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【感想】療育なんかいらない! #2

こんにちは、もももと申します。

今日は、現在読んでいる佐藤 典雅さんの『療育なんかいらない!』について、第2章を読んで感じたことを書いていきたいと思います(*^^*)


第1章
『「子育ての常識」は、全て疑ってみる』
の感想はこちらです(*`・ω・)ゞ


こちらの記事から読まれる方もいらっしゃると思うので、簡単に著者である佐藤 典雅さんについてもご紹介させてください。

『SHINGA FARM』より抜粋

佐藤典雅さん
子ども時代の大半をアメリカで過ごし、グラフィックデザイナーからBSジャパン、ヤフー・ジャパン、東京ガールズコレクション、キットソンなどを経て、さまざまな企業のコンサルティングを行う。現在はアイム放課後の代表取締役として福祉の現状を伝えるべく、メディアにも多数出演中。著書に『療育なんかいらない!』(小学館)などがある。

アイム放課後
http://imhappy.jp
自閉症がっちゃんブログ
http://blog.livedoor.jp/gacchan_blog/


佐藤さんはご自身の息子さんが3歳の時に重度自閉症と診断されています。


そして、当時最先端の療育が行われていたロサンゼルスへと移住し、約9年間LAで最先端の療育プログラムを受け、日本へ帰国されたそうです。


その後日本に帰国した佐藤さんを待ち受けていたのは、どうしても当事者が「地味でかわいそう」に見えてしまう日本の福祉施設だったそうです。(あくまでも、佐藤さんが感じたことですよ💦)


「通わせたい施設がないならば、自分の子を通わせたいと思う施設を自分で作ってしまおう!」というところから、息子さんのために放課後デイを立ち上げたお父さんです。


***


第2章
「激しく燃える」療育信仰


今回は第2章の内容から、これは共感できるなと思った内容を少しだけ抜粋させて頂きます。

そもそも「療育」とは何か?身近に発達障害の子どもがいなければ、耳慣れない言葉である。そしてその定義は、専門家によってまちまちである(ビジネス本でマーケティングの定義がまちまちなのと同様に)。専門家はたいてい、専門用語の定義を難しく書きたがる。私が定義する「自閉症の療育」をシンプルにいうならば、「自閉症児が一般社会に適応できるための訓練」である。
最初にはっきりというが、現時点での療育は自閉症を治すものでも改善するものでもない。単純に、その子がもつちょっと変わった自閉症的な行動を強制的に「制御しようとする試み」であると私は思う。

これは正直なところ、実際に外来で息子と一緒にグループ療育を受けていて、私自身も常々感じていることです。


現在私たち親子が通っている療育センターでは、毎回3~4人のグループの中で決まった流れを通して、その日に予定されている遊びを行うグループ療育を受けています。


例えば、登園したらまず先生が見せる紙芝居に合わせて、自分でバックから水筒とシール帳を取り出し、所定の場所に置いて決まった席に着席。


きちんと着席出来たら、周りの大人はとにかく褒めて、座ると褒められる(=これは正解の対応なのだ)ということを繰り返し反復して学習する。


長く椅子に座っていられない子も、椅子の上にクッションを置いてみたり、ご褒美のシールを用意してみたり、工夫して褒めながら少しずつ長く座れるように訓練を重ねていく。


でもこれは、本人がその行為に必要性を感じた上で行動しているわけではなく、座るという行為をすると褒められる、つまりこれが正解だから座る。という、機械的な判断を覚え込ませているにすぎないと思うのです。


ご褒美や評価を提示して、決まった行動を反復して学習させることで、なんとか「定型発達」の行動に近づけていく訓練をする。


結局のところ「療育」の目指す最終目標は、いかにして「問題行動」を制御し、本人の行動をコントロールすることで、一般社会で生きていけるようにするのか。ここに重きが置かれているような気がしています。


本来そこにある「椅子に座れない理由」にはあまり目を向けられず、座れないことを単純に「問題行動」と捉えて、この行動を制御する訓練が「療育」なのだろうなと、少し感じています。


あ、何度も書きますが、決して「アンチ療育」ではないですよ!Σ( ˙꒳​˙  )


ただ、第1章の感想でも書きましたが、私は「椅子に座れない理由」こそが、本来は大切なのではないかなと考えています。


少なからず、本人には何かしらの理由があって、今は椅子に「座らない」という行動を選択しているはず。


それは、もしかしたら周りに気になるものが沢山ある好奇心からくるものかもしれないし、今他にやりたいことがあるからなのかもしれない。


そこを無視して、一般社会で生きるため「正しい行動」をとる訓練をすることは、本人が持つ本来の気持ちを完全に無視している気がしています。


確かに反復訓練することで、周りから求められる「正しい行動」が多少出来るようになるかもしれない。でも、例えそれが出来たとしても、それは本人が本来持っている気持ちをずっと抑制しながら行動をし続けるということ。


今、気になっているものや、本当はやりたいと思っていることを抑え込みながら、「社会で生きるために、自分を社会の枠に無理やりはめて生き続ける」選択をさせるということなのではないかと感じています。

自閉症は治る・治らないの議論ではないのである。別にそれが「個性」だというキレイな言葉で片付けようとも思っていない。ただ現在の医療技術において、自閉症は治らない。自閉症は病気ではなく、脳機能の問題だからだ。その前提をふまえた上で、一つ重要な疑問が出てくる。もし自閉症を治せるとしたら、それはいったい、自閉症の何を治すというのだろうか?なぜそんなことをいうのかというと、「自閉症を治す」ということは、その子の世界の認識の仕方まで変えるということだからである。

自閉症は治る、治らない以前の問題で、脳機能によって「定型発達」の子どもとはそもそも物事の認識の仕方が異なっている。


これは、息子を見ていてもそうだと感じます。


保育園でも周りのお友達が何の疑問も持たず当たり前に参加できることに、息子が参加出来ないことは実際に多いです。でもそれは、本人なりに今重要だと感じていることが、周りのお友達とそもそも異なっているから。


「認識の仕方が周りと異なる」ことは、そもそ治すべき悪いことなのだろうか。もし治療ができるとして、それは本当に治療すべきものなのか。


佐藤さんが書かれているように、「その子の認識の仕方を変える」ということは、もはやその子ではなくなるということではないのだろうか。


仮に明日から突然息子が、定型発達の子と同じように朝の会に出席して、何の問題もなくみんなと同じように行動が出来たとして、確かに親としての心配事の種は多少減るのかもしれない。


でも、それはもはや私の息子と言えるのだろうか・・・。息子らしさとは何なのか。


本人なりに見えている世界があるのに、それを「みんなと同じ」に近づくようにコントロールするということは、そもそも本人の認識や存在を真っ向から否定しているのと同じなのではないか。


また、本人目線から考えても、脳機能的に周りと認識や感じていることが異なるのに、それを無理やり周りと同じように合わせる訓練をするということは、本来の自分にずっと嘘をつき続けていくということなのではないのかと思うのです。


果たして、それを一生続けていく人生が、本人にとって本当に幸せなのだろうか・・・。少し疑問に感じています。


また、佐藤さんはご自身の息子さん(がっちゃん)がLAで9年間、最先端の療育プログラムを受けた経験を経た上で、以下のようなことを述べられています。

私が帰国後、日本の支援学級の生徒を見た時に驚いたことは、アメリカほど療育を受けていない自閉症の子どもたちも、中学生になると、療育を受けた子どもとあまり変わらない状態になる、ということ。うちの放課後デイでいえば、いちばん手のかかる自閉症キッズは、いちばん療育を受けてきたがっちゃんだ。他の生徒はがっちゃんほど療育を受けていないが、がっちゃんより問題行動が少ない。
もし結果が大きく変わらないのであれば、療育に必死になって、大きなストレスを親子で抱えるよりは、開き直って日々を楽しんだ方がいい。それこそが子どもにとって、最善の療育環境ではなかろうか?

もちろん、この結論に至るまでの具体的な理由は本文中にたくさん書かれており、気になる方はぜひ本を手に取って頂きたいです。


あくまでも佐藤さんは、この本の中で「療育」の存在を全否定しているわけではなく、以下のようなことを文中で述べられています。


「療育」で問題行動が根本的に治ったり、改善するわけではない。だけど、発達を前倒しするための補助的な要素になる可能性はある。


例えば、言葉が遅れている子どもに対して、療育を受けても受けなくても、恐らくいずれは成長に伴い話せるようになるケースが多い。


だけど、「療育」をきっかけに言葉が出るタイミングを前倒しすることが出来る可能性はある。


4歳で話し始めるより2歳で話し始めることが出来たほうが、本人だって意思の疎通が出来る分、生きやすくなることは間違いないだろう。


ただ、療育は受ければ受けるほど永続的に上積みされていくものではなく、発達の前倒しが出来るだけで、本人が本来持っている発達の上限値を底上げするようなものではない。


だから療育に過度な熱意と期待を持って、そこに「絶対」という答えがあるかのような「療育信仰」に走るよりも、ほどほどに療育の良い部分を利用しつつ、発達障害と付き合っていく方が良いのではないか。

なんらかの安心と保証を求めて、療育に親が走るのも理解できる。しかし親が療育に強く依存するあまり、本来大切なところに目がいかなくなることの方が致命的である。その本来大切なこととはこれである。「いかに人生を楽しく生きるのか」

これは第2章の文末に佐藤さんが書かれていた文章ですが、まさにそうだなと感じました。


確かに「療育」によって、本人の特性を表面上緩和したり、行動を制御することは多少可能なのかもしれません。


でも本人が本来、本能で感じている認識の部分を療育で根底から変えることは出来ない。


だから、あまり過度に療育で一般社会で生きて行くための訓練を期待するということは、本人が持つ本来の認識の仕方を抑えて、定型発達に無理やり寄せる努力をしながら生き続けるということに繋がるのではないかと思っています。


自分には本当は青く見えているものを、一生懸命周りと同じように赤く見えるふりをしながら、一生を過ごしていく。


それが、果たして本人にとって「人生を楽しく生きる」ことに繋がるのか。


まあ、そうは言っても、集団で生きていくためのスキルもある程度は必要だと思うので、なんでもバランスが大事なのかなとも思いますが(^^;)


それでもやっぱり私は、「椅子に座れない」という行動を問題視して矯正することばかり考えるよりも、時には「椅子に座らない理由」に目を向けて、息子の世界の見え方に合わせた生き方を一緒に模索していきたいと改めて感じました。


次回は第3章についての感想を書きたいと思います(*^^*)


*あくまでも、これは私個人が息子の自閉スペクトラム症に対して感じていることであり、これが絶対的な正解だなんて思っていません。

色々な考え方があって当然だと思いますし、もしも読まれて不快な気分になられた方がいたら、大変申し訳ございません。

自閉スペクトラム症に対し、こういう考えをもって子育てに挑む親もいるのだなと、あくまでもひとつの例として捉えて頂けると幸いです。



つたなくお見苦しい文章かもしれませんが、最後までお読みいただきありがとうございました(*^^*)


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