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【連載小説】『陽炎の彫刻』6‐1

 4月。もう花は散り始め、少しずつ葉桜に変わりつつあった。
 空気も暖かく、日夜過ごしやすくなってきた。その日は土曜日で、仕事が午前中で終わった。僕は家に帰り、昼食を摂った。冷凍していたご飯を解凍し、チャーハンを作って食べた。奈沙からのメールを返信して、溜まった洗濯物を片付けた後は、コーヒーを淹れて寛いでいた。外にはホトトギスの鳴き声が聞こえる。窓から外を見ていると、時々ツバメが猛スピードで、カラスが優雅に横切ってくのが見えた。
 そうしていると、何か音楽が聴きたくなってきた。そういえば、ここには梶川君の部屋にあるようなオーディオがない。CDを聴くためにプレーヤーはあるにはあるが、このプレーヤーも何かの必要に駆られて買ったものだったと思う。音楽を聴く時、音質にそれほどこだわったことがないことに気づいた。突然、あの部屋で、あのオーディオでいつも音楽を聴いている梶川君が、何だか羨ましく思えてきた。
 僕は、ノートパソコンを開いて、オーディオについて調べてみた。様々なメーカーのものがある。しかし、どれがどんな音を出すものなのか、それぞれのオーディオが出す音の特徴がどういうものなのか、僕にはいまいち把握できなかった。
 梶川君に聞いてみるのが早いかもしれない。そう思って、飲み干したコーヒーカップを台所に持っていき、洗った。リビングに戻って携帯電話を確認すると、丁度梶川君から電話がかかってきていた。僕は折り返して電話した。梶川君はすぐに出た。
「仕事中だった?」
「いや、仕事は午前中に終わったよ。コーヒーカップを洗っていただけ。」
 電話の奥で、梶川君が小さく笑うのが聞こえた。
「君は正直だね。回答が具体的。」
 電話越しに、子どもの声と風の音が聞こえてくる。彼は外にいたのだ。
「要件は何だい。」
「今日、晩飯どうかなと思ってさ。」
「構わないよ。丁度君に聞きたいこともできたところだったんだ。」
 電話を肩と耳に挟んで僕は、ノートパソコンの電源を落として閉じた。
「君、今から来れるかい?」
「今から?」
時刻はまだ3時前だ。晩飯時にしては早すぎる。
「今からじゃ、ちょっと早すぎないかい?」
「そうなんだけど、ちょっといいゲームを思いついたんだ。」
「ゲーム?」
 一体何が行われるのか、その時僕にはさっぱり分からなかった。それに、このような突飛な提案をしてくるというのは、シラフの彼にしては珍しいことだった。
「飲んでいるのかい?」
 一応、僕は確認した。
「まさか。土曜日だけど、さすがにこんな時間からは飲まないよ。」
 彼は、僕の確認を冗談と捉えたらしい。彼はシラフのようだ。だが、いずれにしてもいい予感はしない。
「ひとまず、すぐに来られそうかい?」
「一応、大丈夫だけど。」
「じゃあ、待っているよ。ゲームのルールは着いたら説明するからさ。」
 僕は、梶川君から落ち合う場所を聞いて、電話を切った。

 僕がそこに行くと、梶川君は河川敷の土手に座っていた。隣には見知らぬ5、6歳くらいの女の子が座っていた。女の子は彼と一緒に、何かを作っていた。
「やあ、急に呼び出して悪かったね。」
 僕が近づいて声をかけると彼はそう言い、女の子は僕に目を向けた。女の子の視線は、さっきまで梶川君に向けていたものとは違って、軽い警戒を含んでいた。彼と女の子が一緒に作っていたのは、シロツメクサの冠だった。すでに女の子の左腕には緑と白のブレスレットが巻き付けられていた。
「その子は?」
 彼が提案したゲームのルールよりも先にこの子の正体について尋ねたのは、そのほうが自然だと思ったからだ。
「ミクっていうんだって。」
「君も知らない子なの?」
「うん。俺がここで君を待っていたら、声をかけられたんだ。たまにここに来るんだってさ。」
 不思議なことに、なぜか子どもという子どもが梶川君を好んだ。きっと彼も子どもが好きだったように見える。僕が見る限り梶川君の子どもに対する好意は、例えば教員や保育士を志望する人間が特定の個人にある特徴や性格を子ども全体に投影することによる勘違いから生まれるものではなかった。彼はおおよそほとんどの子どもに見られるであろう特性や性格(それを言葉にすることは難しく、だからこそ直感的という曖昧な表現に止まるわけだが)を直感的に見抜き、それこそを好いていたように思う。
 梶川君は作りかけの冠を手に持ったままのミクに向き直って、僕が自分とどのような関係の人間であり、そして僕と関わるのに警戒心が必要になるわけではないということを説明した。それによってミクが僕に向ける視線にあった警戒は、初対面の人間に対するごくありふれた気まずさに変わった。ミクは梶川君ともあまり言葉を交わすことはなかった。口数が少ない分、視線は饒舌な少女だった。
 僕は梶川君の隣に座った。梶川君をミクと僕とで挟むような恰好になった。梶川君は、ミクに草の冠の作り方のレクチャーに戻っていた。彼が意外にも手先の器用なことを、僕はここで知った。土手を降りて行った先には、河川敷のグラウンドで少年野球の試合が行われていた。
 やがて、草の冠が完成し、ミクはそれを自分の頭に載せた。
「上手じゃん。よく似合っているよ。」
 ミクはその言葉に照れくささと、僕に対する相変わらずの気まずさをにじませた表情を見せた。僕は彼のように、子どもと打ち解けるのは難しい。

―続―

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