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日常の差異

 あなたの中で、日常とはどんな日々のことでしょう。

 それは普通? それは異端? それは正常? それは異常?

 誰の、彼の、意見を持って、どんな判断が下されるのか、その必要があるのかさえ、私にはわからないものだけれど。

 私にとって当たり前の日々は、誰かにとって異様なものかもしれない。

 たとえそうだとしても、言われるがままに変えることがいいことだとも思わない。私にとっての日常が脅かされるものだし、変化そのものに苦痛を感じてしまうなら、なおのこと。

 基準は、誰のためのもの?

 自分? 相手? 社会? 世界?

 ……そう、社会や世界のために、それが絶対に、絶対的な「正しさ」であって、それ以外のものが異端だとしたら、私は、どうしたらいいのでしょう。

 ここにいては、いけないのかしら。

 生きていては、いけないのかしら。

 私にとって、とてもいいとは思えないことを、いいものだと判断して行動していかなければいけないのなら、苦痛以外の何ものでもない。

 それとも、生きていくためなら、苦痛を身に宿しながら変えていかなければいけないのでしょうか。

 それが、生きる、ということ、なのでしょうか。

 たとえ私が苦しんでいて、傷んでいても、社会や世界がよければ、それでいいのでしょうか。……それで、いいのでしょう、ね。

 いつか、きっと、私の感覚も麻痺して、その苦痛が日常になるときがくる。それを待ち侘びて、それを期待して、いかなければ、いけないのでしょう。

 そうして、

 そのときには、

 私は、私では、なくなっているので、しょうね。

 それでいい、とは思わない。

 思わない、から。

 少しでも、抗えるように。

 普通を、守れるように。

 伝えてみようとは、思っています。

 異常?

 私からすれば、そうは思わない。

 私の見えているものと、きっと同じなのでしょうね。

 だから、そう感じてしまう。
 
 その感覚があるのなら、私の言っていることもわかると思います。

 どれが正しいかなんて、誰にも、わからないのだから。

いつも、ありがとうございます。 何か少しでも、感じるものがありましたら幸いです。