見出し画像

真間の手児奈伝説異聞『恋ひてしあらん』

 一
 
「殿は、またふさいでいらっしゃるのか?」
 阿保(あぼ)親王に仕える帳内(とねり)・藤原俊政は、外出先から戻るや否や家人らに尋ねた。
「はい、いつも通り……。
 ああして、母屋で一人、庭を眺めながら、ただため息ばかり漏らしておいでです。もう二刻ほどにもなりましょうか……」
 話を聞いて、俊政のほうも一つ大きくため息をついた。
「殿の病にも困ったものだ。今日お持ちしたクスリが効いてくれればよいのだが……」
 
 遠くの山々が色づき始める中、阿保親王は一人、脇息(きょうそく)にもたれかかった姿勢のまま、庭の中ノ島に植えられた木々が秋風に揺られるのを、見るともなく眺めていた。朽葉色の直衣(のうし)を着て、立烏帽子をかぶり、手には金地に千鳥の絵が描かれた扇を持って、時折、大きくため息をつく。
 その様子を遠くから眺めながら、母屋の入り口でしゃがみこみ、俊政が語りかけた。
「俊政が戻りました。殿、相変わらずお加減はすぐれませんでしょうか」
「おお、俊政か、ご苦労。体のほうは、相変わらずじゃ」
「殿、大宰の方がお亡くなりになられて、もう一年あまり。殿がふさいでばかりいらっしゃるようでは、鬼籍に入られた大宰の方もお喜びにはなりますまい」
「うむ。それは、わかっておるのじゃがな」
 阿保親王は平城天皇の皇子であったが、先年「薬子の乱」と呼ばれる反乱事件にかかわったとして、大宰府に流されるという憂き目にあっていた。
 その不遇の時に配流先で出会ったのが、「大宰の方」と呼ばれるたいそう美しい女性であった。
 やがて罪が許されると、阿保親王は大宰の方を連れて京へ戻った。ところが、それからしばらくして大宰の方は病となり、この世を去ってしまったのだ。
 それ以来、親王はすっかり落ち込んで、食事もろくにのどを通らないといった日々が続いていた。まだ四〇代半ばだというのに、めっきり老け込んでしまったように見える。
「どうでしょう。新しい奥方様でも娶(めと)られてみるというのは?」
「うむ、残念だが、その気にはなれぬわ。この寂しき胸の内を癒やしてくれる女性になど、もう当分出会えそうもないからな。
 大宰の方のような素晴らしい女性は、都にはおらぬ。そう思うと、どんなに月日が過ぎても、悲しみは募るばかりじゃ」
 相変わらず庭の木々を見つめながら、涙さえ浮かべている親王に対し、俊政は、少し離れた廂(ひさし)に近い場所で、かしこまった姿勢を崩さずに話を続けた。
「そうそう、殿。実はここに来る前に少し変わった話を耳にいたしました」
「ふむ。どんな話じゃ?」
「『真間(まま)の手児奈(てごな)』の話は、殿もご存知でいらっしゃると思いますが……」
「ああ、それならもちろん知っておる。万葉歌でも讃えられている絶世の美女じゃろう。あの山部赤人も、手児奈のことを歌に詠んでいたな」
「そうです。田舎人でありながら、類まれなる美貌を持ち、東国ばかりか遠く都の殿上人までが懸想(けそう)したというあの手児奈です。
 そして、自分をめぐって多くの男が争うことを気に病み、ついには自ら海に身を投げたという伝説がある女性です」
「そうじゃったの。
 やはり大宰の方といい、真間の手児奈といい、本当によい女というのは、都ではなく、鄙(ひな)びた土地にしかおらぬのではないだろうかとさえ、この頃は思うようになったよ」
 真間の手児奈と大宰の方を重ね合わせたことに手ごたえを感じた俊政は、ここでひと際大きな声で親王に向かって言葉を投げかけた。
「実は殿、その真間の手児奈の子孫に当たる娘がいる、という噂をご存知ですか?」
「なに? それは初耳じゃな」
「しかもその女、まるで手児奈と生き写しの美人だそうで。東国から運脚として都へ入った者の話が広まったらしく、いまや殿上人の間でもたいそう評判となっております」
「なんとあの……『望月の足れる面(おも)わに花のごと笑みて立てれば(満月のように満ち足りた面立ちで、花のように微笑んで立っている)』とうたわれた、あの手児奈に生き写しの子孫が、今も健在でいるというのか……
 して、その者は、どこに住んでおるのじゃ?」
「はい、それがどうやら、上総(かずさ)国におるようなのです」
「なんと……上総か!」
 これまでふさいでいた親王の顔に少し赤みがさした。その機をとらえて、俊政は言葉を重ねた。
「はい、殿は当地へ赴いてこそいらっしゃいませんが、まごうことなく上総国を治めていらっしゃる太守様にございます。
 ここは一つ、国衙(地方の役所)に人を遣わし、手児奈の子孫を京に召すよう命じてみてはいかがでしょう?」
 俊政は、満面の笑みで親王を促した。色好みで知られる親王なら、即座に行動に移されると思ったのだが……、当の親王は、
「うむ」
 と一言言って、しばし考え込むように顔をしかめた。
 少し不安になり、俊政が、
「殿……?」
 と語りかけた時、阿保親王は、千鳥の柄の扇を畳み、それで左手のひらを軽く叩きながら、こう言った。
「いや、それには及ばぬ。わしが自ら上総へ行こう。すぐに支度にとりかかれ!」
「は!」
(これは少しクスリが効きすぎたか……)と思いながら、俊政は、急いで親王の東国行きの手配を始めたのである。
 
 二
 
「なに? 手児奈に子孫などおらぬと申すのか?」
 上総国の国衙正殿の一室で、阿保親王は思わず、大きな声を上げた。
 上席に座している親王から数間離れた場所で、冷や汗をかきながらひたすらかしこまった姿勢をとっているのは、上総介(かずさのすけ)である。上総太守である阿保親王の直属の部下に当たるが、実質的には上総国の長として国を治める地位にある人物だ。
「は、申し訳ございません。さようにございます」
 阿保親王は、あきれ顔で側近の俊政と上総介の顔とを交互にながめながら、
「都では真間の手児奈の子孫の噂で持ちきりだというのに……、当の上総ではそのような話は聞いたことがない、と申すのか?」
「は!」
 上総介は平身低頭の姿勢のまま、話し続けた。
「それが私どもでも不審に思っているところなのでございますが……こちらでは、そのような噂はとんと耳にいたしません。
 事前に早馬で親王様ご下向の話をお聞きしましてから、国衙の者はもとより、下々の百姓にまで声をかけ、噂を聞き集めたのでございますが……それらしい話は一切聞き及ぶことができませんでした」
 そうして上総介は、文机の上に山と積まれた文などを親王の御前に差し出すよう家臣の一人に指示した。
 親王はそれらをいくつか取り出してはパラパラとながめた。どの書にもそのような噂は聞いたことがないといったことばかりが書かれている。
「そもそも手児奈は、言い寄る男が多すぎたことを苦にして処女(おとめ)のまま入水した女子(おなご)でございます。ゆえに子孫など残っておらぬと考えるのが自然なのではないでしょうか」
 目線は少し上げたものの、相変わらず冷や汗をかきながら、上総介は自分よりも十ほども年下の上司に向かって、恐る恐る話を添えた。
 親王はややふてくされたような顔つきで手慰みに目の前の書を右から左へと動かしながら、
「確かにその通りなのじゃが……手児奈にも兄弟(はらから)や縁者はおったろう。その子孫などは生きてはおらぬのだろうか……」
「は、その筋も当たってみたのですが、はかばかしい報せを得ることは叶いませんでした」
 上総介は再び頭を下げた。
 その時、親王が、
「これは!」
 と声を上げた。手には一通の文(ふみ)を持っている。
「なんと香しい……。麝香(じゃこう)にも似た、えもいわれぬ香りがする。なんだ、この文は……」
 上総介は困ったような顔をして、
「はて、ひょっとすると親王様のお目に触れるやもしれぬと、誰かが香でも焚きつけたのかもしれませぬな」
「それにしてもこのような香り……都でもなかなか味わえぬぞ。さて、これには何と書いてある?」
 親王は香ばしきその文を広げてみた。そこにはこうあった。
「葛飾(かづしか)の 真間の手児名を 我れに寄すとふ 真間の手児名を
 勝鹿(かつしか)の 立ち平(なら)し 水汲ましけむ 手児名し思ほゆ
 人にも告げむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥つ城(き)ところ
 にほ鳥の 葛飾早稲(わせ)を にへすとも」
 親王は、側に仕える藤原俊政にも文を見せつつ、こう述べた。
「女の手(筆跡)のようだな。
 しかし、この美しさはどうだ! とても鄙(ひな)びた田舎人の書いた文字とは思えぬ。都でもこれに勝る文字を書けるものはそうはおるまい。
 しかし、ここに書かれておるのは……歌のようでありながら、そうではないな。三十一文字(みそひともじ)になっておらぬからな。
 いや待てよ。三つ目のものは山部赤人の歌であったな。初めの『我れも見つ』が抜けているのだ。
 どの歌も一部が抜けているのやもしれぬ。介殿はわかるか?」
 そういって上総介に文を手渡すと、彼はかしこまりながらそれを受け取り、一通り眺めてこう言った。
「なるほど。ご賢察の通り、これは真間の手児奈の伝承歌の一部のようですな。これならすべて諳(そら)んじております。今より抜けているところを書き足していきましょう。
 誰か筆を持て!」
 
 やがて、上総介は歌の一部を補い、再び文を親王に献上した。([]内が上総介の補った部分)
「葛飾の真間の手児名を [まことかも] 我れに寄すとふ 真間の手児名を
(あの葛飾の真間の手児奈のことを! 本当かい、私と関係がある人として噂しているそうな! あの真間の手児奈のことを)
 勝鹿の [真間の井見れば] 立ち平し 水汲ましけむ 手児名し思ほゆ
(葛飾の真間の井を見れば、地面が平らになるほど何度も水を汲みにきたという真間の手児奈のことがしのばれるものだ)
 [我れも見つ] 人にも告げむ 勝鹿の 真間の手児名が 奥つ城ところ
(私は見た! 人にも告げよう! 葛飾の真間の手児奈の墓の在り処を!)
 にほ鳥の 葛飾早稲を にへすとも [その愛(かな)しきを 外(と)に立てめやも]
(『潜(かず)』くで有名なにほ鳥にちなんでいうと、『葛』飾の早稲(わせ)を捧げて斎(い)み籠っている時でも、あの愛(いと)しい人を外に立たせたままでいられるものか)」
「はて、どこかの誰かが伝承歌を集めてみたものの、不案内でこのようなものになってしまったのかもしれませぬな」
 と、上総介が言ったところで、親王が静かに声を発した。
「ふむ……。いや、待てよ。
 今、介殿が補ったところだけを並べてみても、なにやらちょうど三十一文字になるようだ」
「あ、確かに……」
 文を覗き込みながら、俊政もそう言った。
「すると、なになに……
 まことかも 真間の井見れば 我れも見つ その愛しきを 外に立てめやも
(本当のことなのだ! 真間の井を見さえすれば……。私もこの目で見たのだ。あの愛しい人をいつまでも外に立たせておくことなんてできるものか!)
 と、なるか……。なんとも珍妙で不可思議な歌だな。
 あまり上手とはいえぬが、一応意味は通るようだ。『真間の井で愛しい女性が立っているのを見た』といったところだろう」
「介殿、この『真間の井』には、心当たりはござらぬか?」
 そう言って俊政が尋ねると、上総介が即座にこたえた。
「はい、存じております。
 真間の井というのは手児奈が水を汲んだという言い伝えのある井戸のことで、ここから乾(いぬい)(北西)の方角十里ほどのところにございます」
 それを聞くや否や親王は、
「よしっ、すぐに向かおう!」
 と命じた。俊政は、
「いや、殿。十里と申しますと、今からですと、どんなに急いでも着いた頃には日も暮れてしまっています。明日に致したほうが……」
「何を言う。『その愛しきを 外に立てめやも(愛しい人を外に立たせておいていられるものか)』というではないか!
 幸い、今宵は月夜だ。夜更けになっても構わぬ。急げ、すぐに支度をせよ!」
 
 三
 
「真間の井はその林を抜けたところ、もうすぐでございます。ただし、ここからは木々の合間を抜けてまいりますので、誠に恐れ入りますが、徒歩(かち)にてお進みくださいませ」
 親王と俊政、そして上総介と多くの家人たちという一行は、真間の井へとたどり着いた。まだ日も高いうちに国衙を出たのだが、もうすっかり暮れてしまい、煌々とした月明りだけが足元を照らしていた。
「さあ、ここを抜けると、高い木はなくなり、草だけの野原になっているところに出ます。そこにポツリとあるのが、『真間の井』でございます。
 あっ!」
 説明をしながら真っ先に進んでいた上総介は、井戸を目の当たりにした瞬間、悲鳴にも似た声を上げた。
 やがて、家人らに道を整えてもらいながら親王と俊政が続いていく。
「どうした、介殿。まさか真間の手児奈が水汲みしているとでもいうのか?」
 口に笑みを含ませながら、親王はそう言って、井戸のほうへと視線を向けた。その時、
「あ!」
 全員が声を揃えた。
 林を抜けた先には、二〇間(約三六メートル)四方ほどの小さな草むらがあり、その東北寄りの片隅に古い木造の井戸があった。そして、親王ら一行から見て、ちょうど井戸の向こう側に当たるところに、うら若い女性が、ぽつんと一人で立っていた。
「手児奈……」
 と親王が口走り、その場にいる皆が同じことを思った。
 粗末な麻の衣だけを身に着け、長くて黒い髪は、ろくに櫛さえ通していないように見えるのに、まるで月の光をそこだけに集めたかのごとくつやつやとした輝きを帯びていた。
 肌は透けるように白く、どこまでも白く……、慈愛と憂いを同時に秘めたようなまなざしは、見るものの目を惹きつけずにはいられなかった。
 身なりは貧しい庶民のそれなのに、ただ立っているだけでどこか気品のようなものが感じられた。そして、あの文と同じ麝香のようなふくよかな香りが漂ってくる。
 なにより彼女の体全体が清らかで荘厳な光をわずかながら発しているように見えた。
 伝説の真間の手児奈、そのままの姿だった。いや、一つ違うのは、伝説の手児奈が花にたとえられるような笑顔をしていたのに対し、この女性の顔には笑みは一切無く、それどころか涙ぐんでいるように見えた。
「手児奈……」
 そう言って親王は、女性のほうへと近づいた。
「殿!」
 俊政らがとどめようとするのも聞かず、親王はただ一人先に進んでいった。
 ところが、近づくにつれ、彼女の姿がぼうっと霞んでいくように見えた。そして、あと二間(約三・六メートル)ほどに迫った頃、女の姿は、背後の闇の中に溶けるように消えてしまった。
「あっ」
 と、親王は声を上げた。
「えっ」
 と、親王の後を追ってきた俊政らも、同じく声を上げた。
「消えた……」
 親王らは驚きながら左右を見回したが、どこにも彼女の姿は見当たらない。
 そのうちに俊政は振り向き、まだ草むらの入り口の近くに陣取っていた上総介らに声をかけた。
「介殿。手児奈がどこに行ったか、そこからは見えなかったか?」
「は?」
 不審な顔をして上総介らはこたえた。
「手児奈がどこに行ったか、知らぬかと聞いておるのだ」
「はぁ、女なら、さっきからずっと……そこにいるではありませんか?」
 当惑しきった顔をして、上総介は井戸の先を指さした。
「なに~! お前たちからは、まだ手児奈の姿が見えているというのか?」
 俊政らが驚いて聞きなおすと、上総介らはなにも言わずにうなずいた。
そう、遠くから見ている上総介らからは、女の姿が変わらずに見えていたのだ。
「そんなバカな……」
 と思いながら、親王や俊政らは後ずさりをした。
 すると、先ほどとは逆に井戸から少しずつ遠ざかっていくにつれ、徐々に女性の姿がぼんやりと浮かび上がってきたのだ。
「なんと、奇妙な……」
 俊政は言った。続けて親王は、
「これは……まるで手児奈の子孫の噂話と同じではないか?
 遠く京の都でははっきりとその存在が、まことしやかに語られていたのに……現地へ近づけば近づくほど、噂話が跡形もなく消えていく……。
 手児奈、そなたはやはり幻なのか? いや、手児奈だけではない、世の男が求める理想の女性というのは、すべて幻影にすぎないというのか?
 遠くから思いを募らせる時には、その姿が、実際に近くで見ている時よりもはっきりと瞳の奥に映る。しかし、それを手に入れようと夢中になって追い求めていると、いつの間にか幻の如く消えてしまう……。
 手児奈、そなたは、むやみに美しい女性たちを追い求めようとする男たちに、その無駄な行いを改めさせようとして、再びこの世に現れたというのか?」
 井戸の奥に立つ女性は、やはりなにも言わず、憂いを秘めた漆黒の瞳で一行を、とりわけ阿保親王のことを熱く見つめた。そして、ひとすじの涙が、その美しい瞳から零(こぼ)れ落ちた。
 親王は、その涙に促されるように女性に声をかけた。
「手児奈よ、なぜ泣く。なぜに涙を見せる!
 そなたは遠い昔にも、そうやって男どもの限りない欲望と、わがままと、争いごととに悩まされ、やがて身を投げたと聞く。
 そうなのか? そなたは、男たちの身勝手な愛に泣かされてきた女性たちのことを思い、涙を流しているのか?
 私のしたことは、身勝手な男たちの情欲に振り回され、それを断ち切ろうと自ら命を絶った手児奈の悲しみを、再びこの世に蘇らせてしまっただけなのか?
 それとも、そなたは、決して手に入れることのできない理想の愛、あるいは理想の女性との実らぬ恋に身を捧げ、一生を狂わせてしまった憐れな男たちのために、涙を見せてくれたのか?
 そうなのか? あくなき色好みは、男も女も不幸にするだけなのだと、我々に伝えるために、遠く黄泉(よみ)の国からやってきてくれたというのか?」
 親王がそう言い終わると、女性は麻の着物の袖で涙をぬぐい、少しだけ微笑んだ。その微笑みは、いくつもの芙蓉(ふよう)の花が一斉に咲き乱れたかような神々しい輝きを見せ、その場の空気が一瞬にしてさわやかな風に包まれたかのような錯覚さえ思わせた。
 ところが、次の瞬間、芙蓉の花が一斉に散ってしまったかのように、女性の姿は消えていった。後には、深遠な闇と、井戸を照らす月の光だけが残った。
「消えた……」
 親王も、俊政も、遠くで見ていた上総介らもほぼ同時にそう言った。
「まことかも 真間の井見れば 我れも見つ その愛しきを 外に立てめやも
(本当のことなのだ! 真間の井を見さえすれば……。私もこの目で見たのだ。あの愛しい人をいつまでも外に立たせておくことなんてできるものか)」
 一行の頭の中に、この地を訪れるきっかけとなった歌が、蘇った。
 
 しばらくの間、女性が立っていたその場所を、なにも言わずにぼんやりと見つめていた親王であったが、やがて意を決したように俊政のほうを向いてこう述べた。
「俊政……ありがとう。どうやら私は間違っていたようだ。色好みに明け暮れて、ただひたすらに美しい人の面影を追い続けることなど、もうやめたほうが良さそうだ。
 むやみやたらに美しい女性を追い求めていても、男も、女も、ともに幸せにはならぬのだろう。
 亡くなった大宰の方のことは、忘れはせぬ。これからも慕い続ける。しかし、幻影を追い続けるようにして、亡くなった人のことだけを思い続けるのは、もうやめにしよう。
 俊政も言ったように、そんな姿のままでいるのは大宰の方も喜びはしないだろうからな」
 親王は、俊政のほうを見て笑顔を見せ、俊政もまた微笑んだ。
「殿。そうです。女性を思い続けることは悪いことではありませんが、ほどほどになさるのがよろしいかと……」
 そう言うと、親王は一つ大きく笑った。
「そういうことだな。
 上総介殿、この度はたいそう世話になったな。とりあえず、帰路を急ごう」
「は!」
 こう言って一行は、真間の井を後にした。
誰もそばにいなくなった井戸のまわりには、しばらくの間、月光が照り返したかのようなわずかな輝きが漂っていた。
 
 帰りの道すがら、親王は、俊政に向かってこう述べた。
「そうじゃ、俊政。これは私一人だけの話ではないな。息子たちもじきに大きくなる。
『色好みはほどほどにしろ。美しき女の幻を追い続けるようなことはやめたほうがよい』と、教えてやらねばならぬな」
 そう言って、親王ら一行は、高笑いをしながら帰途を急いだのである。
 
 四
 
「それでは、これより東国へと旅立つ。そなたたち、辛い旅になるかもしれぬが、ついてきてくれるか?」
 一人の、見目(みめ)麗しき青年貴族が、仲間と思(おぼ)しき数名の若く高貴な貴族たちに向かってこんな言葉を述べていた。
 
 残念ながら、阿保親王の願いが叶うことはなかった。
 親王の子息らは臣籍降下し、「在原」の姓を得ることとなった。子どもたちの中でも特に色好みと名高い五男業平は、美しき女性たちとの出会いを求め、各地をさまよった。そして今、父の親王が真間の手児奈の幻影を求めて上総国へと向かったように、彼もまた、東国へと旅立とうとしていた。
 在原業平の色好みの伝説は、のちのちまで語り継がれ、やがて『伊勢物語』のモデルとして世に知られるようになる。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?