそんなことを吐き散らしながら、走ってテラスの手摺りを飛び越え、店を出る。背後から大丈夫ですか、とあのウェイターの声が聞こえたので振り返って「大丈夫、ありがとう。美味しかったよ、火鍋と卵」と言うと彼は「卵?」と首を傾げたので違和感があったが、それには構っていられず、走り出す。しかしあてがない。であればと人気のない路地に駆け込むと、獣形態へと変化した。この姿なら鼻も効くし、ヒトより速くても怪しまれない。しかし一番確実なのは、王が僕の名前を呼んでくれることだ。今日ぐらい、せめて普段なら絶対に狼狽えたりしない王が、傷ついた顔をした今日くらい。僕の名前を呼んでくれたって。
 走る。首輪をした犬が走る。王の花の香りを辿って。犬の体重にビール三杯の影響はきつく、何度も吐きそうになりながら走る。野良犬では有り得ないアフガンハウンドが。麗しくていい子で可愛い僕が。人混みを縫い、クラクションを浴び、罵声に耳を巻いて。走る。
 どれだけの距離を移動したかは覚えていないが、まだ市内の筈だ。やがて辿り着いたのは白壁にきらびやかなプロジェクションマッピングが投影された巨大な施設……演劇電影城だった。夜空に浮かぶまばゆい紅楼夢の世界観。夜だというのに溢れんばかりの家族連れ。フォトスポットにカップルの群れ。雑踏に立ち尽くしその巨大な城を見上げていると、警備員と思しき人と目が合ったので咄嗟に物陰に隠れた。
「うーん、人型形態に戻るか……?」
 少なくとも、王はここにいるという匂いがする。考え込んでいると「おい」と唐突に背後から低い声がした。
「まだそのままでいろ。そのほうが都合がいい」
 咄嗟に振り返ると、そこには青い目のシベリアンハスキーが……いや、狼が、いた。喋ったということは同族なのだろう。ハウンドである僕よりもずっと精悍な顔付き……と、言ったって所詮イヌ科の顔だ。きっと人型形態なら僕の方が男前に違いない。そんなことを考えつつ「誰?」と呼び掛けると「お前より酒の強い男」とふざけた返事があった。
「街を歩いてたら火鍋の店に美人がいてな、目の保養だと思って眺めてたんだ。そしたらなんだ、同行者の酒ザコ男は潰れて、白い方の子はなにやら脅されて拉致られたと来たもんだ。……俺は一応、目立っちゃいけない身の上でね。その場で手を出せなかったにせよ、あのまま放っておくのも寝覚めが悪いと思ってな。お前より先に奴らを尾行したってワケだ」
 ハスキー犬がいた、とあのウェイターが言っていたのは、彼のことなのだろう。王に見蕩れていたという部分に突っかかりたい気持ちを堪えて「そりゃあ……」と肩を竦める。「どうも。保険はあればあるほどいいし」
「ザコがよ。どんだけ酒弱いんだお前」
「それ言われるの今日三回目だから聞き飽きたよ。弱くないし。ていうか酒じゃないし。一服盛られたんだし」
「対毒耐性無いのか? それともタマネギかチョコレートでも食ったのか?」
 この時点で察した。こういう伊達男風味の言い回しをするイケメンは、僕と気が合わないタイプだと相場が決まっている。
「タマネギは食べられるし、チョコレートは好きだよ。じゃなくて……犬の姿で都合のいいことってなに?」
「そりゃお前」今度は彼が肩を竦めた。「入場料が掛からないだろ」
 傍からはクゥンクゥンキュウンキュウンと聞こえていたであろう話し合いを終えて、建物の裏手、一階部分の天井辺りに巡らされているであろう狭い排気口に飛び移り、匍匐前進で進む。掃除なんて滅多にしないであろうそこを進むことで艶やかと自慢のロングコートが汚れていくのは勿論我慢ならないが、目の前の狼のふさふさとした尻尾が顔面に当たり続けることはもっと不愉快だ。後で人型形態に戻ったら思いっ切り撫で回してやる……と思いながら彼に続き、人気のない展示室を見付け、そこで飛び降りた。暗い部屋にプロジェクションマッピングの蝶が飛ぶ、その展示の説明書きの上部には『第二十七回』の文字がある。
「これ……もしかしなくても百二十部屋まであるやつ?」
 人型形態に戻りながらそう呟くと、彼は狼の姿のまま「紅楼夢ならまぁ、そうだろうな」と答えた。僕が戻らないの? と問いながら撫でてやろうと彼ににじり寄ると、狼はなにやら小さく溜め息を吐いてから、その姿を変化させた。
「わ、わぁ……」
「なんだよ」
「僕の、嫌いなタイプー……」
 まず、氷のように透き通った青の双眸が目についた。不機嫌そうな目付き。目蓋に重なる太い眉。すっきり通っているが骨の強そうな鼻筋は、殴られても鼻血なんて出さないだろう。薄い唇、固そうな顎。無骨な印象のくせ『甘いマスク』という表現が妙にしっくりくる。それから、ぶ厚い肩に胸板。他の部位と比べて比較的細くはあるが、がっちりとした腰周り。長い長い脚。背丈こそ僕に若干及ばないものの、それでも誤差の範囲だろう。良く言えば美丈夫。悪く言えば、顔の綺麗なゴリラ。そんな姿をした男は、僕に冷たい眼差しを向け、
「なんでお前に好かれなきゃならない」
 と、ぶっきらぼうに吐き捨てた。 
「わぁ、嫌ーい」
 その態度に、僕もつい拍手をしてしまう。
「気が合うじゃねえか。つかお前、嫌いなもの多いタイプだろ。卑屈そうな目を見りゃ分かる」
「大体のものは嫌いだね。理由なく嫌い。君のこともなんとなく嫌い」
「フン。まぁ、いいんじゃねえか」
「そういう公平ぶってるのも嫌い」
「ぶってるんじゃなくて公平なんだよ」
「公平なもんか。側頭部刈り上げてる奴が公平だったことは一度もないよ」
「そこまで言うなら具体的な作品名を挙げろよ」
「女性版スペクター・バスターズ……」
「おい、その刈り上げは信頼はできる刈り上げだろうが」
 大男がふたり、胸倉を掴み合って言い争いをしているこの場所は、先程まで人がいなかったとはいえ展示室だ。何も知らぬ子どもが駆け込んできて、僕たちの声を聞いてびくりと肩を震わせ泣きながら引き返していく。それを見て「やめよう」と提案すると「お前が始めた戦争だろ」と道を極めた人のようなことを言われた。
 その後も小言の応酬をしながら先に進んだ。公演中の劇場も含めて王の姿や攫った犯人と思しき姿はどこにもなく、とうとう百二十番目の部屋までやってきてしまい、ふたりとも情けなく立ち尽くす。どうにも犬二匹、インスタレーションの一部として空間に噴出されている香りと、王の香りが混ざりあってしまって特定が難しくなっているらしいが、曲がりなりにも僕は視覚ハウンドなので一旦嗅覚は捨てることにして辺りを見渡しながら捜索する。だが視覚的にも聴覚的にも手掛かりは無いどころか、そちらの面でも空間全域に這う光のアートやスピーカーから響く音楽といったものがしつこく僕たちの感覚を狂わせてくるからあてにならない。とんだデジタルアートミュージアムだ。しかしそうなると手掛かりはバックルームにあるとしか考えられず、閉館のアナウンスに紛れて倉庫と思しき部屋に潜むと、人々がいなくなるのを待った。
「名前、なんていうの」
 暇を持て余して、仕方なしに問う。すると狼はフン、と鼻を鳴らして「人に名を……」と言い掛けたので、食い気味に「僕はラドレ」と名乗ってやった。その名乗る順番云々のテンプレートが、僕は大嫌いだ。そんなのはどっちだっていい。
「……ふーん。まぁ、俺は名乗れないんだが」
「は? ふざけんなよ。返せよ僕の名前」
「言っただろ。目立てないって。任務中なんだ。コードネームで呼び合うような仕事だから、名前もコードネームも名乗れない」
 狼は肩を竦めながら大きなストレージボックスの上に腰を下ろした。僕も座れる場所があるなら座りたいので、ひとりぶん離れた位置に座る。
「守秘義務には理解を示すよ。でもなんて呼んだらいいか困るから、ファミリーネームでもミドルネームでも、偽名でもいいから名乗ってよ」
 すると、狼は眉を顰めながら、心底嫌そうに口を開いた。
「……ハリエット」
「ハリエット? 女の子の名前じゃん。あ、ファミリーネーム?」
「うるせえ」
「まぁ、キミの香りはなんだか可愛い感じだし、似合ってるよ。クチナシと……苺……あれ?」
 つい最近、耳にした組み合わせだ。どこでだろう……と考えながら眉間を指で圧す。吐き気は治まったが、頭痛は続いていた。
「クチナシは瘴気。苺は……惚れた女の好きなモノだ。可愛くて悪いかよ。これでもガキの頃は美少年だったんだ」
「やっぱり美少年ってすぐ死ぬよね。寿命一瞬でさ。あとに残されるのは成長痛の化身みたいに可愛くないやつ。まぁ僕は今でも可愛いんだけど」
「お前な……」 
「でも……好きな人の好きな物に感傷を抱く感覚は、理解できるよ。僕も刺青にして後生大事にしてる」
「ふーん……あの白いお嬢ちゃんのか」
「それは……」
 お嬢ちゃん。女性体への愛称。ここでのお嬢ちゃんとは、形容詞からしても王のことだ。
「……どうなんだろうね」
 僕が呟いたその瞬間、右手の人差し指が痛んだ気がして、見下ろす。あの絆創膏の刺青が、ちくちくと痛い……と、自覚した瞬間、すっと鼻が通って顔を上げる。王の香りが明確に解るようになり、方向をを特定しようと倉庫内を見渡していると、狼と目が合った。
「……閉館してディフューザーが止まったか」
「そうみたいだね、行こう」
 ハリエットと名乗った男を促すと、彼は「ちょっと待て」と言ってなにやら背中をごそごそと漁り始めた。そして拳銃を二丁取り出し、内ひとつを僕に渡してくる。
「いいの? 僕素手でも良いけど」
「体力は温存しろ。これは任務だと思え」
 頼もしくそう言われて、受け取らざるを得ず、彼の手前素早くチャンバーチェックをして構えてみる。ハンドガンの中でも特に取り回しが軽快で使い易そうな逸品だ。
「使わなくても良いから捨てるなよ。ちゃんと返せ」
「はーい」
 返事をして、倉庫を出て行くハリエットに続く。前方から「クリア」と声が聞こえて来たので彼の背中で同様の報告をした。そして閉館後の真っ暗なミュージアム内をふたりぼっちの隊列を組んで走り出す。
 まず、紅楼夢の主人公である宝玉とヒロインの黛玉が口喧嘩をする回のエリアを抜けた。もうひとりのヒロインである宝釵と黛玉が仲を深める回もパスして、宝玉の花嫁に宝釵が推される回へ。それから、黛玉が宝玉の結婚相手は自分だと安心する回もクリア。宝玉も黛玉が相手だと思い挙式をするものの、相手が宝釵だと判明する回で立ち止まり周囲を確認。そして、黛玉が死んでしまう回へ……。
「人、いないね」非常灯だけが輝く静かな闇の中、僕は呟いた。「てっきりなんか組織的な誘拐かと」
「複数人いたけどな。お嬢ちゃんが拐われていくとき」
「なんて脅されてたの? 王がそういうのに屈するとは思えないんだけど」
 王なら、そのちっちゃな拳でパンチをするだけで事態を処理できる筈だ。力加減が上手くないので辺りは大惨事になるかもしれないが、王がたかだか『大惨事』だとかいうヒトの都合を恐れるわけがない。
「至ってシンプルだったぞ。この男を傷つけられたくなければ来い……ってな」
 この男。寝ていた男。情けない男。そんなもののために大惨事を回避しただと? にわかに信じ難いが、彼の言うことが嘘である可能性もまた低い。
「……くそ。これが火鍋処理場か。とんだディープスポットじゃないか」
 愛の処理場の斜向かい。欲望処理場から火鍋処理場へ移動せんと動き出したばかりの、酒に弱い男のために。我が王は自分を土産に手打ちにしたのだ。
「火鍋処理場?」
 狼が問うてきた。野生の犬が。
「僕たちの行きつく果てかもしれない工場」
 かもしれない、に願いを込めて。それから花束の香りを辿って劇場のバックルームに入る。すると衣装の掛かったラックが所狭しと並んだ、窮屈だが広い空間が現れた。
「今更だけどアンタ、BMI化してる?」
「してない。使うのは外付けのデバイスだけだ。でもしてなくても解るぞ。うようよいるな」
「衣装代の弁償……わあ、経理の子にどやされるぞ……」
 金勘定に身震いしながら、ハリエットと背中を合わせてゆっくりと進む。
「うちと折半でどうだ? 取り敢えず立て替えてやるよ」
「いやー、素性の知れない人や組織に立て替えられたくないですね」
 笑いながら、袖で鼻を押さえる。様々な瘴気の香りが混ざりあっていて吐きそうだ。つまり、様々な種族が一纏めに詰め込まれた空間ということで、そんな中で彼のクチナシと苺の香りが幾らか気休めになる。
「おい、俺を嗅ぐな。気色悪い」
 僕が鼻をスンスンと鳴らしていることに気付いたのか、ハリエットの肘が脇腹に突き刺さったが、筋肉で押し返してやった。彼が随分と大きな関節をしているのが感触で解る。
「じゃあ交換こね。僕のこと嗅いでもいいよ」
「結構だ。お前からは胸糞悪い匂いがする」
 なぜだか僕は彼に酷く嫌われているらしい。しかし犬なりに、匂いが臭いのではなく「合わない」と感じることには共感できた。経験上、匂いが合わないなら大抵のことは合わない。セックスも合わない。
「え? 香水はサンタマリアだよ?」
 惚けながら肩を竦める。こうして隙を見せてやっているつもりなのに、敵は未だに詰めてこない。痺れを切らせて油断させてやろうと雑談を続行するつもりなのは、僕だけではないようだ。
「香水じゃねえよ。単にロングコートの犬は好きじゃない」
「尻尾ふさふさの癖に…… 」
「別にいいだろ、尻尾ふさふさでも」
「後で触らせて。狼って触ったことない」
「断る。自分の尻尾でも追いかけてろ」
「ねえ。訊きたいんだけど、狼でも自分の尻尾追い掛けるのって楽しい?」
「そりゃお前……楽しいに決まってんだろ」
「あ、同じなんだ。なんでなんだろうね、アレ」
 まだ敵は攻めて来ない。肌感覚で死線に入っていると察知しているのに、動く様子がない。
「参ったな。先手を打たれなきゃ動けないよ」
 衆人環視の中、野郎と色気の欠片もない話を続けていることに気が滅入ってしまって、思わず誰にともなく呟いた。それにハリエットが「御社の方針の話か?」と返す。
「そう。右の頬を殴られてからじゃないと」
「左は?」
「両方はダメ。尊厳は守る。正当防衛でメシを食ってるから」
「ホームディフェンスでもねえのに正当防衛だのほざいてんじゃねえよ。……右を殴って来ないことの目的が遅延行為だとしたら、その妨害工作自体に一撃の判定は入るか?」
「うーん。まあ、一考の余地はあるね。屁理屈だけど」
「屁理屈でもなんでもいいから動けよ。向こうさんのテリトリーに女ひとり。男は足止め。何がしたいと思う?」
「あの子は女の子じゃ……ってまぁ、そこはいいか。変なことされそうになっても、あの子なら相手を殺しちゃうと思うよ」
「……馬鹿だな、お前。あのお嬢ちゃんの視点だとお前が人質に取られてるんだぞ」
 その言葉にはっとする。僕はいま王に守られて無傷でここに立っているのだ。
「……だめだはやく殺そう。社是はビリビリにしとく」
 心の中で破り捨てた社是の散り散りな欠片の残像が地に落ちる寸前……そういえばバカンス中だったことに気付いて、ああ規則もモラルもエチケットも関係ないのだとと思い直す。有給休暇中で社外にいる今の僕は社長ではないし、いま現在この胸を明け渡しているのは、単なる『王の騎士』としての矜持に対してのみだ。そうして一本芯が通った瞬間に、指先がトリガーを引いた。腕を貫く波状の衝撃。ヘッドショット。スパーク。妙にクリアになった視界でハリエットが不敵に微笑んだ。「大義名分も指揮権もお前に預けるぞ」と責任を僕に押し付けた彼の腕も発砲の反動を受ける。途端に動き始める世界。雑音。銃声。ハリエットの肩に手を突いてそのぶ厚い身体を飛越する。その向こうの敵に蹴りを食らわせ床に押し倒し、額に一発。寄って来た男の脛にタックル。馬乗りになったその胸の鞘から奪ったナイフで首を掻き切る。血飛沫が顔に掛かる前に上から飛び掛かって来た男の腹に一発。立ち上がりざま、頭に一発。潰れないのは電脳保護用のアタッチメントのせいか。ならばと拳を顔面に叩き込み、指を眼球に向かって押し込む。生温い感触。指に引っ掛けた通電用のコードを引きちぎり強制シャットダウン。汚れた手を拭きたくて掴んだ誰かの顔面。潰す。汚れる。体液に塗れた手をハンガーラックのドレスで拭って、ハリエットの背後の敵にナイフを投げ突き刺す。
「やるじゃねえか」
「もっと褒めて。褒めると伸びるタイプだから」
「甘ったれんな」
 まあいい。ご褒美なら我が王がくれる。ハリエットの背中を預かるようにしてそのままシューティングゲーム。ハンドガンなんてザコ武器だが、現実ではその辺に落ちていたりパッケージの中からドロップしないのだから致し方ない。
「ライトアモが必要だ」
 王とプレイしているFPSゲームを真似して言ってみる。
「ライトアモヒア」
 なんだ、こいつも遊んだことがあるのか。彼が投げてきた弾薬を受け取り、タクティカルリロード。その最中に詰めてきた敵のナイフをバレルで受け止めると、背後から「傷つけんな!」と鋭い声がした。
「ねえオタク? 銃オタクなの?」
 揶揄いながら、ナイフの持ち主の腕を掴んで握り潰す。悲鳴。
「オタクだろうとオタクじゃなかろうと人のモンは大事にしろよ」
 悲鳴が止まる。ハリエットが叫ぶ頭を潰したからだ。
「ああ、僕は人に貸すときあげるつもりでいるタイプだから」
「お前の主義はいま関係ないだろ。貸主を尊重しろ」
「そもそも貸してくれって頼んでないんですけど?」
 そのまま着実に敵の兵士たちを潰していく。希少種が混ざっている可能性もあるが、関係なく平等に。相手の銃を奪って。落ちたナイフを拾って。こっそり抜き取った警棒を口に叩き込んで。膝で骨を砕いて。ドレスで頸を締め上げて。
「お前、なんでも使えるんだな」
 物陰でリロードを挟みながら、ハリエットが言った。
「我が王がね、僕の誕生日に毎年武器をくれるんだ。色んな武器をね。そりゃ、使い方をマスターしないわけにはいかないでしょう」
「じゃあお前はお嬢ちゃんの誕生日に何を贈ってるんだ?」
「主に装飾品かな。飾りたい僕と武装させたいあの子。お似合いでしょう」
「……違うな。あのお嬢ちゃんはきっと、お前に剣を使って欲しくないんだよ」
「それ、どういう……」
 そう僕が口を開いた瞬間、すぐ背後で血と脳漿が炸裂した。ハリエットが不意打ちを防いでくれたらしいが、お陰で顔面が大いに汚れてしまい、礼より先に「ふざけんなよ!」と叫んでしまう。
「僕の綺麗な顔が!」
 袖口で顔を拭うが、袖口も既に血塗れで思わず舌打ちをした。仕方なしにハンガーに掛かった黛玉のドレスを手に取る。
「顔は綺麗だな、うん。性格最悪だけどな」
「顔綺麗で性格も綺麗とかキモすぎでしょ。自然の摂理に反してる」
「あのお嬢ちゃんは顔も綺麗で性格も綺麗だろ」
「あの子たちは特別なんだよ。培養された奇跡だから。美しくて当然なの」
 僕たちが悠長に話している間、追撃が来ないのでこの控え室は制圧したに違いない。ひと息入れながらドレスで顔を拭いている僕の隣で、ハリエットが指でピアスに触れているのを見て見ぬふりをする。おそらく、どこかと連絡を取っているのだろうが、僕には無関係だ。
「……劇場だろうね、場所は」
 瘴気の芳香のする方へ顔を向けると、ハリエットも頷いた。
「さっき見えなかったのは、頭上のロイヤルボックスシートにいたからだろうな」
「同意するよ。でもまあそりゃ王なんだからロイヤルボックスにいるよね。灯台下暗しってやつだ」
 銃に弾を補充して、控え室を出る。なにかと照合したのか、それともナビでもいるのか、ハリエットが「左の階段上って右だ」と教えてくれるので進もうとすると、背後から銃声が聞こえてきた。振り返ると、咄嗟に腕で弾丸を受けたらしいハリエットが控え室に向かって発砲を始めたところで、どうやら追手がいるような緊迫感が伝わってきた。
「ちょ、大丈夫……?」
「袖にプレート入れてるに決まってんだろ。グズグズしてねえで行け」
 吐き捨てるように言って、彼は顔に向かって来た弾丸を素早く躱す。
「え、死亡フラグ立てないでよ! 待って、今銃返すから」
「要らねえよ! やるつもりで貸してるからな! とっとと行け!」
 ここは食い下がる場面ではないことは、解る。ヒトの作る創作物ではお約束の別れのシーンだ。ここで本当に死ぬか死なないかは、きっとそのキャラクターの運命力によるのだろう。つまりここは、物語の分岐点なのだ。
「……ばーかばーか! ドレス代折半なんだから死ぬなよ!」
 舌打ちをしてやりたかったが、舌が縺れたせいで気持ちごと飲み込むほかなく、彼に背を向けて走り出す。背後から「銃はもう傷つけんなよ!」と聞こえてきたが、保証はできなかったので返事はしなかった。

 ロイヤルボックスシートへの出入り口にいた、ふたりの厳つい用心棒のうち、ひとりに陰から飛び掛ってその首を掻き切り、もうひとりは絞め落として眉間に三発。そして扉を蹴り開けると、構えた銃口の先には王と見知らぬ男がいた。外の惨状とは打って変わって穏やかな雰囲気でテーブルを囲んでいるようだが、王の表情が執政時とそっくりそのままであることに僕が気付かないわけがない。硬質な微笑。あの頃、僕にも向けられていたその微笑には、意思がない。
「王、帰るよ」
 銃口を男に向けたまま、王に近付く。王は僕の名を呼ばずにただ「座りなさい」と自身の傍らを掌で指した。言いたいことは山ほどあったが、今はその言葉に従って、シートに腰を下ろす。
「……随分と血の気の多い使い魔をお持ちですな」
 男が口を開く。黒髪にブルーアイズ。細面のロイヤルな美男子だ。その白い頬に差す青白い照り返しからして、典型的な旧種の吸血鬼だろう。口を大きく開かない話し方をしているが、血色の悪い唇の隙間から鋭い牙が覗いている。
「普段は大人しいよい子ですよ」
 フラットな声音で王はそう言うと、テーブルの上に投げ出していた僕の拳を指でゆっくりと撫ぜた。
「きちんと教育されているので、主人になにかあると途端に牙を剥くのです。番犬としてまっとうでしょう」
 僕の皮膚の上で乾いた血が、王の指に移る。その指先を目の前のティーカップの中身に浸した王は、そこから黄昏に向かって揺曳する赤をじっと見つめ、それから視線を僅かに浮かせて吸血鬼を視た。
「話の続きですが、わたくしはわたくしのものではありません。わたくしに自由意志はありませんし、個人として認められてもいない。それが、国家の見解です」
 王の発する言葉の、前後の文脈は解らないが、なにかとてつもなく惨い話をしているのだということは、察することができた。嫌な汗が顬に浮くのを感じながらも、王が淡々と述べるその生の艱難の前で黙ることしかできない僕は、あのとき剣として機能することのできなかった軽蔑されるべき騎士だ。だからこそ、今回はトリガーから指を外す訳にはいかない。男に銃口を向けたまま、より高い精度を求めて目を尖らせている僕を見て、彼は驕慢な態度を崩さずにふっ、と鼻で笑った。
「意思がないのならば尚更、断る理由もないはず」
 笑うだけ笑って、男はもう僕を視界から外したようだった。ここまで配下を殺して回ってきた僕にも然程興味がない様子でいるのは、黒いマンダリンドレス姿の王をただ睛に留めているからだろう。どこぞのエレベーターで見たのと同じ眼差しだ。魅力的な肉体を前に、ちょっと馬鹿になってしまっているような。
「貴方は既に討伐されたはず。その死なない骸を有効活用するのが世のためというものでは」
「ふふ。そうですね。山や海になれたら偉大でしょうね。ぐちゃぐちゃになったときに充分な魔力があればそれもできたのかもしれませんが、運が悪かったのでしょう。当時、そんな余裕はありませんでした」
「なぜ?」
「生贄を食らうことをやめて久しかったのです」
 すべてに心当たりがある。嫌な気分だ。そんな僕を他所に、ふたりはただの意見交換会のつもりなのか、言葉の表皮を転がして笑う。
 笑うなよ。……と、思う。願う。
 目の前の男や王本人がなんと言おうと、どう捉えようと、今傍らにいるこの王は、国の黄昏に進んで自らの血を流し、ありもしない罪に対する贖いを済ませた献身的な個体だ。僕ですら、可能ならば回想したくはないあの断罪。そのことを今更掘り返すことは人道に悖る。……ヒトではないが。それに、記憶の中の王をいま一度痛がらせていい道理はない。……ヒトではなかったとしても。
「持っているものをすべて星に還すのが王種のノブレスオブリージュなのだとしたら、現状をどうお考えで?」
 賢立ってはいるものの、その目は色欲に塗れている。男にもそれが解るということは、男でなくても分かる程度には露骨だということだ。
「払えと言われたものはすべて払いましたよ。奪われるままに生きてきました。財産などは自主返還しましたね。血や魔力は刺されたぶんだけ。わたくしの唯一の肉親も、死にました。だから持っていたものはすべて、だれかに。持っていなかったので払えなかったものもありますが」
 王はなんてことのない様子でそう言うと、僕を見た。
 それを言うのはやめてくれ、と目で訴えるが、王は僕の目を見てはいない。硬質な微笑。あの日、震えながら見下ろした王も同じ顔をしていた。
 あのときのことをできるだけ夢にみないよう祈りながら日々眠りに落ちるのは、そのリフレインのたびに王がまた更に傷ついていくような気がしているからだ。夢にみませんように、と願えば願うだけ、王がふつうの一個人として機能すると信じたいからだ。
 この子は代償を払いすぎている。明らかに。玉座にいただけであるのに、誰も彼もが無意識に、この子から奪うことに加担してきた。……僕もだ。
「おいたわしい……と言いたいところだが、我々が求めているのはただマイナスをゼロに戻すことだけなのだ。そのために少しばかりその玉体をお貸し願いたい。それだけのことを、民に対し献身的であった貴方が断る意味がわからないのだが」
 断片的な話を聞いているうちに、この男が王になにかをさせたいということが読めてくる。そしてそれはおそらく王にしかできないことなのだろう。どこでどういった情報を得たのかは知らないが、王種にしかできないと言われて、優しい王が断ることなどあるのか甚だ疑問だ。つまり、王は『嫌だから拒否している』のだろう。だとしたら、この場は勝てる。そう確信した。
「理由が必要なら説明します。わたくしを個として認めてくれた子たちがいるからです。わたくしを成すモノは、わたくしの外側にありました。国の外にありました。個としての王を樹立してくれた優しい子たちがいるのです。神や王は、信徒なくしては機能しません。守れなかった幻想を抱いて死ぬことは容易ですが、ひとりでもわたくしをわたくしたらしめる誰かがいる限り、わたくしは王として……守るべき幻想として機能します。ですから玉座から引きずり降ろされた今も、依然として、王なのです。このことがどれほど尊いことか。そして、その尊さは、わたくしがわがままを奮うに値する。ですから……」
 僕の目頭を一方的に熱くさせて、王は立ち上がった。そして青いヘイローと共に、男を指差し託宣する。
「あなたの子は産めません。ゆえに、あなたと交尾をすることはできません。生理的に、ムリ。というやつ、です」
 神々しい姿で王が放ったその言葉は、僕を激しく噎せさせた。
「ごえっ、えほッ、ごふぁっ、え、え、ええええ?」素っ頓狂な声を上げながら王を見上げると、柔らかな微笑が返ってきた。「求婚の話なの……?」と、ぽろりと問う。
「求婚ではありませんよ。していないし、されていません。このあいだ、わたくしが城塞で吸血鬼をひとり殺めてしまったでしょう。その補填でひとり産めと言われまして。旧種は希少種ですからね」
 さらりと言って、王は再びシートに腰を下ろした。吸血鬼は「御破算か」と言って肩を竦める。しかし諦めるつもりは無いらしく、彼が指を鳴らすとどこに隠れていたのか続々と黒服たちが入ってきた。たちまちのうちに広いが狭いロイヤルボックスシートの残面積が埋まり、その瘴気に噎せそうになりながらも咄嗟にそちらに銃口を向けるが、戦闘開始の火蓋を切って落とすより先に、どうしても譲れなくて腑に落ちない部分を指摘してしまう。
「産めって……どういうこと? 王が付ければいいんじゃ……?」
 王は悠長にも血の滲んだティーカップに手を伸ばし、紅茶を啜っている。その向かいの男も同様だ。
「それでは意味がない。それで産まれるのはヤギだ。吸血鬼を産ませるにはこっちが付ける必要がある」
 互いに畜産のように話しているが、勿論それだけでは済まされない。
「待って。色々とお伝えしたい前提事項があるのは一旦置いておいて、アンタが子どもが欲しいから一方的に王に産んでくれって言ってるってこと? 初対面なのに? 王にメリットは?」
「王種なのだからそのくらいは施してくれても良いだろう。そもそも損害を補填しろと言っているだけだが。公共事業の一環だろう」
 その言葉にじりじりと不愉快さが胸の裡から滲み出てくる。流石の僕でももう少しデリカシーというものがあるのに、それが一切ないこの男は畜生以下なのではないだろうか。
「は? 待ってよ。あれは正当防衛だよたぶん。ていうか産むのって大変なんだぞ。産んだことないけど」
「希望があれば無痛分娩にしてやってもいい。第一、痛みに強いだろう、王種は」
 なるほど、邪悪だ。
 王が「子を産めません」ではなく「あなたの子は産めません」と言った理由が、よく解る。
「……あー、うん。生理的にムリ」
 そう言って、今一度吸血鬼に銃口を向ける。銀ではなく鉛弾なのでもしかしたら殺しきれないかもしれないが、なんとかしようと心に決めた。そしてざわり、と動き出そうとする彼の配下を手で制して、宣言する。
「残念だが、我が王には伴侶を自ら決める自由がある。それを是が非でもご理解頂こう」
 王のように立派なヘイローは持っていないが、それでもここで舐められてはいけない。王が自己を確立したいと希うのなら、僕はなにがなんでもその願いを遂げられるよう尽力する。それがあの国でただひとり残った僕の使命であり、心からの願いなのだから。
「は、そのような自由が王種にあるものか」男は論破気鋭で立ち上がる。
 立場あるものには自由はない。なにかを自己決定する権利もない。そんな不文律は理解してはいるが、王は既に玉座から引きずり下ろされているのだから、その『王種』という肩書きはただの種としての分類でしかない。僕の愛するこのひとは、青い血が流れているだけの、ただの一個の命なのだ。
「うるさいな。つべこべ言わずフラれたなら大人しく引き下がれってんだよ、不細工ハートが。性格悪いと婚活で苦労するよ」
 あ、これは僕にも当て嵌るな。……自ら吐き捨てた言葉に含まれた棘に一瞬本気で傷付いたが、しかし僕は顔も綺麗なので許される筈だと思い直す。「生き汚く、欲望に忠実に、図々しくあれ」と自らに命じ、意を決して引鉄を引こうとしたその瞬間、手にしていた銃を王に奪われた。そしてなにが起こったのかわからず目を剥いたその刹那、
「よいしょお!」
 そんな、愛らしくも間の抜けた掛け声と同時に、目の前の吸血鬼の顔面が吹っ飛んだ。
 直立したまま背中から倒れるその身体。シートの背もたれに引っ掛かり、ぐしゃりと頭からその背後の床に崩れ落ちる。
「ちょっ、ユアマジェスティ! お手を汚されなくても僕が!」
 僕の声を無視して、王は硝煙漂う銃口をその他大勢に向けていく。光。光。光。煙。一瞬にしてロイヤルボックス内を制圧した王は、くん、と銃口を嗅ぐと「花火の匂いがします。線香花火やりたいなあ」と言って笑った。血の匂いのほうが濃い筈なのに、そんなことを宣う王の清廉な情緒が堪らなく切なくて、その肩を引き寄せ抱き締める。
「ごめんね、王。お酒弱くて」
 謝罪を口にすると、王は銃を手にしたまま僕の背中を摩り始めた。いつも通りの「よしよし」の声。それは胸が痛くなるほど嬉しい報酬で、僕は王の豊かな髪に顔を埋めると、熱を持った瞼を擦り付けてこの昂りを冷そうと試みた。
「おまえ、風の匂いがしますね。走ってきてくれたのですね、ありがとう」
 いいこいいこ、と続けて、王は最後にぎゅっと力を込めて僕を抱くと、徐ろに出入り口の辺りを振り返った。
「そこの狼。こちらに来なさい」
 そんな王の言葉に、扉が僅かに開く。すると獣形態のハリエットがおずおずと部屋に入ってきた。前肢の付け根……肩の辺りの毛が赤黒くなっているところからして、怪我をしているのだろう。
「あなたがこの子を助けてくれたのですね。ありがとう。もっと近くへ」
 王に促され、ハリエットは死体を踏み越え踏み越え傍にやって来ると、そのままの姿で行儀よく座った。すると王は血溜まり広がる床に膝をついて、彼の頭をそっと撫でた。
「よしよし。いいこですね。……本当にいいこ」
 ジェラシー。である。「はあ?」と不服を口にしたい。
 今すぐにでもこの目を細めている狼を持ち上げて放り投げたい気持ちを押さえ付け、態とらしく何度も咳払いをしてみるが、王は慈悲深い眼差しでハリエットの頭を撫で続けている。その狼と言う名をしているだけの、ただの大きな犬が気持ちよさそうに耳を下げ、尻尾を振っている姿はそれだけ見れば可愛らしいが、中身はあのゴリラであると思うと、妙に腹立たしく、しかし同時にエロティックだった。この目の前の光景に感じるのは、謂わば一枚の宗教画に感じるエロス。侵犯し難い美の要素を孕んでそこに独立するふたり。そう感じ入ってしまう自分が厭になり、王が握ったままだった拳銃を預かると、ハリエットに向かって突き出した。
「ほら。……その、ありがとう」
 すると彼はご褒美タイムを邪魔されたことが不服なのか、フン、と大きく鼻を鳴らすと、そのまま人型形態へとその姿を変えた。そして銃を受け取り、傷がないか確認し始めたようだ。
「まぁ、大きい」
 そんな彼を見上げて、王はおっとりと喜ぶ。そのとき、王は体格の大きな個体が好きだったことを思い出し「僕も大きいよ?」と間に入るが、確かにガタイの良さでは敵わないので喉奥からヒューン、と犬のときのような息が漏れた。心の尻尾を下げながら、ふたりが見つめあっている秒数を白けた心地でカウントする。六秒。このままだといつまでも見つめあってしまいそうなので、大袈裟に不機嫌な声で「仕事の話をしましょうよ?」と提案した。
「……向こうにうちの部隊が来てる。そっちで話そう」
 僕と同じだけの不機嫌な声を発したハリエットが顎で階下の観客席を指した。見ると青い腕章をした人外たちが集まってきている。
「……なるほど? 了解したけど、ビジネスじゃなくてアンタに個人的にお礼がしたい場合はどうすれば?」
 曲がりなりにも感謝はしているのでそう切り出すと、ハリエットは「そうだな……」と呟き少し悩むような素振りを見せたあと、なぜか王の手を取った。そしてその血で汚れた細い指先に、唇を。
「お嬢さん。もし嫌でなければ……連絡先を、教えてくれるかい?」
 恋敵。……その言葉を連想せざるを得ない、衝撃が奔る。なぜなら、あまりにもお似合いだと思ってしまったからだ。この男は、愛の処理場に近い場所にいる。それはきっと、恋の処理場で。
 青い嵐の予感に絶句している僕を他所に、王は「どうやるのですか?」とスマホを取り出すと、いつもの調子で僕の手に押し付けた。



End.


風をまく者は、嵐を収穫する。
お前がまいた風だ。
騎士の風上にも置けねえな。


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