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Tokyo Undergroundよもヤバ話●’70〜’80/地下にうごめくロックンロールバンドたち             第1話『満月の夜に舞い踊る/ジョージ』

取材・文◎カスヤトシアキ
話・写真提供◎野月譲治
 

プロローグ

 
 ジョージとの付き合いは古い。出会いは30年以上も前になるだろうか。かつて、右も左もわからないままに冨士夫(※1山口冨士夫)のマネージャーをやっていた頃、ジタバタする毎日の中で、たくさんの不可思議な輩が冨士夫をぐるりと取り巻いていた。その中で、ひときわ背の高いシャイな男がジョージだった。彼は周りの誰よりも少しばかりマシで、ちょっとだけマトモだった。無口で、ワガママでもなく、接しやすかった。1987年に青ちゃん(※2青木眞一)と組んだバンド『ウィスキーズ』では、ジョージ&青木眞一のツイン・ギターヴォーカルで、交互に歌う姿が印象的であった。

 すでに、“セックス・ドラッグ・ロックンロール”という時代ではなかったが、当時、僕が絡んでいた冨士夫やコウ(※3伊藤耕)は、まさに絵に描いたような強者たちで、個性が沸点を振り切るほどに強く、社会からはみ出た者たちのカリスマ的な存在であった。

 『ロック』が単なる音楽のカテゴリーではなく、ラジカルな生き方そのものを表しているのだとすれば、ジョージの生き様は、破滅的でもなく、暴力的でもなく、身勝手でもない。酒が好きで、酔っ払うと吠えたりもする。でも、そこら辺はどんなミュージシャンでも“アルアル”の範囲だ。酩酊してだらしなく崩れ落ちる様と、官能的なステージの対比は黄金比と言っても良い。
 まぁ、単にそれは僕の好みなのかも知れないが…。
 

●山口富士夫(タンブリングス)「N O S O N G」(1983年)ニューイヤーロックフェスティバルTV放映時の貴重なショット

●青木眞一(スピード)「インタビュー」(1976年)

●スピード「Boys I Love You」(1976年)
Vo.ケンゴ/Gu.に良(ザ・フールズ)が入っている

●THE FOOLS「つくり話」(1982年)


 
 時は流れ、2000年代に入ると、僕らが見ている景色は一変した。アナログがデジタル化されたことにより、かつてのロックはすっかりアク抜きされてしまったが、それでも当たり前のような気概を持って、自分たちの音を鳴らし続けているミュージシャンたちがいる。ジョージもそのひとりなのだが、現在64歳の彼が率いるバンド『藻の月』は、バンド・サウンドの核の部分で、レン・Gu(平山連25歳)と、カノン・Dr(君島花音27歳)というZ世代の若いミュージシャンが活躍している。
 気がつくと音楽の世界は一巡し、再びアナログ時代の価値観が見直されつつある。Z世代の若者たちもパンクやロックンロール世代のベテランたちも、同じシーンを共有する舞台が出来上がってきているのである。 
 

●藻の月「Random」(2021年03/29/ShowBoat)

 
 このnoteでは、そんなジョージを筆頭に、無名のレジェンドたちのヒストリーをご紹介していきたい。80年代から2023年のJapan indiesシーンを牽引する、名も無き演者たちの宴として……。
 

ジョージ(野月譲治)プロフィール

■藻の月/Vo・Gu
 1959年生まれ。青森県三沢の出身。ドイツ人の父と青森県人の母を持つ。1979年頃、ヴォーカリスト川上浄と出会い、メンバーが流動的だった後期の『自殺』に参加。その後『コックサッカーズ』に改名してからは、ジョージのオリジナル作品でファンの心を掴んだ。そこで得た人脈とメンバーは、青木眞一(村八分・TEARDROPS)と組んだ『ウィスキーズ』、尾塩雅一(ルージュ)との『Canon』へと発展し、ロックンロールの伝説を生んだ。以前からのメンバーに加え、新たなメンバーと『藻の月』を結成。新メンバーの“若い魂”を注入し、過去と未来を繋ぐ“月の夜“を描いている。

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いつものcaféで


 春めいた景色が、冬のうちに固くなった気持ちまでをほぐしていく。そんな気分を味わいながら、石神井川の辺りをゆったりとバス停に向かった。“少し遅れるかもな”と思い、LINEでその趣旨を連絡しようと思い『ジョージ』を開いたら、“16:00待ち合わせ”という文字が目に飛び込んできた。「しまった!」1時間間違えて記憶していたのだ。すでに16時を20分も回っているではないか!あわてて1時間遅れの連絡と、謝りのLINEをジョージに送り、ちょうど来たバスに乗って、再びLINEの着信を確かめてみた。すでにジョージからの着信が届いている。

『(笑)! 』 

 ………それだけであった。

………………………………………

 高円寺に着いて小走りになる。ふと待ち合わせ場所の『Yonchome Cafe(4丁目カフェ)』を見上げると、窓際でこちらを “(笑)”しているジョージが映った。怒ってはいないようだ。店の奥にある窓際まで行くと、「よおっ!」とジョージが右手を上げた。「わるいね!遅れて」と言いながらテーブルを見ると、目の前に水とハイボールが置かれていた。

「これは?」と言いながら腰掛けた。

「ちょうど良いところに来たな!トシの好みを頼んどいたよ」
 
 ジョージは遅れたわけを聞くでもなく、軽くビールのジョッキを持ち上げながら言うのだった。

「まずは乾杯だな!それじゃあ、何から話せば良いんだい!?」って。
 

ジョージ/談『野月譲治・誕生話』

 『親父はドイツ人将校、お袋は米軍相手のホステスだった』

「俺の生まれは青森県の三沢市。親父はドイツ人で、空軍の将校だった。後にアメリカに帰化して、アメリカ国籍になるんだけど、背の高い男だったって聞いているよ。残念ながら俺は覚えちゃいないんだけどね。2歳くらいまでは三沢にいたんだけどさ、親父の面影も何も覚えちゃいねぇんだ。

 お袋も背が高かった。170以上はあったな。どんなイメージかって言うとさ、例えばダイアナ・ロス(※4)みたいな感じ。顔の造作の何もかもパッチリしているって意味でね。スタイルは抜群に良かったな。ガキの頃、よく“前田美波里(※5)”に似ているとも思った。まぁ、息子のひいき目と思って聞いてくれよ(笑)。お袋は7人姉妹の上から2番目だったって聞いている。だから、きょうだいぜ〜んぶ女。実家が何をやっていたのかは知らねぇな。聞きそびれたよ。大したことはやってねぇと思うよ(笑)。

 お袋の仕事は米軍相手のホステスさ。基地御用達のクラブで働いていた。だから、それなりに派手だったのかも知れねぇな。外国人が好きだって言っていたよ。そこは俺も“no problem”だ。個人の自由だからね。だけど、お袋の実家はそうはいかなかったんだと思う。東北独特の保守的な考え方もあるんだろうな。お袋が俺を産んだのは30歳くらいのときなんだけど、俺は完全に隠されたんだよ、世間からさ。俺はお袋の知り合いの家に預けられて育ったんだ。だから、生まれたての青森での2年間は、他人の家で過ごしたらしい。まぁ、当たり前だけど、俺自身はそんなことはどうでも良いんだ。意識もしてねぇよ。そこが我が人生の始まりっていうわけ。たいして面白くもねぇ幕開けだって思っているんだけどな!(笑)」

※青森県三沢市は、戦後の米軍進駐による基地建設ラッシュで人口が増大し、1950年の朝鮮戦争で前線支援基地となり、大きく発展した。ジョージが誕生した1959年以降は東西冷戦によるロシアや北朝鮮の脅威を念頭に、米軍の戦闘機や自衛隊機合わせて、約100機が常駐する「北の槍(やり)」と呼ばれる実戦基地となる。ジョージの父親は米軍の将校として、この空軍に従事していたと思われる。当時は、「基地は国策」「基地と共存共栄」という先入観が、一種の「思考停止」状態を生み、三沢の将来を語ることを妨げていると言われていた。
 

『立川に移住した途端に、お袋はシングル・マザーになったってわけさ』

「俺が3歳になる頃に、親父は横浜に移ったんだ。それをお袋が追いかけて行った。その後に結局、立川で落ち着くことになるんだけど、ほら、基地があるからさ、親父は基地で働かなきゃ食っていけねぇんだから。だけど、そこで早くも2人の恋のEndingになるんだな。新しい女を作ったんだよ、親父が。毎月の支援が途絶えたことでお袋がそれに気づいたんだ。そこからはシングルマザーの人生が始まるってわけ。1人で働いて俺を育ててくれるって展開さ。ホステスをやりながら好きな男の何人かはできたんだろうけど、決して再婚はしなかった。同じような境遇の母親仲間に言われたらしいんだ。”再婚すると、息子がひがんでグレるよ”って。そう、だからってわけじゃないが、俺は決してグレなかったよ。けっこうガキ大将でヤンチャだったけどな。ケンカもよくした。何たって目立つからさ、小4の時に小6の何人かに“生意気だ”ってんでボコボコにされたことがある。それでちょっとは考えるようになったんだ。俺なりにだけどね。内向的になったっていうか、哲学的になったっていうか、つまりは、ちょっとは頭を使って世間を考えるようになったってわけだ。そういう意味じゃ、良かったのかもな。ガキはケンカをしながら育っていくもんだからな。なんてね」

小学生の頃のジョージと高八
遠足にて、真ん中でおどけるジョージ

※ジョージの母親は、シングル・マザーとしてジョージを育てるのに、(ホステスを辞め)猛勉強をして生命保会社に就職したのだという。母親がホステスだった時代は、1人きりで食事を摂ることが多く、寂しい思いをしていたジョージだったが、再婚もせずに自分を気遣いながら育ててくれた母親と、22歳になるまで一緒に暮らしていた。母親は2019年他界。91歳であった。
 

『俺の時代もまだハーフは“アイノコ”って呼ばれていたんだ』 


「差別も当然のようにされたよ。冨士夫(山口冨士夫)じゃないけど、俺の時代でも俺たち混血児は、まだ“アイノコ”って呼ばれていたからね。

 よく覚えているのはさ、小学校の先生が『お前はみんなから“アイノコ”って言われているらしいけど、黒人の“アイノコ”よりはまだマシなんだぜ』ってお門違いの慰められ方をした時さ。そんなバカ話はねぇよな。だけど俺は気にしないことにしていた。でもさ、そういう言葉って残るんだよ、心にさ。忘れていてもトゲのように刺さっていることがある。その言葉を後年、冨士夫に出会った時に思い出したりもしたよ。その瞬間に言葉を飲み込んだけどね。俺は奴で、奴は俺だっていう漠然とした想いがある。いつもどこかに刺さったトゲを隠している者同士としてね」

少年時代の野月譲治(ジョージ)

●母親から贈られたグレコのカスタム・フライングVを弾く


 

『“スクリュー・バンカーズ”って知っているかい?最高のロックバンドさ』


 「音楽のきっかけはドラムなんだよ。何でかな、とにかく叩くのが好きだったんだよね。セットもないから電話帳を並べて叩いていたんだけどね(笑)。ピアノも習っていたんだけど、1年で辞めちまった。そのうち安いギターを買ってもらってさ、グループサウンズの真似事みたいなことを思いつくわけ。ヴォーカルには興味なかった。やっぱりギタリストがカッコイイと思ったんだ。『自殺』で一緒になる高八(たかっぱち・※6高橋清次)とは、小4の時からのダチだった。中学になると奴とバンドを組んだりして、ヴォーカルを探すんだけど、良い奴がいないんだよね。それがいまだに続く我が人生の悩みでもある。結局は自分で歌っちまうんだけどさ(笑)。実はずぅっと悩んでいるんだよ。そっちからは見えないかも知れねぇけどな(笑)。好きだったのは、御多分に洩れずBEATLESとROLLING STONESだな。アメリカのバンドでは、ドアーズとチャックベリー以外は興味なかった」
 

「高校の終わり頃かな、学園祭で『ルージュ』か『スクリューバンカーズ』だったか忘れちまったけど、まぁ、どちらかを見てさ、“面白れぇ!”って思っちまったんだ。それが、ほんとうにバンドをやろうとしたキッカケかな!? まだまだ遊ぶことばかり考えていたクソガキだったけどね(笑)」
 

『ROUGE』&『Screw Bonkers』

※『ルージュ(ROUGE)』は1975年、加藤和彦氏プロデュースによりデビュー。ストーンズ的なイメージとコミカルな歌詞のコントラストが印象的だった。セカンドアルバムの制作中に、メンバーのドラッグ問題で空中分解、そのまま解散した。

 僕自身、1976年の秋、多摩美の大学祭で『ルージュ』を見て呆気にとられたことがある。それまでの日本のバンドにはないスタイルだったからだ。間違いなくカッコイイのだが、どこかダラダラとルーズでもあった。ずっと後に、メンバーだったオス(尾塩雅一)と行き合った時に聞いたことがある。「多摩美のステージでピンクレディーの『U F O』を演ったじゃない、すごく重いリズムでさ。あれは最高だったねぇ」って。そしたらオスは「演ったか?俺は知らないよ。まったく覚えてない。レコーディングだってメチャクチャだったんだからさ、覚えてるはずない」と言って笑っていた。

『スクリューバンカーズ(Screw Bonkers)』は、『ルージュ』のルーズでコミカルだった面を排除して、ストレートでず太いロックンロールを狂おしいほどに発揮したバンドであった。ストリート・スライダースをはじめ、数えきれないほどの日本のバンドに影響を与えている。

●ROUGE「New York Baby」(1975年)


●ROUGE「HEAVY MAMA」(1976年)


●crew Bonkers「うせろ」(1977年)

 
(第1話/満月の夜に舞い踊る/ジョージ 終わり▶︎第2話に続く)

●カスヤトシアキ(粕谷利昭)プロフィール

  1955年東京生まれ。桑沢デザイン研究所卒業。イラストレーターとして社会に出たとたんに子供が生まれ、就職して広告デザイナーになる。デザイナーとして頑張ろうとした矢先に、山口冨士夫と知り合いマネージャーとなった。なりふり構わず出版も経験し、友人と出版会社を設立したが、デジタルの津波にのみこまれ、流れ着いた島で再び冨士夫と再会した。冨士夫亡き後、小さくクリエイティブしているところにジョージとの縁ができる。『藻の月』を眺めると落ち着く自分を知ったのが最近のこと。一緒に眺めてはどうかと世間に問いかけているところである。

※1 山口冨士夫 
プロフィール 1949年8月10日生まれ。 東京都出身。米軍人の父と日本人の母を持つ。3歳の頃、阿佐ヶ谷にある施設に預けられ15歳までを過ごす。高校入学(中退)と同時にグループサウンズ『ザ・ダイナマイツ』に参加。“トンネル天国”などのスマッシュ・ヒットを飛ばすが1969年に解散。1970年、京都に移住し『村八分』を結成。1973年の京都大学西部講堂でのラストライヴは伝説化され、収録したライブ・レコード(CD)は今も売れ続けている。後に加部正義と『リゾート』を組み、『裸のラリーズ』へ参加、1983年からは自身のバンド『タンブリングス』を結成。『シーナ&ロケッツ』にゲスト参加した後に、『ティアドロップス』として初のメジャー活動をした。後にソロとなり、『カウンターカルチャーバンド』『フジオ・チコヒゲ&レイ』などの独特な活動をしていたが、晩年は体調を崩しリハビリをしながらの音楽活動であった。2013年福生でアクシデントにより死去。立川基地に縁のある人生であった。
※2 青木眞一 
プロフィール 1951年1月5日生まれ。 東京都出身。セツ・モードセミナー在学中に、1970年『村八分』初代ベーシストとして音楽活動を始める。1976年『スピード』でギタリストに転身し、1980年、伊藤耕たちと共に『ザ・フールズ』を結成。1983年からは山口冨士夫と行動を共にし、『タンブリングス』→『ティアドロップス』で活動するが、1987年、冨士夫の活動停止と共に、ジョージと『ウィスキーズ』を結成し、限定的ながらも印象的な活動をした。1991年、音楽活動を休止。最後のステージは2008年11月8日の山口冨士夫クロコダイル・ライヴでの飛び入であった。2014年死去。
※3 伊藤耕(いとう こう) 
プロフィール 1955年10月2日東京生まれ。ルアーズ、SEX、SYZE、伊藤耕&ヘヴン、THE FOOLS、ブルースビンボーズなどのボーカリストとして活動。2017年10月17日、北海道月形刑務所の服役中に死亡し、真相を追求する裁判で国側は過失を認め、4300万円の賠償金で和解した。映画『THE FOOLS 愚か者たちの歌』は2023年に上映され話題を呼んでいる。
※4 ダイアナ・ロス
(Diana Ross、Diane Ernestine Earle Ross、1944年3月26日)は、アメリカのポップ・ソウルの女性歌手である。


※5 前田美波里(まえだ びばり)
アメリカ人の父親と日本人の母親をもつ日本の女優。

※6 高橋清次
通称/高八(たかっぱち)は、ジョージの立川時代からの幼馴染みであり親友である。中学時代からバンドを組み、『自殺』『コックサッカーズ』でも良きパートナーであったが、高八自身はミュージシャンに専念することはなかった。現在もジョージの適切なアドバイザーとして仲が良い。
 

●NEW RELEASE INFORMATION

2023/7/12 OUT 『WHISKIES』CD


●6/4 sun 国立@地球屋LIVE 

出演・藻の月・その日の天使・サダ
charge 1500 yen
open19:00 start19:30



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