「生きづらさ」を手放した人は、「今」を生きる
心理学者、アルフレッド・アドラーは目的論を説きます。
「生きづらさ」抱えていなければ、
過去に執らわれること無かれ、
原因では無く目的を見よ、
という考え方には、大賛成です。
ただ、「生きづらさ」を手放す時だけは、自分が思い込みを心に刻みつけた過去を、しっかりと見つめる必要が有る、と考えます。
例外だと思うのです。
無価値な思い込みを心に刻みつけた出来事は、決して触れたく無い過去です。
ならば何故、今更掘り返さなければならないのでしょうか。
「生きづらさ」を抱えた人は、
自分を無価値だと思っています。
そんな自分を嫌っています。
自覚が無い事が多く有ります。
返って傍目には、反動形成的に自己愛過多に映る場合も少なくありません。
自覚が有ろうが無かろうが、他者からどう見えていようが、
「生きづらさ」に苦しむ人は、自分を嫌っています。
何故なら、自分を嫌っている、ということが「生きづらさ」だから、です。
本来、自分の一番の味方は、自分自身である筈です。
どんなに心を許す相手であっても、
どんなに信頼を置く相手であっても、
どんなにその人を愛していても、
自は自、他は他、なのです。
最大限にわかりあえても、自は自、他は他である限り、100%はあり得ません。
だから、自分の一番の味方は自分、です。
ところが、「生きづらさ」を抱える人は、自分が嫌いなのです。
いつ、どうして、嫌いになってしまったのでしょうか。
幼少期、常に否定され、尊重されること無く、育ったからです。
生まれた時から、無価値な扱いを受けて、その環境しか知らなければ、自分は無価値な存在だと思い込みます。
そんな無価値な自分を恥じることは有っても、好きにはなれません。
本当は、この世に価値の無い生命など存在しません。
自分は無価値だ、という感じ方は、育つ環境によって刷り込まれた、いわれのない思い込みです。
いわれ無きことであっても、固く固く思い込んだことによって、自分のことが大嫌いになってしまいます。
本人には、自覚が無くても、心の奥では、
嫌いな自分と関わる人も嫌いです。
嫌いな自分の人生なんて他人事です。
人は自分を愛するだけしか、他者を愛せない、と言います。
自分を嫌っている限り、関わる人も自分の人生も、愛する事は難しいと言えます。
自分を嫌いになった原因は、幼い頃の環境によって刷り込まれた、いわれ無き思い込みです。
いわれのない思い込みは、単なる思い込みであって、真実とは異なります。
自分に価値が無い、という感じ方は、思い込みに過ぎません。
「生きづらさ」を手放す、ということは、思い込みを取り払う、ということです。
思い込みを取り払うということは、自分は価値ある存在だ、と思い出すということです。
その為に、過去を辿ります。
その為に、心の傷と対峙します。
あぁ、思い込みだったんだ、と腑に落ちることが、どうしても必要なのです。
腑に落ちた時、思い込みの世界から、真実の世界へ移ることが出来るのです。
「過去に執らわれず、目的を見据えて今を生きる」
生きる姿勢として、とても大切だと考えます。
ただ、述べた様に、
こと、「生きづらさ」を手放す時には、
過去の思い込みを取り払う必要が、どうしても有ります。
価値ある自分を思い出すのです。
だから、過去を辿ります。
思い込みが払われて、
価値ある自分を思い出したなら、
嫌でも「今」を生きる様になります。
自分が好きで、
自分と関わる人が好きで、
自分の人生が好きだから、です。
私達が触れる事が出来る現実は、「今」だけです。
過去や未来は、思考が造り出す想念に過ぎません。
「今」の連なりが、人生と言えます。
「生きづらさ」から解き放たれたら、
その人は、「今」を生きます。
自分が好きで、
自分に関わる人が好きで、
自分の人生が好きになったから、です。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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