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犠牲者意識ナショナリズムと加害者意識(その3)

前回からの続きです!


1963年1月27日のアウシュビッツ解放18周年記念式に日本の反核平和活動家4名が参加しました。
広島からアジアとヨーロッパの23カ国を経由する3万3千キロを8ヶ月かけて歩いた「広島・アウシュビッツ平和行進」の一団でした。

行進団の目的は広島の経験と被爆者の証言を通じて全世界の反核平和運動と結びつくことで、行く先々で悲劇の現場を訪れてその地の被害者たちとの連帯を図るのが目的でした。



ところが、立ち寄ったシンガポールで想定外の問題にぶつかりました。
彼らが1962年5月に到着した頃、海岸沿いの建設現場で日本軍に虐殺された中国系住民数百人の遺骨が見つかったのです。
アジアの隣人に対する日本軍の残虐行為を忘れていた参加者たちにこの事件は衝撃でした。
町を覆った反日感情に驚いた団長の佐藤は犠牲者のために法要を営み、さらに参加者全員で遺骨の発掘作業を手伝いました。


自分たちが第二次世界大戦の最大の犠牲者だと考えていた広島の被爆者がシンガポールで日本によって犠牲にされた人々に出会ったのです。

また、原爆の被害も日本人だけではありませんでした。
明治以降に「国民」とされた朝鮮人や台湾人、沖縄出身者に加え、中国人や連合軍捕虜、在留外国人などもともとの国民でない犠牲者もたくさんいました。

犠牲者の記憶の裏に隠れている加害の歴史にきちんと向き合わない限り、広島の経験は国内だけのものになってしまいます。



アジアの隣人に対する日本帝国の侵略性と加害者だったという記憶から意図的に目をそらし、世界で唯一の被爆国であると強調する戦後日本の犠牲者的記憶は加害者としての自己を「目隠し」するものとなってしまいました。


ポーランドについて

戦後ポーランドの記憶文化は、ナチズムの犠牲を強調する党の公式記憶とスターリン主義の犠牲を強調する草の根記憶を両軸に構成されていました。
政治的には正反対を向く二つの記憶が合流し、ナチズムとスターリン主義の間に挟まれたポーランド民族こそが第二次世界大戦での最大の犠牲者だという文化的記憶が作られました。

ポーランドでは第二次大戦での死者が人口の18%~22%に達しました。
この比率は人口の14%を失ったソ連の比率より高くなっています。
首都ワルシャワでは人口120万人の6割にあたる72万人が犠牲になりました。教育水準の高い知識人(弁護士、医師、教師、司祭など)とエリートグループほど犠牲者比率は高くなりました。
ところが1985年に公開されたクロード・ランズマンのドキュメンタリー映画「ショア」の中で、ポーランド人がユダヤ人迫害の共犯であるかのように描かれていて衝撃を与えました。


多くの平凡なポーランドの農民たちが反ユダヤ主義の偏見を口にしていたのです。
最も多くの血を流してナチに抵抗したという道徳的名分と抵抗の記憶はポーランド人の草の根反ユダヤ主義を覆い隠す「目隠し」でしかなく自分たちはその中に閉じ込められていたのだと知ったことはショックでした。

1943年のワルシャワゲットー蜂起の時にもポーランド市民は無関心でした。
虐殺者でも犠牲者でもないポーランド人の大半は一貫して沈黙を守る傍観者でした。

さらに2000年5月ヤン・グロスの著書「隣人たち」が出版されました。
本の中で明らかにされたのは、ポーランド東部辺境にある人口3000人の村、イェドヴァブネで1941年7月に1600人強のユダヤ人が虐殺され、その虐殺の主体が、ポーランドの隣人たちだったことです。
グロスが発掘した歴史は衝撃的でした。



歴史の加害者が記憶の犠牲者へと変身するとき、共通して起こることがあります。
関わった個々人が自分のしたことを棚に上げ、歴史の構造の後ろに隠れるのです。


イェドヴァブネの加害者も同じでした。
彼らは虐殺の主犯はナチスドイツの占領軍だとしたのです。
さらにポーランド人は加害者ではなくユダヤ人共産主義者の犠牲になったとしました。
このように犠牲者民族であるという集合的な過去の陰に隠れて個人の加害の記憶を消すのです。

1946年7月、ポーランド南部のキェルツェでポグロム(ユダヤ人虐殺)が起きましたが、ポーランド民族主義右派によって否定されています。
ポーランドがナチから解放された後もユダヤ人虐殺事件は起こりました。
虐殺の主体は平凡な群衆でした。

ポーランド議会は2018年3月、1944年にユダヤ人を救ったポーランド人のウルマ夫妻を称えて、3月24日を「ドイツ占領下でユダヤ人を助けたポーランド人を称える祝日」としました。
同じ年に改正された「国民記憶院法」ではホロコーストなどについてポーランド民族に責任があるとか、ナチに協力したという事実と異なる主張をして民族の名誉を汚した者を処罰する条項が盛り込まれました。
「ポーランドの強制収容所」という曖昧な用語を使うことも禁じられました。
2016年に開館したユダヤ人をかくまったことで命を落としたウルマ一家の記念館は、ホロコーストの共犯というイメージを相殺できるよい事例でした。
ナチとスターリン主義の最大の被害者でありながら自身と家族の命をかけてユダヤの隣人を救った「正義の人」ウルマの記憶は、イェドヴァブネやキェルツェでのユダヤ人虐殺の事実を否定するのです。
結果として根深い反ユダヤ主義などの問題は意図的に見過ごされました。



植民地支配を受けた民族だから、犠牲者民族の一員だからという理由で人権を踏みにじった個人の犯罪行為に免罪符を与えるのは、個人の考えや行動ではなく民族によって罪の有無を決めるという点で反ユダヤ主義と変わりません。

犠牲者民族の一員であるから無罪として加害者が犠牲者になりすますのは、イスラエルの行為を見ていても危険です。

参考文献
「犠牲者意識ナショナリズムー国境を越える「記憶」の戦争」林 志弦著



執筆者、ゆこりん

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