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怒りの後ろに隠れた、どうしても見たく無い感情

幼い我が子の屈託のない笑顔は、母親にとっては、何物にも代えがたい煌めきであり、癒やしであり、生きる活力です。

しかし、何物にも代えがたい煌めきである筈の、我が子の笑顔に苛立ちを覚える母親は少なく無いのです。

その母親は、かつて屈託の無い笑顔を取り上げられた経験があります。

その母親が幼かった頃、楽しそうだったり、嬉しそうだったり、笑ったり、はしゃいだりすることを親から取り上げられました。

思わずはしゃぐと「うるさいっ!」と言われました。

幼い子供は無力であり、親は圧倒的な強者です。

幼い子供から見たら、親は全てであり、世界なのです。

だから、子供は楽しい気持ちや、嬉しい気持ちを心の奥に閉じ込めて、

代わりに、親が望む感情を、あたかも自分の感情の様に演じて見せる様になります。

本当は楽しくて、はしゃぎたいのに、親の顔色を伺って、親が大人しくすることを望んでいる、と察知するや、

自分の感情は心の奥に放り投げ、蓋をして、親が望む通りの大人しい子、になってみせます。

それが、幼い頃のその母親の日常だったのです。

そんな日常を過ごすうちに、その母親は、自分の気持ちがよくわからなくなってしまいます。

やがて幼かった母親は成長し、少女になります。

その頃には、もうすっかり楽しむ能力も、喜ぶ力も、鈍くなっています。

幼い頃に、親の顔色を伺って、自分の感情表現を選んでいた様に、

周囲の雰囲気や、場の空気を読んで、自分の感情を決めるという、なんとも複雑な少女になりました。

そして、少女は大人になって、母になりました。

母になっても、幼い頃からずっと心の奥に閉じ込め続けた感情は、

うず高く積もっています。

母親になっても、幼い日の、楽しむことや喜ぶことを諦めた無念は心の奥に閉じ込めたままです。

母になった今も、少女の頃の、周囲に合わせてばかりで、自分の本当の気持ちを、ないがしろにした残念な思いは、消えること無く心の奥に積もっています。

幼い頃、はしゃぎたい気持ちを捨てました。

少女時代、自分の気持ちをないがしろにしました。

はしゃぎたくても、自分ははしゃげない、
自分の気持ちは表しちゃいけない、
そんな自分は、なんて無価値なんだろう。

生まれてからずっと、自分の感情を置いてけぼりにして、生きなくてはならなかった自分は、無価値な存在だ、という思い込みが、心にべったりと張り付いています。

鳥が翼を手折られたなら、飛べない自分を無価値だ、と思うでしょう。

魚が尾びれを失ったなら、やはり無価値を感じるでしょう。

感情の動物である人、から感情を奪ったなら、人は自分を無価値だと決めつけてしまいます。


この母親は、子供の屈託のない笑顔に苛立ち、怒りを感じます。

現れるのは、怒りの感情、ですが、

この、怒り、はどうしても感じたく無いネガティブな感情を隠す為に現れた、二次的な怒り、です。

この母親がどうしても感じたく無い感情は、無価値感、です。

感じたく無いから、隠す必要があり、その為に、表に現れるのが、怒り、なのです。

怒りは、恐れ、悲しみ、寂しさ、といったネガティブな感情の中にあって最も激しい感情です。

触れたく無い感情を隠すには、もってこいなのです。

我が子の屈託のない笑顔によって、現れるのは怒りの感情ですが、

その母親が衝き動かされているのは、怒りの後ろに隠れた無価値感によって、です。

本当は、無価値な生命などありません。

幼い日からずっと、自分の感情を閉じ込めなければならない環境で育った為に、自分は無価値である、と強く強く思い込んでしまったのです。

思い込みは強いかも知れませんが、どこまでいっても、思い込みは、単なる思い込みでしかありません。

実体の無い、幻の様なもの、なのです。

だから気がつけば、いつだって取り払うことは出来るのです。


子供の笑顔に苛立ちを覚えるなら、自分を責めないで下さい。

その苛立ちには理由があり、

そうなったことは、仕方が無かったのです。

苛立ちを辿れば、怒りが、

怒りを辿れば、無価値感が見えて来ます。

見えて来たなら、思い出して欲しいのです。

この世に無価値な生命などひとつも無く、

ずっと感じていた重苦しい無価値感は、実体の無い幻に過ぎません。

恐れずに正面から見据えれば、幻は必ず払い除けることが出来ます。

払い除けたなら、

無価値の薄膜を通して見えていた、苛立ちは消え、

屈託のない笑顔が見えます。

かけがえのない、煌めきに届きます。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム










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