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普通で目立たない男の「激レアさん」な話し 小幡英司

 Be independent
 Be intelligent
 Be cooperative
 自立した人でありなさい
 知的な人でありなさい
 協力する人でありなさい
 マザー・ブリットの教え
 NHK「先人たちの底力 知恵泉」
 緒方貞子

20年来の友人でもあるオバタさん(小幡英司)は、一見冷静に見えて真に温かな人。だから、一緒にいると心地いい。東京品川から横浜に引っ越してきたこともあって、今年地元で一番呑んだ人でもある。

対談を終えて出てきたキーワードは「俯瞰力」。オバタさんは視点、視野を広げ視座が高いから全体を俯瞰して観ることができる人。理系出身の営業コンサルタントでありビジネス書作家。15年前、2008年5月に出版した「営業は準備が9割!」はロングセラーとなり、今、出版社からKindle化の話も来ているという。2016年6月には「社会人1年目からの1歩差がつく営業(秘)セオリー」を出版した。

ITエンジニアから外資系営業20年、現在、Udemy営業講座講師で技術営業力養成講座参加者300名突破している。1,187回目から1回10分、全8回のvoicyラジオ対談、フォローして聴いてほしい

オバタさん(小幡英司)は東京都豊島区巣鴨生まれだが、巣鴨の記憶はないという。一番古い記憶は埼玉県蕨市で、幼稚園から大学を卒業して社会人まで埼玉県川口市西川口で23年間暮らしていた。

両親は福島県福島市出身で、父親は路面電車の運転士。今も残る都電荒川線の庚申塚駅は俺の祖父、祖母、叔父が眠る西巣鴨西方寺があるので、よく路面電車を利用したし、娘たちが巣鴨の「ときわ食堂」で働いているから、オバタさんとの強い縁を感じた。

幼稚園に入るまでにはアルファベットを全部読めていたというオバタさん。幼稚園から小学6年生まで一緒で仲良くしていた女の子が中学で亡くなったことが大きなショックだった。女の子は頭の良い子だったが、交通事故に遭って勉強が遅れることを苦にした母親に殺されたのだ。中学生だった彼には到底受け入れられるものではなかった。ワイドショーでも取り上げられ、城山三郎(著)『素直な戦士たち』として長編小説にもなった。当時の日本の過熱する受験競争、学歴社会を描いた小説だ。それ以来、彼は人の生き死に反応が薄く感情的にならなくなった。父親が亡くなった時も涙が出なかったという。

小中高校と剣道部に所属、中学までは勉強をしなくてもできる子で常に成績は上位だったが、芝浦工大付属高校に進学すると勉強についていけなくなった。今は学校はないが池袋の駅前にあった校舎で、テニスコート2面くらいしかない狭い校庭だった。校舎の隣にはソープランドや居酒屋が並ぶ歓楽街だった。歌手の鈴木雅之ら先輩が学ラン姿でストリップを観に行って問題になり、修学旅行がなくなった。当時、どこの部活にも力を入れていない高校で、象徴的だったのは野球部。正規の部員は4人しかいなくて、弓道部や陸上部の部員を寄せ集め試合に臨んだという。

エスカレーター式の大学付属校でも大学進学が危ぶまれたが、何とか芝浦工業大学に進学した。大学では出席日数も単位も足りなくて留年を繰り返し7年通った。アルバイトと女の子の尻を追いかける日々。理系は意外と平日バイトの時間がない。土日に集中して単価の高いバイトを選んでやった。三菱電機の派遣として秋葉原の家電量販店でPCを売りまくって他店のものも全部売り切った。三菱電機の社員から「1日研修」と称して接待されるほどだった。徳間書店のバイトでは編集部に所属し、パソコン雑誌「MSX・FAN」を担当した。創刊1年目を記念する読者プレゼントでは家電量販店時代の繋がりから全メーカーからPCを提供してもらい編集長の2、3倍を集めた。岡本太郎が「1970大阪万博」で30mの大屋根を突き破って70mの「太陽の塔」をつくったようなエネルギーや突破力を感じた。彼は学生時代から営業に必要なスキルを持っていたのだ。

就活中、たまたま内田洋行の営業担当の知人から電話があり、面接をして子会社にITエンジニアとして就職。怒涛の3年を経て「営業をやりたい!」と思っていた矢先に電話があり、第二新卒扱いで外資系の⽇本ケイデンスに転職、7年間半導体の営業をした。入社1年目に競合他社に買収され業界2位と3位が合併し業界1位になったのだ。ここで一つ年長のメンターと出会い、彼が作った営業の小冊子はバイブルのように今でも持っているという。

競合他社に転職すると、日本ビューロジックが再び1年目に買収され、居残り組という屈辱も味わった。その後、Adobe入社。エンジニア、営業と10年で培ったコネが実を結びAdobe時代は快進撃。日立、富士通、NEC、沖電気など電機メーカーから、機械・化学・医薬品メーカーまで新規開拓を続け、50社以上の大手企業と契約、販路開拓に成功した。「仕事とは関係性をつくることだ」と改めて思えた。

俺が代表幹事をしていた異業種交流会、「東京非凡塾」でオバタさんと出会った。当時メルマガ『We book of the Day』を毎日発行していた松山真之助さんを講師として迎えた会だった。連日パワハラを受けていた日本ビーイーエーが1年目に買収されたことを機に日本オラクルへ。日本オラクルの後に入った会社もパワハラ上司で1年後に買収された。2010年から営業代行やったり、エアトリなどの会社を転々としながら2012年フリーランスとなった。

プライベートでは1997年、オバタさん34歳、奥様29歳の時、友人の紹介で知り合い結婚、そのタイミングで転職を選択した。「何があっても大丈夫。何とかする!」と覚悟があった。

フリーランス時代も1年間くらい社員をやったり、IT部門の立ち上げや外資系の日本法人の立ち上げ、傾いた友人の会社の立て直しまで関わった。「何をするかより何をやめるか?」経費削減、人員削減にも関わり、事業計画書を作成し銀行から融資を受けるまでコンサルした。初めて手掛けることも多かったが、全てを力に変え、その力を最大限に高めて現実化した。経験から多様な視点の組み合わせで問題解決してきたが、彼は問題解決能力だけでなく問題を発見する力に長けているのだと想像できた。

現在はコンサル・講師・営業研修に加えて、戦略的にKindle出版をして、どこでも学べるオンラインコース、Udemyの講座数を増やそうと計画中だ。

20年来の友人の知らなかった側面を知れば知るほどに彼の力量と卓越性を感じてリスペクトした。そんなオバタさんのKindle出版プロデュースに関わっているのが嬉しい。還暦過ぎても歩みを止めない友人の存在は実に刺激的だ。オバタさんの未来に向けた、さらなる挑戦は続く。

持って生まれた能力や可能性を広げてきた結果、今がある。外資系企業を渡り歩き、どの業界でも通用する力を身につけてるキャリアの積み方が以前放送した友人、平賀さんに似ていると思った。

人生100年時代。
会社を65歳で辞めたとしても、
35年、自分で稼がなきゃいけない。
変わらず「雇われ」であれば、スキルのままでいいけど、
「自営」しようと思うなら、センスが必需だ。
そしてセンスを磨くには、まずは自分でやってみるしかない。
文学や絵や映画、音楽、歌舞伎、演劇に親しむ必要がある。
そしてこれらから最も遠いのが、大企業なのである。
阪本啓一noteより

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