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世界放埓日記

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#音楽

生きる意味を問うた私に

久しぶりに演奏をしていて涙で視界がぼやけそうになった。

12月。音楽家が慌ただしくなる頃である。ヘンデルのメサイア、ベートーヴェンの交響曲第9番、くるみ割り人形。
12月に弾くということは、練習するのはそれよりも前。師が走るのなら若手はその先に赤毛氈を広げるために倍速で走らなくてはならない。
季節を先取りしている我々は、イルミネーションを味わう余裕もない。きっと今頃、邦楽畑の人たちは新年の曲をさ

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名前を知らないあの人

とても親しいわけじゃなくて、だから会おうと約束したこともないのに、よく顔を合わせる人というのがいる。
私の場合はその彼がそうだ。
日本人にしては腰の位置が高く(物理的にも精神的にも)、肩はいかり肩で、いつも浮浪者のようなぼさぼさの髪を無造作にひとつにまとめた彼は、それでも見た目によらないそれはそれは美しい声で歌うのだ。彼が目を見開き息を吸うと、その空間はまるで彩度が切り替えられたかのように色づき加

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真実の瞬間

音楽科の高校に通っていた時、定期演奏会を終えた私たちに先生はこう言った。

「プロは、このクオリティの演奏を合わせの初日には作ってきます。合わせ1回、本番1回。それで最高のものを提供するのがプロの仕事だ」
演奏会が終わった高揚感に水を差された私達は、ホールで しん と押し黙った。

先生は少し間を置いて、ゆっくり言葉を続けた。
「けれど、プロになると、今日君たちが味わった感動を受けられるような演奏

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沙羅双樹の蕾

カルテットの名前がなかなか決まらないまま1ヶ月が経った。演奏会まで残り2ヶ月と少しである。そろそろチラシを刷り始めなければならないというのに、名前が決まらないとはこれ如何に。
その日も、メンバーの家に集まった我々は、楽器を出さずに卓袱台を囲み、中空を睨んでいた。
扇風機だけが規則正しく首を振り、生まれた風は風情もなく風鈴をちりちり鳴らす。
窓の外からは蝉の声が聞こえた。先程まで点けていた蚊取り線香

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傀儡になる快感

新曲を準備している期間って、世界に対しておっきな秘密を抱えているようなわくわく感を内包している。
クリスマス前に、素敵な贈り物を用意して、それのラッピングを考えながら机の上の贈り物を眺めているような気分。

クリスマスまでの数日間に秘密を抱えて過ごすとき、世界は澄んだ空気に射し込む光を受け、輝きだす。
はやく好きな人に選んだ贈り物を渡したい。手紙にしたためた気持ちを打ち明けたい。
そんな気持ちを胸

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私が留学した理由

「お母さん、自分と同じ道に進んでくれて喜んでいるでしょう」

「お父さん、自分の教える大学に娘が入って誇らしいんじゃない」

と声をかけられる度に、ちがーう!と叫びたくなっていた。私だけかしら。

私の両親は、娘が自分のやりたいことを見つけたことを喜んでいるとは思うが、自分の人生が肯定されたかどうかという点に関して言えば無関心だったろう(我が家は世襲制や自営業ではないので)。

森鴎外の愛娘・

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私に旅行が出来ない理由

職業柄、様々な土地へゆく。

その土地で演奏するために、大きな楽器を伴って出向く。

日本なら北海道へも、沖縄へも行った。
飛行機は2席分予約する。楽器を載せるためだ。
エミレーツ航空は素晴らしい。楽器をファーストクラスへアップグレードしてくれた(私は?と尋ねたけれど、あなたはこっち、とビジネスのままだった。しかし、練習していいよ、と微笑まれた)。

旅の道中を寝て過ごすことができない。
現れては

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車と楽器とランジェリー

「君は女性的な感性を持っているけれど、思考回路は非常に男性に近いね」

机を挟んで向かいに座る男性は、腕を組んで私をそう評した。

男は勝手知ったる様子で椅子に深く腰掛け、こちらを見つめている。口元には笑みが浮かんでいた。その佇まいを前にして私は、まるで敏腕の獣医か、動物写真家のようだと感じた。

浅黒い肌と少し白髪の混じり始めた髪を持つその男は、プロダクトデザイナーだった。
サマーセーターに、イ

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不器用ブルジョワジー

音楽に国境は無いというけれど、本当だろうか。

私は西洋の音楽を専門的に学んできて、留学から帰国したところだ。

故郷で感じる季節の移ろいは、意識して封じてきた土着の民族の郷愁をいとも容易く解き放つ。

暖められた空気に乗って漂ってくる柔らかな土の香り。

トラクタの後ろに群がり、掘り起こされたミミズをついばむカラスたち。

用水路にどさどさと落ちる水。

やがて蛙の鳴き声も聴こえるようになる

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