【連載小説】『陽炎の彫刻』4‐1

 秋。「大人になるということは、飽きるということです。」と、大学生の時とある教授がそう言っていたのを思い出す。
 秋は老いの季節だと思う。日差しも草木も何もかもが、老いて色褪せる。秋は「飽き」という言葉からきているのかもしれない。そうであれば、秋は老いの季節だというのも納得できる気がしないだろうか。飽きるということは大人になることで、大人になるということは、その分だけ老いていくということなのだから。(もちろん、僕はそのような語源学的根拠を知っているわけではない。)
 梶川君は一つ年をとった。誕生日を迎えたのだ。プレゼントを受け取るのが苦手な梶川君には、毎年食事を奢ることにしていたのだが、その年は彼に贈り物を考えていた。もう一つ祝うべきことがあったからだ。
 僕はセーラーの万年筆を彼に送ることに決めた。とても高級なものは買えなかったが、使い方を誤らなければ一生ものにもなるはずだ。それに、これから彼は多く言葉を書き連ねる仕事に就くかもしれないわけだ。これからの彼にちょうどいい贈り物ではないだろうか。
 僕はその日、仕事を終えて梶川君の家に行った。幸いにも仕事が予定より長引くことはなく、7時頃には彼の家に到着できた。家に着いた時、梶川君は照れ臭そうな表情を浮かべて僕を見た。
「やっぱり、こういうのは苦手だよ。」
 梶川君はそう言いながら、僕からのプレゼントを受け取った。
「たまにはいいじゃないか、こういうのも。遠慮はいらないさ。それに、合格祝いも兼ねているんだからさ。」
 梶川君の大学院入試が無事に終わり、彼は合格したのだ。合格祝いも兼ねた贈り物だった。
「でも、気に入ったよ。ありがとう。」
 僕は彼の感想に安堵した。僕はテーブルを見た。夕食時だが何も並んでいない。
「夕食はまだなのかい?」
「そうだよ。」
「なら、今から食いに行こう。」
 彼がさらなる遠慮を口にするよりも前に僕は「いつもの店でさ。」と言い加えた。あのファミリーレストランなら遠慮も何もない。恥ずかしながら、この夜の僕はいつになくはしゃいでいた。
 不思議だ。祝う側の方がはしゃいでいるというのは変だが、それが当たり前のような気もするのは何故だろう。祝われる側には、年をとることや前に進むことに伴ってのしかかってきそうな重荷が予見できるからだろうか。だから祝う側よりもはしゃげるものではないのかもしれない。そして、祝う側はある意味では、年をとったり前に進んだりすることの重圧に無頓着でいられる分、気楽にはしゃげるのかもしれない。ただ単に、祝われる側の恥ずかしいという感情だけではないような気がする。
 僕たちはそれからいつものように、ファミリーレストランで食事を摂った。いつもと違うところを挙げると、酒を頼んだことだ。梶川君が酔ったところはなかなか見られないものだった。彼は酔うと饒舌になり、普段ではしないようなふざけ方をする。いたずら心に火の着いた彼は、僕の奢りだと一方的に決めて(別に構いやしないのだが)、追加でいつもより多くの品を注文した。
「入学までに色々と準備があるのかい?」
「別に、大学は都内だから引っ越す必要もないし。家は今のままだよ。会社を続けていたら、仕事の引継ぎとかあったかもしれないけど。」
 その時、僕は梶川君が大学院に進学しても、この関係が何となく続くような気がしていた。その時に覚えたのは、変わらないことへの安心だったか、それとも変わらないことへの漠然とした惰性への飽和感だったか、その時は判然としなかった。
「実は君が来る前に、映画を一本借りてきたんだよ。」
 梶川君は家で一緒に観ないかと提案した。70年代のイタリア映画で、僕も前々からそれとなく目星を付けていたものだった。
「僕も見たいけど、明日も仕事なんだ。今日は酒も入ってしまっているし。申し訳ないけど、今日はパスにしようかな。僕もまた借りて観てみるよ。」
「そうか、わかったよ。また何か一緒に見ようじゃないか。僕も入学して研究に追われるようになったら、今みたいにゆっくり映画も見られないだろうしね。」
 僕たちは駅まで一緒に歩いて行った。平日のちょうど帰宅ラッシュはピークを越えていたが、まだ人の往来は多かった。どこか喫茶店で1時間くらい時間を潰せば確実に混雑は避けられる。人の多い場所が嫌いな僕は、歩きながら喫茶店で混雑する往来をやり過ごそうと決めた。
 秋風が涼しい。秋の夜は肌寒いくらいだ。夏より汗をかかなくなったであろう彼は、さっきの酒をどうやって外に出すのだろう。そもそも、彼は汗をかくのだろうか。
「それじゃあ、また。」
「じゃあ。万年筆、大切に使うよ。」
 僕たちは駅で別れた。梶川君はバス乗り場の方へ、僕は改札を挟んだ駅の反対側の出口の方へ向かった。改札前を通り過ぎる時、どこかの路線が人身事故の影響で遅延していると電光掲示板に出ていた。歩きながら一瞥したので、あまり詳しくは事態を把握できなかった。

ー続ー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?