水口 峰之

指揮してます。主に古典派とかブラームスとかです。 世を忍ぶ仮の姿として高校で社会の教員…

水口 峰之

指揮してます。主に古典派とかブラームスとかです。 世を忍ぶ仮の姿として高校で社会の教員やっています。高校では吹奏楽部の指導もしています。週休3日の嘱託人生に入りましたがあい変わらず通勤時間の暇つぶしに演奏側の立場として、音楽演奏に関する気がついたことや仮説を書いたりして参ります。

記事一覧

分かってから語る〜音を並べるからの脱却

ベートーヴェンop68を始めるにあたって、最初のフェルマータまでを「一言」として語れるかどうか。 演奏するとはそういうことだ。 つまり、音符を数えて並べて、それが「…

水口 峰之
19時間前
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突き落とされる寸前の緊張感〜マンフレッド序曲の1小節め

シューマンop115序曲の冒頭Rusch4/4は、ベートーヴェンop67の冒頭をさらに複雑にしたような音楽だ。切迫感のある速いスピードで一気に畳みかけるこの半拍ずれた3つの四分音…

水口 峰之
4日前
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ベーレンライター版の「田園」を読んでたら

ベートーヴェンop68の第5楽章6/8allegrettoをベーレンライターの楽譜で読んでいると毎回思うのだが、そのフレージングに癖があって面白い。1stvnの歌に続く2ndvnのフレージ…

水口 峰之
5日前
5

扉を叩くとか鳥の囀りとかはどうでもよくて

ベートーヴェンop67の開始は「八分休符から」という話しは子供のころから散々聞かさせれてきた。そこに「溜め」が生まれる。だから発音が鋭くなると。如何にも音楽のせんせ…

水口 峰之
6日前
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反動としてのアウフタクト

K.525の第2楽章は2/2andanteの曲である。だが、聴いた記憶に騙されてままの感覚では4/4で、しかも最初の四分音符がまるで1拍めになってしまう。そういう演奏は少なくない。…

水口 峰之
7日前
3

迷ったら、外分的な広がりを見つける。

ブラームスop90の第1楽章やop98の第2楽章のような6拍子の音楽を見ていると、やはり6拍子を付点音符の二拍子で扱うと音楽が平面化してしまうのを実感する。いつもいう喩えだ…

水口 峰之
11日前
2

この4拍目をどう扱うのか?

「楽譜の可能性を広げる」とは、どういうことだろうか。こないだ、そんな問題例に出会ったので、その事例を書いてみる。 K.504の第1楽章の第2主題の後半と同様に、ベート…

水口 峰之
12日前

なぜ二つめのフェルマータはタイで繋がれているのか〜ベートーヴェン交響曲第5番第1楽章

ベートーヴェンop67の第1楽章allegro con brioはそもそも2/4で書かれている。 耳で聞き馴染んでしまった感覚ではこの事実さえ「当たり前」になってしまう。快速さ、自然さ…

水口 峰之
13日前
2

変わり目〜ベートーヴェン交響曲第5番第1楽章

例えば、K.488のadagioの主題は形がはっきりとそこにあるので、自ずとテンポ感も見えてくる。形が見えているから語り口が分かる。少なくとも、録音に支配されてしまう前の…

水口 峰之
2週間前
5

「知っているつもり」を磨く

ベートーヴェンop67の第4楽章の3小節め、メロディは四分音符4つではなく「8分音符+8分休符」が4つでできている。この部分に作品の並々ならぬ主張を感じるのだ。 なぜ四…

水口 峰之
2週間前
2

今しか見えないキリギリスと先を見越しているアリ

ベートーヴェンop67第4楽章への移行の過程を見ていると、そのフレーズの変形に関してとても用意周到な姿勢に気がつく。それは第3楽章の最後の12小節の使い方の見事さだ。 …

水口 峰之
2週間前
1

感性はその人自身のもの〜自分の感じ方に自信を持つ

その作品の作られた自然環境を体験した方がいい、とよく言われている。僕の先生もそんなことをよく言っていた。ウイーンの雨上がりの道で感じる匂い、枯れ葉を踏んだ感じ。…

水口 峰之
3週間前
3

「ひとつひとつの音を大切に」の発想が音楽を見えなくする

拍子は分数で表される。この時、分子が三の倍数である場合、分子は三連符化される。例えば6/8の分子は6つの八分音符となる。分母はその三連符化されたものを何で表すかを示…

水口 峰之
3週間前
4

飛び込む勇気と引き出す勇気〜「その指揮では入れない」という常套句

補助輪を外して自転車に乗れるようになると、そのバランス感覚は当たり前になる。逆に、補助輪があるときにはその安定が癖になってしまう。 「数える」というのが癖になっ…

水口 峰之
3週間前
4

他人の振り見て…〜とある失敗例から学ぶこと

チャイコフスキーop74の第1楽章の第1主題も楽譜と演奏が乖離しているように聞こえる典型だ。 小節の中を完全に4つの四分音符で数えているから、楽譜上での呼吸感が生か…

水口 峰之
3週間前
3

「作品=作者の心情」を解き放つ

K.543第1楽章がそうであるようにK.504の序奏と主部の緩急対比はシステム的なギアチェンジで移行可能なはずだ。序奏を20世紀的な意味でのadagioという遅さに縛ってしまうか…

水口 峰之
4週間前
7
分かってから語る〜音を並べるからの脱却

分かってから語る〜音を並べるからの脱却

ベートーヴェンop68を始めるにあたって、最初のフェルマータまでを「一言」として語れるかどうか。

演奏するとはそういうことだ。

つまり、音符を数えて並べて、それが「楽譜通り」というほど機械的な問題では済まないのだ。

演奏とは、どう語るのかという問題と切り離しては考えられない。何を持ってひとつのフレーズとして、ひとつの息の中に収めるのか。それは日本語の発想では掴みにくい。音を組み合わせて単語を

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突き落とされる寸前の緊張感〜マンフレッド序曲の1小節め

突き落とされる寸前の緊張感〜マンフレッド序曲の1小節め

シューマンop115序曲の冒頭Rusch4/4は、ベートーヴェンop67の冒頭をさらに複雑にしたような音楽だ。切迫感のある速いスピードで一気に畳みかけるこの半拍ずれた3つの四分音符が作る形。そのクレシェンドも休符に付せられたフェルマータも効果的だ。

崖の上から突き落とされる直前で留め置かれたような緊張感。そのオチのない中途半端が、却ってその先の深い谷底を見せつけてくる。

この小節だけで、緊張感

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ベーレンライター版の「田園」を読んでたら

ベーレンライター版の「田園」を読んでたら

ベートーヴェンop68の第5楽章6/8allegrettoをベーレンライターの楽譜で読んでいると毎回思うのだが、そのフレージングに癖があって面白い。1stvnの歌に続く2ndvnのフレージングが一致しないのだ。一度めと二度めとでは、違う歌い方を求めているのだ。

ただ、このフレージングの実現をまじめに考えているとテンポ感が変わってくる。特に21小節めからの3小節間を括ったスラーはある程度のスピード

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扉を叩くとか鳥の囀りとかはどうでもよくて

扉を叩くとか鳥の囀りとかはどうでもよくて

ベートーヴェンop67の開始は「八分休符から」という話しは子供のころから散々聞かさせれてきた。そこに「溜め」が生まれる。だから発音が鋭くなると。如何にも音楽のせんせいたちがしたり顔で語りそうなネタだ。

だが、それは20世紀のドイツの巨匠たちのようなあのテンポ感であったからこそ、のものであったのではないだろうか。楽譜の2/4allegro con brioのテンポ感ではその「八分休符」に妙な重みを

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反動としてのアウフタクト

反動としてのアウフタクト

K.525の第2楽章は2/2andanteの曲である。だが、聴いた記憶に騙されてままの感覚では4/4で、しかも最初の四分音符がまるで1拍めになってしまう。そういう演奏は少なくない。これはHWV351の序曲などにもありがちな感覚の罠だ。

K.525のandante の場合、その冒頭は0小節めの運動の反動によって引き起こされる1小節めのアウフタクトから始まる。この運動は、小節の4拍子という外分図形を

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迷ったら、外分的な広がりを見つける。

迷ったら、外分的な広がりを見つける。

ブラームスop90の第1楽章やop98の第2楽章のような6拍子の音楽を見ていると、やはり6拍子を付点音符の二拍子で扱うと音楽が平面化してしまうのを実感する。いつもいう喩えだが、メルカトル図法の地図をそのまま捉えてしまうようなものだ。あの平面図を如何に球体として見れるかは空間把握の想像力が必要だ。それは楽譜と再現される音楽との関係と似ている。

小さい音符を6つ並べて足し算的に6拍子という結果になる

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この4拍目をどう扱うのか?

この4拍目をどう扱うのか?

「楽譜の可能性を広げる」とは、どういうことだろうか。こないだ、そんな問題例に出会ったので、その事例を書いてみる。

K.504の第1楽章の第2主題の後半と同様に、ベートーヴェop67第4楽章の第2主題の後には「アウフタクトをどう取るのか」課題がある。というよりは、それを「アウフタクトとして取るのか」というべきかもしれない。

K.504の場合は113小節めに見られる音形の二つの四分音符をどう扱うの

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なぜ二つめのフェルマータはタイで繋がれているのか〜ベートーヴェン交響曲第5番第1楽章

なぜ二つめのフェルマータはタイで繋がれているのか〜ベートーヴェン交響曲第5番第1楽章

ベートーヴェンop67の第1楽章allegro con brioはそもそも2/4で書かれている。
耳で聞き馴染んでしまった感覚ではこの事実さえ「当たり前」になってしまう。快速さ、自然さを追求しすぎて知らないうちに無自覚に2/2になってしまう危険がある。

「当たり前」と思っているから楽譜を見ていない。2/2的にこの第1主題を歌うと思い切り快速な演奏にドライブすることはできる。だがその快感に騙される

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変わり目〜ベートーヴェン交響曲第5番第1楽章

変わり目〜ベートーヴェン交響曲第5番第1楽章

例えば、K.488のadagioの主題は形がはっきりとそこにあるので、自ずとテンポ感も見えてくる。形が見えているから語り口が分かる。少なくとも、録音に支配されてしまう前の時代の人たちにはそれが読み取れたはずだろう。残念ながら、今の人にはその読み方は難しい。先に録音があって、そのイメージで作品に入ってしまうからだ。

このadagioの語り口もテンポ感も楽譜には明確に分かるのだ。形がある、とはそうい

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「知っているつもり」を磨く

「知っているつもり」を磨く

ベートーヴェンop67の第4楽章の3小節め、メロディは四分音符4つではなく「8分音符+8分休符」が4つでできている。この部分に作品の並々ならぬ主張を感じるのだ。

なぜ四分音符4つではないのか?あるいはなぜ四分音符にスタカートではないのだろうか?

実は今までこの問題にあまり注目しなかった。そんなの当たり前だと思っていてなんとも思わなかったのだ。だが、この事実に「気がついて」からはいろいろ考えさせ

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今しか見えないキリギリスと先を見越しているアリ

今しか見えないキリギリスと先を見越しているアリ

ベートーヴェンop67第4楽章への移行の過程を見ていると、そのフレーズの変形に関してとても用意周到な姿勢に気がつく。それは第3楽章の最後の12小節の使い方の見事さだ。

ティンパニのソロの後、形を失っていくこの過程の中で、1stvnは何かしらの形を掴もうとして蠢いてきた。小節の3拍子が2回転し、二つの小節による4拍子が2回転し、小節の6拍子が2回転してきた後、その動きの最後で楽譜は5つの小節をひと

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感性はその人自身のもの〜自分の感じ方に自信を持つ

感性はその人自身のもの〜自分の感じ方に自信を持つ

その作品の作られた自然環境を体験した方がいい、とよく言われている。僕の先生もそんなことをよく言っていた。ウイーンの雨上がりの道で感じる匂い、枯れ葉を踏んだ感じ。みたいなことをおっしゃることがあった。

料理も本来のその土地で味わうべきだというが、作品と空気との関係は大切な繋がりがある、とは思う。

だが、料理も作品もそれだけで完結しているひとつの世界でなくてはならない、とも思っている。
料理も作ら

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「ひとつひとつの音を大切に」の発想が音楽を見えなくする

「ひとつひとつの音を大切に」の発想が音楽を見えなくする

拍子は分数で表される。この時、分子が三の倍数である場合、分子は三連符化される。例えば6/8の分子は6つの八分音符となる。分母はその三連符化されたものを何で表すかを示すものになる。

だがその結果は例えば6拍子の分子、「三連符二つ分」というわけにはいかない。その捉え方はあくまでも便宜上の問題でしかない。6/8はあくまでも小節の6連符化であり、12/8は小節の12連符化である。つまり、6拍子は3拍子二

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飛び込む勇気と引き出す勇気〜「その指揮では入れない」という常套句

飛び込む勇気と引き出す勇気〜「その指揮では入れない」という常套句

補助輪を外して自転車に乗れるようになると、そのバランス感覚は当たり前になる。逆に、補助輪があるときにはその安定が癖になってしまう。

「数える」というのが癖になっていると、その補助輪がなくてはならないものになってしまう。

「数える」は基本中の基本だ。しかし、それはメルカトル図法的な正確さでしかない。つまり、自然ではない。どこかを諦めた正確さでしかない。

メルカトル図法の地図は緯線と経線が垂直に

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他人の振り見て…〜とある失敗例から学ぶこと

他人の振り見て…〜とある失敗例から学ぶこと

チャイコフスキーop74の第1楽章の第1主題も楽譜と演奏が乖離しているように聞こえる典型だ。

小節の中を完全に4つの四分音符で数えているから、楽譜上での呼吸感が生かさせれてこないのだ。

その問題が顕著になるのは例えばallegro non troppo の5小節め(23小節目)、そして、その拍節感の破綻が29小節め〜31小節めで決定的になる。この辺りの難しさを妥協的に乗り越えるために四分音符で

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「作品=作者の心情」を解き放つ

「作品=作者の心情」を解き放つ

K.543第1楽章がそうであるようにK.504の序奏と主部の緩急対比はシステム的なギアチェンジで移行可能なはずだ。序奏を20世紀的な意味でのadagioという遅さに縛ってしまうから、この序奏があり得ないくらい長いのだ。長くなってしまうのはテンポ感が間違えているからだ。見通しが立っていないから、尤もらしい音響を鳴らして並べていく。その結果がよくある今日的な常識になってしまったのだろう。

Andan

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