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【連載小説】『陽炎の彫刻』5‐2

 別の日。雪が降ってから2週間程経ったが、気温が下がらないため雪がなかなか溶けない。それでも、あの雪の日よりは大通りも随分歩きやすくなった。
 僕は奈沙の家にいた。2月。土曜日。朝はまだ凍えるようだった。奈沙は朝食の準備をして、僕はコーヒーを淹れていた。昨晩一緒に観た映画の感想は真っ二つに割れた。あの映画は彼女には少し退屈だったらしい。だから何だと言われれば、別にどうということはないのだが。
 コーヒーで満たした二つのカップをテーブルの上に持っていった。
「何か音楽をかけようよ。」
 奈沙が提案する。
「何がいい?」
 棚の前でCDを選びながら僕は訊いた。
「Bill Evens」
 それを聞いて僕は、棚からWaltz for Debbyを選んで、オーディオにセットした。優雅なピアノの音が漏れ出るように聴こえてくる。僕はボリュームを絞った。
「ありがとう。」
 奈沙がこう言ったのは、僕が彼女のリクエストに忠実に応えたことに対してではなく、ボリュームを絞ったことに対してだった。Bill Evansのピアノはボリュームを絞って聴く方がいい。その方が、彼の流麗で澄んだ音が映えて聴こえる。僕も奈沙も、そのことをよく分かっていた。
 奈沙が朝食の準備を終えて、いくつかの皿をリビングに持ってきた。僕たちの朝食が始まった。ハムエッグにトースト、包丁を使わずに作ったキャベツとトマトの簡単なサラダと僕が淹れたコーヒー。そしてBill Evansのピアノ。
 僕たちの朝食は静かだった。これといった会話は特になかった。彼女は食事中に騒がしくするのをあまり好まない性格だった。会話を交わすとしても、静かな声で、言葉数も少ない。その日も何かひと言ふた言、会話を交わした気がするが、よく覚えていない。
 朝食が終わると、僕は食器を洗った。彼女はベッドの中に紛れ込んでいた下着を手に取って、洗濯機の前に向かった。食器洗いが終わると、僕は寝間着から白いシャツとジーンズという恰好に着替え、出かける準備を整えた。髭を剃るのは諦めた。この日はこれから、梶川君の家に行く予定になっていた。
 10時頃に梶川君のアパートに着いた。ドアホンを押す。しばらくして梶川君が出てきた。
「悪かったね。ちょっとでかい家具を買うから、運ぶのを手伝ってほしくてね。」
 大学院入学に向けて、部屋を模様替えしたいという梶川君を手伝うことになったのだ。
「構わないよ。今日は仕事も休みだし。」
「休みだから詫びたんだよ。まあでも、ちゃんと報酬も出すからさ。」
 梶川君のワゴンアールに乗って、近くの大型家具店に向かう。車のエンジンがかかる。ラジオが聞こえてきた。
「何か聴きたいのがあったら、そこから選んでいいよ。」
 梶川君は助手席の真ん前にある収納を指差しながら言った。僕はその中からCDを漁った。僕の好みのものは特になさそうだった。
「松谷君はロックとかファンクとかが好きだから、あまり好みのはないかもしれないけど。」
 内心を見透かされたのに、特段驚きはなかった。音楽の趣味が合わないのは、ずっと前からお互いに知っている。僕は、その中では一番好みに合いそうなLou Reedのソロのライブアルバムを選んだ。カーオーディオにCDをセットした。スピーカーから、観客の声援、次にアコースティックギターのアルペジオ、最後にLou Reedの歌う、というより詠むような声が重なった。
 大型家具店に着いた。僕は梶川君について行って、言われるがままに商品を運んだり、たまに商品の選択について相談されたりした。梶川君は、デスクとチェア、それに新しい本棚を購入した。車で購入した品々を梶川君の自宅まで運んだ。
 ついでに、新しい家具の組み立てと、部屋のレイアウトの変更を手伝った。とても、彼一人では時間がかかりすぎると思ったからだ。梶川君の部屋には、音質の良いオーディオが置いてあった。そのオーディオは気に入っているらしく、梶川君が一人で移動させていた。古い家具を部屋の端にやり、組み立てた新しい家具とオーディオを配置する頃には、夕方になっていた。昼食をすっかり忘れていた。
「よし、これで今日のところは終わろう。助かったよ。」
「家具を変えるだけでも、部屋の印象は変わるものだね。」
 一仕事を終えた僕たちは、完成した部屋を見渡して一息つくことにした。「お煙草はベランダで。」と梶川君から言われた通り、僕はベランダに出て煙草を吸った。長い坂の中腹にある梶川君の家からは、この街が少しだけ見渡せる。住宅が密集した、窮屈な一帯が望める。
「よし、松谷君。報酬の時間だ。」
いやに改まって、梶川君は僕を車に誘導した。
「このあたりに、うまいステーキハウスがあるんだ。力仕事の後だし、肉食おうよ。」
 梶川君は車を走らせた。10分程走って、その店にたどり着いた。
 その店の内装は全体的に明るい木目調で統一されていて、椅子やテーブルなどもなかなか洒落ていて、全体的に瀟洒な雰囲気だった。店内の棚には、テキーラやウイスキーの瓶と一緒に、何枚かレコードが立てかけられていた。音楽は大瀧詠一や浜田金吾をはじめとするシティポップや、アメリカのサーフミュージックが中心に流れていた。
「悪くない店じゃないか。」
 僕は素直な感想を言った。
「今に『悪くない店』から『良い店』に変わるぜ。」
 今日の店に、梶川君は妙に自信を持っているらしかった。僕たちはステーキプレートを2つとピザ1枚を頼んだ。その店内にはテレビが置いてあり、音声がミュートされた状態で夕方のニュースが画面に映っていた。僕たちはなんとなく、そのニュースを眺めていた。力仕事が意外にも堪えたのか、お互いに口数がいつもより少なくなっていた。
「見て、これ俺たちの家の近くじゃない?」
 ニュースを見ていた梶川君が言った。前日の夜に通り魔事件が起こったとニュースは報じていた。テレビに映し出されていた場所は、確かに僕たち二人の自宅から近い場所だった。深夜の路上で女子大生が何者かに刃物で腹を刺されたのだ。犯人は依然として逃走中であるという。被害者は幸いにも命に別状はないが、完治にまでは時間がかかるようだ。警察は捜査を進めていると報じられていた。
 そんなニュースを見ているうちに、注文していた料理が届いた。料理は美味かった。その日は梶川君が「報酬」と称して奢ってくれると言ったので、僕は追加でハイボールも頼むことにした。ピザは、一枚のそれを半分ずつ食べることにした。
 僕たちが食事を終えた頃、店内には山下達郎のカバーしたGirls on the Beachが流れていた。時間は7時半ぐらいで、外はとっぷり日が暮れていた。梶川君が会計をしている間、僕は先に外にでて喫煙所で煙草を吸って彼を待つことにした。煙が白い吐息と紛れて冬の空に消える。もうすぐ春が来る。
 梶川君が店から出てきた。僕はまだ煙草を吸い終わっていなかった。今度は梶川君が僕を待つことになった。
「美味かっただろ?」
「ああ、美味かったよ。音楽の趣味も良いみたいだし。気に入ったよ。」
 僕たちは車に乗り込んだ。梶川君がエンジンをかける。いつか聞いたような歓声がカーオーディオから流れてきた。
 Lou Reedが一周したのだ。

ー続ー

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