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機能不全家庭で育った中学時代2⃣

”ゆかり”が中学校三年生の時に転校して来た時から、私は大きく変わって行った。

正直、この時代の事を思い出し、書き残す事は精神的にくる。HPの減りが早い。ベホイミでは全回復できないぐらい削られている。

それでも今、私が夢中になれるものは記事を書くこと。だからまた今日も思い出しながら少しづつ書いて行こう。

ゆかりが転校して来てからの生活は、地元の狭い世界しかしらない私には新鮮な事も多かった。うちの地元は狭い地域で”不良”と呼ばれるような子達も少なかった。

そんな所に、転校して来た”不良少女のゆかり”は先輩達にも可愛がられて居た。彼女のお姉ちゃんが私たちの1個上。なので必然的に妹も先輩達に溶け込むには時間は掛からなかった。

私は小学校の頃から、地元の先輩に目を付けられ生意気とされていて、もちろん中学に入ってからも先輩達にはいびられていた。

それでも《中3》は、狭い狭い学校の中では最強だ。うるさい厄介な先輩達は消え、ピアスを開け、スカートは短く、カバンを潰し、落書きして持つ、念願のハイソックスにし、ジャージはルーズに着こなす。
今思うと何て”可愛らしい”反抗なんだろうと思う。

私の中学3年生という時代は人生の中での沢山の転機があった。中3になり、小学校から住んでいたアパートから引っ越す事になった。生活保護は元々受けていたが、家賃の問題なのか、普通のアパートから”おんぼろ”の2Kアパートへ引っ越した。

その引っ越しは、兄貴と兄貴の友達が手伝い行われた。そしてまた事件が起きる。なぜそうなったのかは覚えていないけど、兄貴と親父が取っ組み合いの喧嘩になった。既に足が弱っていた親父はあっさり兄貴に負けた。
兄貴はそんな親父の姿を見て”泣いた”初めて兄貴の涙を見た。兄貴もヤンチャで、人前で泣くタイプではなかった。ましてや妹と、妹の友達、兄貴の友人が居る前でなんて泣く奴ではない。そんな兄貴が泣いた。

こんなに弱くなっちまって情けねー』と泣いた。
確かに、兄貴の中の”親父”は、木刀を振り回し、逆らえば殴られ、恐怖の対象、力では到底勝てない強い男の対象そのものだったと思う。
そんな親父に””で勝った。情けなく倒れこむ親父の姿を見て、私も泣いた。私も何故か”弱い親父”を見たくなかった。

そんな事件もありながら、私はゆかりが来た事で、地元以外の地域へ出るようにもなった。子供だけで電車を乗り他県へ行くことは、それまではした事がなかった。

東京の田舎から千葉県へ遊びに出る。それは《ゆかりの元カレ》が住む地域だった。当時《青ギャン、赤ギャン》というカラーギャングが流行っていて”ヤンキー”とは違う”チーマー”や”ギャング”達が沢山いた。
そんな時、私と後藤とゆかりでよく遊びに行っていた。

そこで紹介される《ゆかりの元カレのマ~君》後に、私の初めての彼氏になる。当時私は中3、マ~君は高校3年生。凄く大人に見えた。顔ははっきり言って”ブス”当時流行っていた、ロン毛で雰囲気をごまかしてるタイプ。
それでも私は高校3年生という大人と付き合っているという感覚に溺れていた。

そして《初体験》を捧げた人。まぁ、当時は”好きな人”だったから《初体験の相手》というだけで、《ただの何の思い入れもない思い出》として記憶に残っている。
だが、初体験の”場所”が問題だ。今更過去は変えられないし、記憶の上塗りも出来ないので事実として受け止めるしかない。と言っても、こんな出来事の記憶では、私にはノンダメージ。

さてその”問題の場所”は”マ~君の地元の学校の屋上”という事。まぁ学生同士、学校へ忍び込み”イチャイチャ”が始まり、その日はとうとう私の《初体験》を捧げた。
うん。痛くて痛くて叫んだ記憶はある。マ~君の”マ~君”は大きかった記憶もある。

そうして、私は晴れて”処女”を捧げ、そこからもう次の段階へ行くのは早かった気がする。もちろんマ~君とは会えばホテルへ行ったり、それなりに恋人ごっこをしていた。何故だか兄貴にも紹介していて、兄貴とマ~君と兄貴の彼女、マ~君の”彼女”と4人で海に行ったりしていた。

そう、違和感を覚えた人は鋭い!って、私はいつからか、マ~君に二股をかけられていたのだ。マ~君とは、どのぐらい付き合ったかも覚えていないが、兄貴から”お前、マ~君に、二股をかけられてるぞ”と聞かされ知る事になる。その後マ~君とはお別れした。
それが、私の初めての恋人で、初めての人、マ~君との思い出だ。

一方、学校での生活と言えば、夜遊びも増え行かない日も増えた。そんな日はゆかりの家へ遊びに行ったりしていた。ゴトウの親が居ない日はゴトウの家だったりと、ローテーションのように学校へは行かずに皆の家で溜まるようになっていく。

それでも学校へはある程度行っていたと思う。だって、クラスで起きた事件も、ある葬式での出来事も記憶にあるから。

その日の記憶は、ほぼ口も利いた事ない男子のお母さんだったか…亡くなった為、お通夜があった。同級生の親という事で学級のみんなでお通夜へ行くことになった。その時の私の服装が、同級生の”女子”達から反感を食らった。

その服装は、制服のスカートを短くし、ルーズソックス、メイクを施した私。これが”お通夜なのに非常識だ”と、本来の学校の制服の”着こなし”と違うという理由で”非常識”になった。
当時の私には、意味が分からなかったが、彼女達からしたら、お通夜に”お洒落”をしてくるなんてという感じだったらしい。そして私は教室の教壇の前に立ち、女子たちに謝罪させられたのを覚えている。本当に女という生き物は”面倒”だ。

そんな出来事があり、私は益々学校へ行く回数は減った気がする。一番の仲良しのゆかりは夜遊びで大体日中は寝ているので、家に居る。学校へ行っても私の仲良しは隣のクラス。結果、学校へ行っても仲良しは居ないしつまらない。

更には担任の教師《児嶋》は私とゆかりとゴトウが学校へ登校すると、担任の児嶋に《会議室》へ押し込こまれ、教室には入れてもらえなかった。
何故か?理由は《受験生の皆の邪魔になる。お前らが居ると迷惑なんだよ》と言われた。そうして会議室に押し込められ《エサは食うのか?》と、”給食”の有無を確認される。今思い返しても本当に許せない。私の顔面を本気のグーで殴った《体育教師の加藤》と私達をゴミ扱いした《タバコと加齢臭の匂いを纏った狸面の担任教師の児嶋》一生許さないだろう。その他の教師もそうだった。まともな大人や教師など私の周りには《皆無》だった。

教師たちからもそんな扱いを受け、もちろん学校にも居場所なんて無かった。そんな環境に居れば、当たり前のように学校には行かなくなる。私たちが学校に行けば”皆の迷惑”になるんだから。

そうして学校にも行かなくなれば、素行は悪くなる一方だった。初体験を経験済みの私達は、どんどん色んな男達と出会って行く。当時は《テレクラ、ダイヤルQ2》が流行っていた。年頃の不良少女が集まれば、当たり前のように、興味本位や暇つぶしで”テレクラ”に電話をかけ、顔も見えない知らない男達をからかい遊ぶようになっていった。

私達の子供の頃はまだインターネットなど普及もしていない。中学の授業でパソコンなんて無かった。なので情報は”雑誌”から仕入れるしかない。それに私達の周りは誰も裕福な家庭は無く、私はもちろんお小遣いなど無かった。生活保護を受けていた為、親父から酒を買って来いと言われ買い出しをした時のお釣りか、弁当代として貰うお金のお釣りが小遣いだった。

もちろんそんな金額じゃ足りる訳がない。となると、当たり前のように”万引き”をする。過去記事にも書いたが、親父も手癖が悪かった。私も小学校から手癖が悪った。そんな子供が中学に上がれば盗む物も変わってくる。
文房具はもちろん、自分の食糧、化粧品、衣服等々。もちろん補導された事もある。とにかくお金が欲しかった。早く大人になって稼ぎたいと思っていた。

そんな中学生時代に《テレクラ=援助交際》今で言う《パパ活》が流行りだしていた。当時は高校生や大学生など今と変わらず若い女の子達が”若さ”を売りにし、男達は金を武器に”若い女の子達”に群がる。結局いつの時代もこの”構図”は変わらない気がする。

そんな安易な”お小遣い稼ぎ”が上の世代からどんどん中学生界隈まで情報が降りてきた。《おっさんとカラオケ行くだけで、おっさんとご飯行くだけで》もちろんその先の《おっさんとホテル》という事をしている子も居た。

私達は、遊び半分でまず”待ち合わせまでこぎつけ、遠くから相手を確認する”という遊びを始めた。もう電話越しにおしゃべりして終わりの枠からリアルに相手を確認する”遊び”までになっていた。

ここまで来れば、その先は早い。まずは女2対おっさんでカラオケへ行くとう事から始まった。私達にはいい遊びだった。次第に内容はエスカレートしていく。内容は読者の想像に任せよう。

この頃には《ポケベル》が流行り、ポケベルは持っていた。電話といえば家電になってしまう為、”子機”は絶対に自分の部屋。もちろん隣の部屋では親父が寝ている。なので家から”テレクラ”へ掛ける時はコソコソ話。
基本は外へ出て、今は滅多に見かけない”公衆電話”から掛けていた。よく飽きもせずおっさん達をからかって遊んでたな。
もちろん、危ない目にも何回かあったことはある。その内容はいつか機会があれば。


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