インド洋

文明と地図を考える その8

今回は、プトレマイオス図のまだ説明できていない部分、

・インド方面の海岸線が詳細に描かれるようになった
・アフリカ大陸とインドが、南側でつながっている(インド洋は内海)

という2点について触れていきます。

インド方面の海岸線が詳細に描かれるようになった大きな理由として、紀元前1世紀ごろから始まった「ヒッパロスの風」を利用したインドとの南海貿易の影響が挙げられます。

ヒッパロスの風とは、インド洋に吹く季節風(モンスーン)のことです。

1世紀頃、アレキサンドリア在住の著者(氏名は不詳)によって書かれたとされる「エリュトラー海案内記」によると、この季節風を利用して最初にインドに到達したのがギリシア人のヒッパロスだったとあり、これが「ヒッパロスの風」という呼称の起源になっています。

「エリュトラー海案内記」は、紅海からインドへの航路や交易地の様子を克明に記した航海案内書です。

プトレマイオス図のインドまでの海岸線は、これらの書物を参考にして描かれた事は間違いないでしょう。これが、インド方面の海岸線が詳細に描かれるようになった理由と考えられます。


ただ、人の名前が何かの名前になる…という形は、当時その行動がかなり凄いことだったという意味です。

例えば、樺太とロシアの間に「間宮海峡」という海峡がありますが、これは間宮林蔵という幕末の人物が、樺太と大陸は海で隔てられている(樺太が島である)ことを証明したためつけられた名前です。

このことから、当時のヒッパロスの航海とモンスーンの発見は、ローマ人にとってかなり凄い出来事であったと考えられます。

そして、ヒッパロスの航海からそれほど経っていない時期であれば、インド・ローマ間の貿易はかなり勇気のいる船出であり、当時ローマでインド産の物産はかなり珍重されたことから考えても、行き来する船の数はそれほど多くはなかったと考えるのが妥当です。

少ない情報量から推測を重ねると、いろいろ間違った方向に結論が行ってしまうことはよくあります。プトレマイオス図にも、いくつかその傾向が見られます。

まず、インド付近の様子を見ると…

・インド半島がほとんどない

・その南側に巨大な島がある

ことがわかります。

どうやら、南の大きな島は今でいうセイロン島のようです。

インド半島とセイロン島を混同している様子が見て取れます。


さらに、インドのガンジス川から東を見てみましょう。

ガンジス川の出口に当たる分はベンガル湾ですね。

そしてその東側ですが…これは、マレー半島に当たると思われます。

その東側はタイランド湾でしょう。

それなりに位置関係は正確なようです。

当時の世界観ではマレー半島~タイくらいまでは海路で行ける認識があったことになります。


さらに北側に目を移すと、ヒマラヤ山脈にあたる山脈の北側に

SERICAと記載されています。

これは、紀元前1世紀ごろからギリシャやローマで中国を指して使われていた呼び名で、「絹の国」という意味です。

この時期は既に、古代ローマ帝国と中国は当時、内陸アジアの草原や砂漠地帯を横断する「シルク・ロード」で結ばれていました。

この道を通ってローマに絹がもたらされていたことは有名ですよね。

ここまでの諸地域の位置関係も大体あっています。


ところが、SERICA(中国)そしてマレー半島より東をよく見ると…

アフリカ大陸と陸続きになっていることがわかります。

…なぜこんなことになったのでしょうか?

これは、「インドとアフリカに同じ動物が生息している」という認識が原因であると考えられています。

その代表例が象です。

実は、インドに象がいることは、アレクサンダー大王の東方遠征の際に既に知られていました。

上の画像はWikipediaからの引用です。

ヒュダスペス河畔の戦いで、アレクサンダー大王軍は、ポロス率いるインド諸侯連合軍と激突、その際にインド軍の戦象(アジアゾウ)がアレクサンダー大王軍に立ち向かっています。

一方、アフリカゾウの存在も古代ローマ帝国では知られていたようです。

このため、「同じ動物が生息している=陸続きである」という認識が生まれたものと考えられます。

この頃は大陸移動説はまだ提唱されていませんから、陸続きであるという結論以外、その事実を説明する方法がなかったことはうなずけますね…。


…でも、逆にもしこの時期にインドの東側の様子が正確に伝わっていて、「インドとアフリカが陸続きではない」ことがはっきりしているとしたら、プトレマイオスはインドとアフリカに同じ動物がいる事実をどう説明するのか…と少し気になってしまいました。

大陸移動説が2世紀に誕生していた可能性があるのでしょうか…?


さて、ここまでプトレマイオス図の誤りをいくつか取り上げてきましたが、

実際のところは、プトレマイオス図は古代ギリシャ・ローマ時代の地理的な研究・知識の粋を集めた集大成と言える地図です。

プトレマイオスの「地理学(Geographia)」と、その理論に基づいて描かれたプトレマイオス図は、その後の地理学の発展の礎になりました。

近世までの科学的な地図はプトレマイオス図を加筆修正したものであることからもそれは明らかです。


しかし、古代ローマ帝国の滅亡という時代の大きな流れにより、地図の世界は思わぬ方向に変化していきます。

次回は、中世の地図の世界について書いていきたいと思います。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!


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