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【連載小説】『陽炎の彫刻』6‐2

 土手の上の方からミクを呼ぶ声が聞こえた。声の聞こえた方向に目を向けると、ミクの母親と見られる女が自転車から降りてハンドルを握っていた。ミクは土手を登っていった。途中で一度だけ僕たちの方を振り返った。ミクが母親のところまでたどり着くと、母親は僕らの方に軽い会釈をした。その会釈の中に、僕たちに対する猜疑心と警戒心(ミクが初対面の僕に見せたものよりも強い)を感じた。それは梶川君も同様だったようだ。
「あの母親、僕たちのことを不審者とでも思ったんじゃないかな。」
「そうかもね。」
 母親に連れられて遠ざかっていくミクが、歩きながらもう一度僕たちの方を振り返った。梶川君はミクに大きく手を振ってそれに応えた。僕は可能な限り親しみの含んだ笑顔をミクに向けたが、その試みが上手くいったかどうかはわからない。
「今はさ。」
 梶川君は続けた。
「今は街中のいたるところに、あの例の事件のポスターが貼られているでしょ。君も見た?あのお尋ね者の。」
「見たよ。」
 例の事件とは、先日この町で起きた通り魔事件のことだ。幸い被害者の命に別状はないようだったが、犯人の逮捕にはいまだ至っていない。警察は被害者の証言をもとに犯人の似顔絵を作成し、それをポスターにしてさらなる目撃証言を求めている。僕も自分のアパートの近くにある掲示板や駅でそのポスターをよく見かけていた。
「だからこの街の親は、みんな気が立っているだろうね。」
「でも、ポスターの似顔絵は僕にも君にも似ていなかったよ。」
 ポスターの顔は、明らかに僕たちとは似ていなかったし、犯人の年齢も40代から50代と聞いていた。僕たちがあの母親に疑われる筋合いはないはずだ。
「関係ないんだよ。あの人らにとってそんなことは。君はあのポスターを前にした人間全員が隅から隅まであれを凝視すると思うかい?」
 言われてみれば、確かにそうだと思った。僕もあのポスターを何度か見かけたけど、仮にあの似顔絵にそっくりの人間を目撃したとしても、どこにどうやって連絡をすればよいのかを知らない。犯人の身長や体型も分からないから、顔だけが似ているというだけではその人間と似顔絵の人物とが同じだと断定できないかもしれない。あのポスターには、それらの情報もしっかりと記載されているはずなのに。
「本当はみんな、あの事件をなかったことにしたいんだよ。だからあのポスターをまじまじと見るようなことはしない。安心して暮らすには、犯人の顔を覚えないことが一番なんだ。」
「でも、犯人の顔が分からないと、不安になるんじゃないか?」
「安心に暮らすことと、安全に暮らすことは似てるようで違うと思うな。犯人の顔を知っていなければ、犯人とすれ違うことがあっても怖い思いをしなくても済むだろう。でも、安全に暮らすためには、奴の顔を覚えておいた方がいいかもしれないね。安心が犠牲になるかもしれないけど。」
 妙に彼の言葉に納得してしまい、なかなか返す言葉を探し終わらないうちに梶川君は言った。
「あのポスターの一番の効果はさ、街にいる見知らぬ人の顔の大半が、あのポスターの似顔絵に似ているような感じを抱かせることなんだよ。だから、お尋ね者の逮捕に、あれはほとんど意味がないと思うね。」
 彼はそう言いながら、河川敷のグラウンドで行われている野球の試合を見ていた。
「確かに僕たちは、あのポスターの似顔絵と似ても似つかない。共通する特徴もない。けど、そんなことはあの母親たちには関係のないことなんだよ。」
 僕はすっかり彼の言葉に感心してしまっていた。安心して暮らすためには、あのポスターの顔を覚えないで、初めからそんな事件なんてなかったかのように振舞いたい。でも、安全に暮らすためには、犯人の顔を知っておかなければならない。そんな、安心と安全を同時に求める心情が、ポスターを一瞥するに留めるという行為に僕たちを導いているのだろうか。街の人の、そんなアンビバレントな心情を浮き彫りにする厄介なポスターが、当時この街の至る所に見られた。
「それにあの母親の勘、意外と間違ってないかもしれないし。」
 最後に彼は言い添えた。この言葉の意味が、今でも僕は分からない。梶川君も、僕が知らないだけで、あの通り魔のような暴力的な一面があるという事なのだろうか。もしくは、梶川君や僕には、ミクの母親から信用を得られないような何かがあると言うのだろうか。
 でも、と僕は思った。でも、僕が誰かに危害を与えなくても、例えばミクが僕の目の前で誰かに危害を加えられていたとして、梶川君に言われて初めてポスターを目にしているにも関わらずあの通り魔事件の容疑者の情報をいまいち把握していないことに気づくような僕は、適切な対応ができるだろうか。もしかしたら、目の前で起こっている事態の非日常性に混乱し、狼狽し、あの簡単な3桁の電話番号さえ錯乱して思い出せなくなるかもしれない。あの母親の目線は、僕たちが不審者かどうかということを警戒していたのではなく、自分の娘を守ることができるかどうかという懐疑の視線だったのかもしれない。確かにそう考えれば、あの母親の勘は、梶川君の言う通り、案外間違っていないのかもしれないと思った。僕たちは、あの母親から信頼を得られるような大人ではないかもしれない。
「それより、ゲームのルールを説明するよ。」
 梶川君がルールを説明した。
「あの少年野球の試合、どっちが勝つと思う?」
 僕は、つばだけが赤い白い帽子を被ったチームが勝つと予想した。梶川君は対するチームが勝つと予想した。
「どっちが当たるか勝負だ。」
「早い話が、賭けか。」
 梶川君は僕を横目で見ながらにやつき、頷いた。
「何を賭けるんだい?ものによっては問題になるよ。」
 僕は聞いた。後半は冗談で言った。
「今日の晩飯。」
 彼は答えた。
 賭けは、僕の負けに終わった。

―続―

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