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『刀身と鎌』

 東海道五十三次のうち、八番目の宿場町である大磯では、旧暦五月二十八日に降る雨を、「虎ヶ雨」という。
 仇討ちで有名な曽我兄弟の兄、曽我十郎祐成の愛人だった遊女、虎御前が、十郎の命日に流した涙が、毎年のように雨となって、しとしとと降るのだという。
 その虎ヶ雨に降られ、急ぎ足で東海道を下り、大磯の、とある旅籠の戸を叩いた男がいる。
 身なりからするとれっきとした武士のようだが、伴も連れず、一人旅であるところからすると、それほど身分の高い武士ではないのかもしれない。
「ごめん! 空いているかい?」
「へえ、少々お待ちください。」
 年かさの宿屋の主人が、ゆっくりと戸を開けると、しっぽりと濡れそぼった侍が中へと入ってきた。
「おお、ご主人、助かった。今日は空き部屋はあるかい?」
 男は、主人の返答も聞かずに、もう草鞋を脱ぎ、足を洗いはじめようとしている。
「はあ、いえ、泊まれないことはないのでございますが……。」
「そうか! 有り難い。今日は、どこぞの大名の行列でも泊まっておるのかのぉ。どこの宿もいっぱいでの。
 ところが、わしの少し前を歩いていた男が、この宿に入って行ったのが見えたのでな。ひょっとして、ここなら、まだ空いとるのかと思ってな。いやぁ、そいつぁ良かった。」
 上機嫌に足を洗っている侍とは対照的に、顔色のすぐれない宿の主人は、申し訳なさそうに、こう告げた。
「いや、お侍さま、ただ、大変申し訳ないのでございますが、本日は、こちらどの部屋も、いっぱいでございまして、あいにく相部屋となってしまうのですが、よろしゅうございますか?」
「おぅ! これだけ宿場が混んでおるのなら、それも仕方なかろう。よいよい、たまには、どこぞの会ったこともない侍と酒を酌み交わすのも、旅の一興というものじゃ。苦しゅうない、案内せい。」
「はあ、それが……。相部屋となりますのは、お侍さまの少し前に入られました男の方でして……。へえ、お侍さんではないようで……。」
 この言葉を聞いて、侍の顔から笑顔が消えた。大きな地声がひときわ大きくなり、申し訳なさそうな顔をした宿屋の主人にこう言葉を浴びせたのである。
「なにぃ! あの男と一緒だと! あの男、身なりからすると、農民のようではないか?
 なにゆえ農民がこのような宿に泊まるのか、いぶかしく思っておったのだが……。そんな奴と一緒に眠れるか! 別の部屋を用意せい!」
「はぁ、大変申し訳ございませんが、もう他のお部屋も相部屋でいっぱいになっておりまして……。あちらの方とご一緒でなければ、大変申し訳ねえのですが、うちではもうお泊めするお部屋はございませんで……。」
 主人のすまなそうな声を聞きながら、まさに苦虫をかみつぶしたような顔になった侍は、やがて意を決したようにつぶやいた。
「……。むぅ、仕方ない。まさか雨の中、野宿というわけにもいかんだろう。
 わかった、わかった。主人の顔を立てて、今日は農民めと相部屋で我慢しよう。しょせん、どうせ一宿一飯だけのつきあいじゃ。よし、世話になろう。」
「誠に、申し訳ございません。それでは、窮屈でございましょうが……。はい、こちらでございます。」
 侍は、宿屋に上がると、主人の後について廊下を歩いた。
 やがて、とある部屋の前でしゃがみこんだ主人は、すっとふすまを開けた。
 すると、例の農民が、土下座をして侍を迎えるような姿勢をとっていた。どうやら、宿のおかみさんあたりが先回りして、相部屋をお願いするとともに、その相手が少々うるさい侍のようだ、と告げておいたのだろう。
 それは懸命な判断だった。侍は、相変わらず高飛車な態度は崩さぬものの、何もいわずに部屋の中に入っていった。
「すぐに、お茶をお持ちいたします。」
 なんとも微妙な二人の間の空気に耐え切れなくなったかのように、宿の主人は、この言葉を残し、急いで部屋を出て行った。
 しばしの沈黙の後、侍は言葉をかけた。
「ふん、お前、名はなんと申す。」
 声をかけられ、やっと農民は顔を上げた。年は三〇前後であろうか。侍よりも一回りは下に思える青年であった。
「は、あ、あっしぁ、よ、与吉と申します。」
「どこぞの男よ?」
「は、目黒の不動尊の近くで田を耕しております。」
「おぅ、目黒か。あの辺りゃぁ、田んぼと武家屋敷と両方があるからな。わしの国の下屋敷も目黒にあるわい。ところで、なんで農民がこんな旅籠に一人で泊まっておるのよ。」
「はぁ、それは……。」
「お伊勢参りかい? それにしても一人旅たぁ、珍しいじゃねえか。」
 農民は、なぜか追い詰められたような顔をして、額には冷たい汗が流れていたが、侍はさして気にもとめていないようであった。
「失礼いたします。」
 宿の女が茶を持って入ってきた。救われたような気がしたのは、農民のほうだったろう。
 女の持ってきた茶をすすると、もはや侍は、農民の旅のことなどどうでもよくなったのか、もうそのことには触れなくなっていた。
 農民のほうは、少しその顔に安堵の色が見られたものの、出された茶には一切、手をつけずに、ただひたすらじっと、時が経つのを待っていた。
「お前さん、自分はついてねえな、とでも思っているかい?」
「あ、いや、めっそうも……」
「ふふっ。隠さんでもよい。思っておるのだろうて。
 最近じゃあ、武士と農民が旅籠で相部屋なんて珍しいこっちゃないだろう。それなのに、こんな窮屈な思いをすることになってのお。不運じゃのお。」
「い、いえ、と、とんでもござい……」
 侍は、農民がしゃべるのをまったく気にしていないかのように、農民のしゃべる言葉が終わらぬうちに、どんどん一人で茶を飲みながら、しゃべり続けた。
「だがのぉ、わしはな。嫌いなんじゃ、農民や町人という奴が!
 決して自分たちだけでは生きられない! わしら武士が、安心して住める世の中を作り上げているからこそ、こうしておまんまも食える! お前のように贅沢に旅までしおる奴もいる! 朝起きて、糞を垂れて、田を耕しゃぁ、一生食っていける! こんな幸せなことがあるか!
 そんな世の中を作り上げたのは、誰だ! 武士だぞ! それなのに、最近は、生意気にも文句ばかりいいおって、時には、一揆など起こすこともある。
 冗談じゃない! われわれ武士のおかげで、のうのうと生きておれるようになったのに、感謝するどころか、不平不満ばかり漏らしよる!
 くだらん! くだらん奴らばかりじゃ!」
 侍は激して、飲み干した茶碗を畳に叩きつけるやいなや立ち上がり、農民を一瞥すると、そのまま部屋を出て行った。侍は、廊下にいた女中に突然、
「湯だ! 上がったら飯にするから、飯の支度をしておけ!」
 と、荒々しく声をかけた。
 農民は、一人で勝手に激怒して部屋を出て行った侍を横目で追いながら、ほっとしたように、冷めかけた茶をゆっくりと乾ききったのどに注いでいた。
 
 侍が湯から戻った時、部屋には膳が据えてあり、女中が新しいお茶を入れていた。もっとも侍の膳は、部屋のほぼ真ん中に置かれていたが、農民の膳は、それと向かい合う形だが、壁際にそっと申し訳なさそうに置かれていた。おそらくは、宿の者ではなく、農民が自ら、少しでも静かに食事ができるよう、その位置に膳を据えたのであろう。
「ふんっ。」
 といいながら、侍も膳につき、茶を一口すすると、箸をとった。それを見て、安心したように農民も茶に口をつけた。
 支度がすべて整い、女中が下がろうとしたその時、侍が声をかけた。
「おい!」
 震え上がるようにして、女中が恐る恐る声を出した。
「なにか、お気に障ることでもございましたでしょうか?」
「この宿では侍と農民と同じものを食わせるつもりか?」
 女中は、「またそんなことか」とでもいいたげな顔で、語った。
「申し訳ございませんが、私どもでは、一つしかお食事はご用意しておりませんので……。
 ただ、宿の主人が、ほんのお気持ちにと、お侍さんのほうには香の物が多めで、魚も大きめのものをご用意させていただきました。」
 その言葉を聞いて、二つの膳を見比べる侍。確かに魚は大きめのようで、少し顔の表情も和らいだようだ。
「ふむ、まあ、よいだろう。本来は、農民と一緒に飯を食うのもはばかれるところだがな。まあよい。
 土の臭いがするが……まあ、よいだろう。」
 少々ふてくされた顔をしたまま、女中がふすまを閉めて去って行くと、部屋には沈黙だけが残った。その中で、侍はがつがつと音を立てて食事をし、農民はできるだけ音を立てぬよう静かに食事をした。しかし、少し時が経つと、また侍は農民を一瞥して、話しかけた。
「むう! 肥やし臭い! 飯がまずくなるわ! もっと離れて飯を食え!」
「は、申し訳ございませんが、もう、後ろは壁でこれ以上は……」
「なに? 口答えするか? 最近の農民は生意気になりおって、すぐ口答えしおる。
 実に気にいらぬ! お前ら、誰のおかげでおまんまが食えておると思うのだ! 公方(将軍)様をはじめ、わしら武士が、平和な世の中を作ってきたからこそ、お前ら農民も飯を食えておるのだろうが!
 そういえば、なぜお前は、わしと一緒に飯を食っている! お前らなど侍が飯を食い終わってから食うべきじゃろう! 外で握り飯でも食っておればよかったのじゃ!
 ん? なんじゃ、その不満げな顔は……。
 わしに文句があるとでもいうのか? お前ら農民は、誰のおかげで、生活できていると思っておるのじゃ! なぜもっとわしら侍に感謝しないのだ! 馬鹿もんが!」
 侍の罵倒をこれまで静かに聞いていた農民の男は、やがて、ゆっくりと箸を置き、ゆっくりとしゃべりはじめた。
「ですが、お侍さん。お侍さんが食べてらっしゃるおまんまは、あっしら農民が作ったものですぜ。」
「なにを!」
「あっしら農民が、米を作らなかったら、どんなお侍さんだって、飯にゃあありつけねえんじゃねえですかい?」
「なんだと!」
 予想外の農民の言葉に、すっかり我を失った侍は、すぐさま、腰から刀を抜き、その切っ先を農民の鼻先に突き出した。
 ところが、鋭い刀身が目の前にあるにも関わらず、農民は怯えたところもなく堂々とふるまい、その口元には笑みさえ浮かべていたようだった。
「ふっ、きれいな刀でございますなあ。この美しさ……。どうやら一度も人を斬ったことはないようですなぁ。」
「なに~。」
「いやいや、そんなこたぁお侍さんに限ったことじゃございませんよ。
 天下泰平の世になってから、武士とは名ばかり。人を斬るどころか、猫の子一匹殺めたことなどないっていうお武家さんばっかりでしょう。真に武士の気概をもった侍なんてえのは、赤穂の浪士たちで最後ですよ。」
「な、な、なんじゃと……。」
 農民の言葉に、怒りは覚えつつも、その自信あふれる姿に、少々不気味さも覚えた侍は、先ほどから、少し震えているようだった。
「どうか、この刀をお下ろしください。その代わり、よいものをお見せしましょう。」
「なんじゃと……。」
 強がった声を出しながらも、侍は少しほっとしたように刀を鞘に収めた。
 その様子を見て、さらに冷笑するように口元をゆがめながら、農民は言葉を続けた。
「だって、そうでしょう。さっきから聞いていれば、侍は偉い、農民は感謝しろ、などといってばかりですがね、お侍さん。農民が毎日、田んぼで汗水たらしているから、公方さんだって、お侍さんだって、飯が食えるんでしょう。わしら農民は、毎日、農民の仕事をしているんですよ。
 それなのに、今時の武士は、武士らしい仕事はしちゃいないじゃないですか? 刀だって、飾りだ。お侍さんの周りに、実際に人を斬った武士の方がいらっしゃいますか? ところがですよ……」
 話をしながら、農民は懐に手を入れた。
「農民の中にも、人を斬ったことがある、なんて男もいるもんなんですよ、お侍さん。」
 男は、懐から、農作業で使う鎌を取り出した。その鎌の刃の部分には、包帯のようなものが巻かれていたのだが、男は、ゆっくりとそれをほどいていった。
 すると、その鎌の刃の部分には、たっぷりとした血糊が付着していたのである。
「な、なんだそれは……」
 侍は、なかば腰を抜かしそうになりながら、その鎌を見つめていた。
「もう、十日ほど前になります。あっしは、自分の田で、いつものように草刈りをしていました。へえ、いらねえ草を切らねえと、米がよく育ちませんからな。
 さっきもあなた様がいったように、目黒ってところは田のすぐそばに武家屋敷があるもんですから、いろんなお侍さんがよく田の周りを歩いております。その日もどこかのお侍さんがあっしの田んぼの脇を歩いてたんですなあ。
 ところが、あっしは全然そいつに気がついておりませんでした。夢中で草刈りをしておりましたので……。突然、『無礼者!』という声が聞こえ、初めてお侍さんがいたことに気づいた始末でございます。そのお侍さんがいいますには、あっしの鎌がお侍さんの腰の物に触れたとかいって、たいそう騒いでおります。
 そん時ぁ、あっしも怖かった。お侍さんが今のあなたと同じように鞘から刀を抜いて、今にも斬りかかりそうな勢いで怒鳴っているんですからな。あっしもひたすら土下座して謝りました。あなたが部屋に入ってきた時と同じようにですよ。」
 同室の侍は、農民の話の意外な展開に興味を覚えたのか、少々冷静な顔つきになり、しばし、何もいわずにその話に聞き入っていた。
「やがて、そのお侍さんが、刀を振り上げました。後から考えてみりゃぁ、あれはやっぱりただの脅しだったのでしょう。今のお侍さんは、実際に人を斬ることなんかできやしませんよ。
 でも、その時、あっしは、真剣に恐ろしかった。あぁ、殺られる! と、思った瞬間、まったく無意識のうちに、あっしはこの鎌で、そのお侍さんの首を斬っちまったんです。
 いや、無我夢中ってやつでした。そのお侍さんは、信じられないくらいの量の血を流して、その場に倒れました。ぴくりとも動かなかったと思いますよ。
 ……。それから、何をどうしたのか、自分でもよくわかりません。たぶん無我夢中で家に帰り、服だけ着替えて有り金を持って、山道を下ってきたのでしょう。気づいたら、こんなところに来ておったわけです。」
 農民はもはや、侍のほうを見ず、血だらけの鎌ばかり見つめながら、ひとりごとのように語り続けた。
「へへ、お侍さん、面白いでしょう。お侍さんたちの刀は、一つの血糊もついていないのに、農民の鎌がこんなに血糊で汚れているなんて……ぐっ。」
 侍は、男の話をここまで静かに聞いていたが、やおら刀を抜くと、農民の首をまさに一刀両断斬り落とした。鈍い声を上げたまま、農民の首級は、血糊の固まった鎌にこつんと当たった後、目の前の膳の上にぼとりと落ちた。
 侍は刀を鞘に収めながら、物いわぬ首級に向かって、静かにこう語った。
「お前ら農民が逃げるとなれば、山道を伝って、関所を避けるように行くだろう。だが、そのうちに腹も減るだろうし、人も恋しくなろう。いつかは、街道に出て、宿場に泊まることもあるだろうと、網をはっておったのよ。
 平塚辺りで怪しい一人旅の農民がいると聞いたのでな、ひそかに後をつけ、この宿屋にたどりついたところまでは良かったが、お前さんが、なかなか正体を現さんので、一芝居うつのに、苦労したわい。
 なにが与吉だ。生意気に嘘の名前まで語りやがって……。」
 ここまでいうと、侍は威儀を正し、ひときわ大きな声でこう語った。
「目黒の農民、佐吉! 我が兄、清十郎殺しの仇! ここに成敗致した!」
 その時、惨劇が行われたこの部屋のふすまが、すっと開けられた。
「いかがなさ……。ひいぃ!」
 ただならぬ物音を聞いて部屋に飛び込んできた宿屋の主人は、農民の首級を見て腰を抜かし、悲鳴を上げた。
 その声を聞き、逆に冷静さを取り戻した侍は、今度は主人に向かって静かにこう告げた。
「案ずるな。ご公儀の許しはとってある。
 仇討ちじゃよ。無事、仇討ちが終わったのじゃ。……。そうだ! 主人、酒を持て! 祝いの酒じゃ!」
「は、は、た、ただ今!」
 腰を抜かしながら、部屋を出る主人。再び侍は、農民の首級に話しかける。
「ふ、お前さんのいう通り、刀を抜かなくなった武士のほうも問題があるのかもしれねえがな……。商売道具の鎌を、別のことに使ったお前さんも……やっぱ、違うんじゃねえのかい。」

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