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分かってから語る〜音を並べるからの脱却
ベートーヴェンop68を始めるにあたって、最初のフェルマータまでを「一言」として語れるかどうか。
演奏するとはそういうことだ。
つまり、音符を数えて並べて、それが「楽譜通り」というほど機械的な問題では済まないのだ。
演奏とは、どう語るのかという問題と切り離しては考えられない。何を持ってひとつのフレーズとして、ひとつの息の中に収めるのか。それは日本語の発想では掴みにくい。音を組み合わせて単語を
ベーレンライター版の「田園」を読んでたら
ベートーヴェンop68の第5楽章6/8allegrettoをベーレンライターの楽譜で読んでいると毎回思うのだが、そのフレージングに癖があって面白い。1stvnの歌に続く2ndvnのフレージングが一致しないのだ。一度めと二度めとでは、違う歌い方を求めているのだ。
ただ、このフレージングの実現をまじめに考えているとテンポ感が変わってくる。特に21小節めからの3小節間を括ったスラーはある程度のスピード
扉を叩くとか鳥の囀りとかはどうでもよくて
ベートーヴェンop67の開始は「八分休符から」という話しは子供のころから散々聞かさせれてきた。そこに「溜め」が生まれる。だから発音が鋭くなると。如何にも音楽のせんせいたちがしたり顔で語りそうなネタだ。
だが、それは20世紀のドイツの巨匠たちのようなあのテンポ感であったからこそ、のものであったのではないだろうか。楽譜の2/4allegro con brioのテンポ感ではその「八分休符」に妙な重みを
この4拍目をどう扱うのか?
「楽譜の可能性を広げる」とは、どういうことだろうか。こないだ、そんな問題例に出会ったので、その事例を書いてみる。
K.504の第1楽章の第2主題の後半と同様に、ベートーヴェop67第4楽章の第2主題の後には「アウフタクトをどう取るのか」課題がある。というよりは、それを「アウフタクトとして取るのか」というべきかもしれない。
K.504の場合は113小節めに見られる音形の二つの四分音符をどう扱うの
なぜ二つめのフェルマータはタイで繋がれているのか〜ベートーヴェン交響曲第5番第1楽章
ベートーヴェンop67の第1楽章allegro con brioはそもそも2/4で書かれている。
耳で聞き馴染んでしまった感覚ではこの事実さえ「当たり前」になってしまう。快速さ、自然さを追求しすぎて知らないうちに無自覚に2/2になってしまう危険がある。
「当たり前」と思っているから楽譜を見ていない。2/2的にこの第1主題を歌うと思い切り快速な演奏にドライブすることはできる。だがその快感に騙される
変わり目〜ベートーヴェン交響曲第5番第1楽章
例えば、K.488のadagioの主題は形がはっきりとそこにあるので、自ずとテンポ感も見えてくる。形が見えているから語り口が分かる。少なくとも、録音に支配されてしまう前の時代の人たちにはそれが読み取れたはずだろう。残念ながら、今の人にはその読み方は難しい。先に録音があって、そのイメージで作品に入ってしまうからだ。
このadagioの語り口もテンポ感も楽譜には明確に分かるのだ。形がある、とはそうい