見出し画像

言語芸術

 とあるボロアパートの一室の前に立った二人の男は、ドアに釘つけられた紙を見て思わず目を逸らした。なんだか見てはいけないものを見た気分になったからだ。この部屋には伝説の私小説作家厳吾文章が住んでいる。この二人の男は某文芸雑誌の編集者で、今日は厳吾の原稿を取りに足を運んできたのだ。二人のうち年かさの男が若い男に言った。

「お前厳吾先生の部屋見ても絶対驚いて声上げんなよ。あの人凄い神経質だからそんな事すると叩き出されるぞ」

「そんなに凄い部屋なんですか?床が原稿のクズだらけとか、床が生ゴミとゴキブリの山だとか」

「ははは、そんな事よく考え着くね。まあ、中に入ってみればわかるさ」

 この年かさの編集者の言葉通り私小説家厳吾文章はまさに言葉の芸術家であった。彼は私小説家として自分の全てを赤裸々に晒していたが、その文章は信じがたいほど複雑で精妙なものであった。彼の書くシミのついた畳はまるで本物のシミの畳よりも生々しくまるで体にシミが着いているように思われるほどであった。彼の書く床を這いずり回るゴキブリはカフカの描く虫よりも遥かに身震いするもので、まるで古事記に出てくるヤマタノオロチのような恐ろしさを持っていた。厳吾は自分の小説に古代から近代にいたるまでの日本文学の全てを注ぎ込んだ。彼の小説には古事記から源氏物語で完成する古代文学から、夏目漱石から始まり大江健三郎で完成する近代文学にいたるまでの全てがあった。彼の小説は全く意図せずに日本文学の全てを体現していたのだ。そんな厳吾文章の文学は私小説でありながら日本文学における言語芸術の究極と評され、彼をナボコフやジョイスと並べる評者も現れるほどであった。だがそのあまりの言語へのこだわり故に厳吾の小説は一部の具眼者以外には読まれず、今もなおこのボロアパートで毎日小説を書き続けていた。

「あの厳吾先生いらしゃいますかぁ~!○○の○○です。今日は原稿を貰いに来ましたたぁ」

 と。年かさの男がノックの後にこう呼びかけた。すると中からいかにも重々しい声で「はいれ」との返事があった。この声を聴いて若い方の男は緊張して震えあがってしまった。年かさの男は先輩らしく彼に大丈夫だからと慰めた。

「まあ緊張するな。俺が全部やるからお前はとにかく黙って座ってろ。いいか、何があってもだぞ」

 そう言うと年かさの男は部屋に入るために木造のドアを引いた。ボロアパートらしくドアの金具は錆びついており、引くごとに不快な音を立てた。若い編集者はこの不快な音に部屋の悲惨な状態を想像して寒気がした。先輩編集者は玄関に入って再び作家に声をかけた。

「先生、今日は新人の編集者を連れてきました。彼にはしばらく私のサポートをしてもらうつもりです。ほら先生に挨拶」

 新人編集者はいきなり自分に振られたのできょどって思わず部屋の中を見回した。そして彼はあまりに異様な部屋に驚いて思わず声を上げそうになった。部屋の中は彼が想像していたほど汚れてなく、というかほとんど何もなかった。まるで空き家みたいだった。だがそのほとんど空の部屋のいたるところに何やら文字が書いてあったのだ。新人編集者は先輩が言ってたのはこういうことだったのかと驚き、その本人を探そうと目に力を入れてピントを合わせた。そしてようやく部屋の真ん中にちゃぶ台の傍にちょこんと座っている作家厳吾文章に目を留めたのだが、この作家はなんとこのクソ寒い季節にワイシャツとブリーフ一枚で座っていたのだ。だが新人編集者をぞっとさせたのはその恰好ではなかった。彼が真底からゾッとしたのは作家の着ているワイシャツとブリーフが文字で埋め尽くされていたことだった。新人編集者は作家の奇怪な格好に、先輩から何があっても黙ってろと言われていたのにかかわらずとうとう耐え切れずに声を上げてしまった。

「なんじゃ、この小僧は。いきなり大声を出しおって」

 文字だらけのワイシャツとブリーフをつけただけの明らかに寒そうな恰好をしている厳吾文章は、その餓死しそうなくらいに痩せ切った体をプルプル震わせて玄関で縮こまっている二人を怒鳴りつけた。この一喝を浴びて先輩編集者はあれほど言ったのにこの馬鹿めと新人編集者を怒鳴りつけ、そしてその場で土下座して厳吾に謝った。

「こいつは三流大学の出で、なんでうちの出版社に入れたのかわからないぐらいバカなんです。もう院で修士号とってる私と違って文学の教養なんかまるでないんです。だから今回は私に免じて許してください!後でこいつの骨を全部追ってやりますから!」

 先輩編集者はバカの後輩がしでかしたことに動揺したのか、わざわざ土下座までしてこんな謝罪にもならない謝罪をしたのだが、厳吾はなぜか興味深そうに彼の話を聞いていた。そして先輩編集者のアホな謝罪を一通り聞くと、新人編集をしばし見てから彼に向かってこう問うた。

「おぬし、誠に文学に無知なのか?」

「はい!何にも知らないであります!自分中学の時太宰治の『走れメロス』を読んでずっとメロン全然出てこねえじゃねえかって思ってたぐらいくそバカです!」

「なるほど、その受け答えよう。いかにも文学などまるで知らぬものの言いぐさじゃ。おぬしはまるで教養小説の主人公のように無垢じゃのう。よかろう今回はおぬしのバカさ加減に免じて許して遣わす。そして特別におぬしに文学のいろはを教えて進ぜよう」

「ああ!ぜひ喜んで!」

 新人編集者はいつもやってるように相手に調子を合わせた。彼はいつもこの手で難局を乗り切ってきた。寝取られの現行犯で相手の男に私人逮捕された時も、馬券ですって金がなく友達に金を借りなければならない時も、借金で首が回らなくなってしまい田舎の両親に金を融通してくれるように泣いて土下座した時も、いつも今のように無茶苦茶真剣です!って顔をしていたのである。時にウソ泣きと見破られようが関係なかった。彼はあらkゆるピンチを力技中の力技で乗り切ってきたのである。この新人編集者の力技の殊勝な態度に厳吾は深く感じ入った。この真面目でまだ何事にもけがされていない若者になら文学を教えられると本気で思ったのである。

 この厳吾の態度に先輩編集者は驚いた。この神経質な男がこんなバカにこれほど寛大であるとは。自分も最初この小説家の部屋に入ったときあまりの異様さに恐怖して絶叫し、新入社員と同じように厳吾の一喝を浴びたのだが、その時彼は厳吾の気を引くために自分がいかに文学を愛しているかを小説家に熱く語ったのである。彼は自分は両親とも大学教授で、しかも母方が財閥の末裔で、幼い頃から本の山に囲まれて過ごしていた事、ついでにその本の中にはプレイヤード叢書も全巻あった事。欲しい稀覯本はパパとママに頼んで全部買ってもらった事。大学時代、文学を極めるためにアメリカ、イギリス、フランス、ドイツに留学し本場の文学を徹底的に学んだ事。その留学費用は勿論パパとママのお小遣いであった事などを話した。だがこの小説家は彼の文学に対する思いを聞くなり無茶苦茶キレたのだ。お前には文学も芸術も永遠にわかるものかとさえ言われた。なのにこの文学知らずのバカの無礼をどうしてあっさりと許すのか。この先輩編集者のしようもないモノローグを無視して再び厳吾が新人編集者に話しかけた。

「ワシは大学の教授でもなく、親の脛齧りのバカ院生でもないから、くだくだしい事は言わん。故に本題から入る。よいか、文学とは言葉であり、それがすべてなのだ。それ以外のものなど文学には存在しない。現実のあらゆる事象は文学の外の出来事でしかない。文学とは現実を写す鏡ではなく、言葉による世界の創造なのだ。文学を読んでこれは真実味がある。この人物に共感できると読者は言う。だがその真実味や共感は現実にありそうな出来事だからではなく、小説家が言葉で生み出した世界が現実よりも遥かに真実味のある世界を生み出しているからだ。つまり文学とは言語を尽くして世界を創造する崇高な行為なのだ。先ほどおぬしはワシの部屋のあまりの殺風景さに驚いたことであろう。だが、わしは言葉でこの殺風景な部屋を平等院や大仏のような崇高なものに、逆に悪魔が人を食らう地獄にも変えることもできるのだ。まずは見よ!このわしの黄ばんだワイシャツと大小のシミがついたこのブリーフを!」

 新人編集者は言われた通り、いやはっきり言っていやいやだったが、厳吾のはしてなく黄ばんだワキガ臭の酷すぎるワイシャツや、消臭スプレーの完全部つかっても消えなすぎる大小のシミの元の臭いにどうにか耐えて見た。だが、厳吾は不満だったのか寺の坊さんのように「これ!」と新人編集者に喝を入れた。

「そんな離れたところでは何もわからぬではないか。わしの黄色と焦茶色のシミが見えるほど近こう寄れ、そうでなくてはワシの言わんとすることが分からぬぞ」

 こんな爺さんの言わんとすることなんかどうでもよかったが、だがこの男は文学通には無茶苦茶評価の高い小説家だし、この爺さんを怒らせたら出版社を首になるかもしれない。自分のようなバカが奇跡的に入れた出版社を首にされてたまるか。そんな思いを目と鼻に込め玉ねぎを剝くような涙が出そうなほどの臭い感情に耐え、新人編集者は顔をゆっくりとワイシャツの方に近づけていった。

 近づいてみると、ワイシャツに書かれた文字がだんだんはっきりと浮かんできた。その字は皆同じサイズであり、人間が書いたとはまるでおもえないほど丁寧であった。新人編集者はこれを見てプリントかと思いそのことを厳吾に尋ねた。すると厳吾はまたこのバカ者を一喝した。

「馬鹿者!ワシが活版印刷なんぞすると思うのか!全部ワシの手書きじゃ!しかしこれを活版印刷だと思うのも無理はないな。なぜならわしがそのように見えるよう書いておるからじゃ。ではなぜそのように書くか。それはの、文章を読んだ人間を直接書かれた世界に連れていきたいからじゃ。筆跡はそれをどうしても邪魔する。達筆な字を見ると人はその字に見とれて肝心な文章を読まなくなる。うまい字は常に文章の外側にあり、それが中の文字を読む妨げになっている。ワシはその障壁を取り除くために何事も活版印刷のような文字で綴っているのじゃ。というわけだから、もそっと近こう寄ってワシのワイシャツに書かれた文章を読め」

 新人編集者はよくわからない話を適当に聞き流して、とりあえず文章読めばいいんでしょとばかりに鼻をつまんでさらに顔を近づけて文章を読んだ。彼は縦書きの文章を右上からざっと読んだ。内容を把握して適当な感想を言っておけばこの爺も納得するだろうとのなめきった考えで読んだ。だがとりあえず文章を読み終わった新人編集者はワイシャツに書かれた厳吾のこの文章に一瞬にして魅入られてしまった。「うらぶれてもなお禁色を纏い。朝夕遠き都を思う我厳吾文章……」新人編集者はハッとして顔を上げた。するとそこには先ほどのしょぼくれた臭すぎる爺さんではなく、まるで徒然草なんか書きそうな老いた貴人がいるではないか。老いた貴人は「では、次は褌の文をとくと読め」という。新人編集者は言われた通り大小の臭いの酷すぎるブリーフに書かれた文章を読んだ。「この匂宮も薫にも負けぬ香りを持ちし厳吾文章。身こそ老いつれどこの匂い薫りは蘭奢待のように若々しく漂い……」これを読んで新人編集者は驚きの顔で再び顔を上げた。そこにはもう紫式部のついに書きえなかった老いてなお若々しい匂いと薫りを放つ光源氏の姿があったのである。彼はこの光源氏にワイシャツとブリーフ姿でワキガと大小のシミの匂いを放つ厳吾文章の面影を見ようとしたが、そこにはもう蘭奢待の高貴な香を漂わせた老いたイケオジの光源氏しか見えなかった。

「これが言葉の力なのか……」

 と陶然として新人編集者は呟いた。ただの貧乏な汚えジジイが言葉だけで光源氏になってしまうなんて。言葉はどんな服やどんな香水よりも超えた飾り物だ。ああ!と彼は歓喜に震えたが、厳吾はその新人編集者にに向かって笑みを浮かべて言った。

「ほっほっほ、文が書かれておるのはワシだけではないぞ。さぁ、この部屋の至る所に書かれた文を読め。お主はそこで森羅万象を見るじゃろう」

「はい!読ませていただきます!というか早く読みたいです!」

 新人編集者は目を輝かせてこう答え、そしてその輝いた目でこの部屋の文章を読んだ。読み始めた途端、この四畳半の貧乏臭い部屋が平安時代の光源氏の寝殿作りの高貴な寝室に変わっていった。ああ!ボロッボロの押し入れの戸は唐の画家が描いた屏風へと変わり、これまた貧乏臭い吊るしランプも燭台へと変わった。ああなんて凄いんだと新入編集者は感激した。しかし厳吾はその彼に対して言った。

「お主、ここには極楽だけあると思うな。あそこの日陰の畳を見よ」

 彼は言われた通りそこを見た。そこにはゴキブリや蠅の死骸が転がっていた。そしてその傍にも文章が書かれているではないか。ああ!そこにはこれらの昆虫が生まれてから死ぬまでの悲劇の物語が綴られていた。ゴキブリら卵から幼虫となりやがて羽の生えた成虫となり、この部屋を軽やかに飛び回る。だが彼も運命によって新聞紙の下敷きとなって命果ててしまう。蝿も同じである。卵からウジとなり、やがて羽の生えた成虫となり同じように部屋を飛び回り次なる子ウジを育てんとするが、突然やってきた運命のハエ叩きと衝突して命果ててしまうのだ。だが昆虫たちの物語はそれで終わりではなかった。彼らの死体が朽ち果て、やがて微生物に食われて塵となってゆく様がまるで九相図の如き達観した筆致で綴られていた。新入編集者はこの文章を読んで初めてハエやゴキブリに哀れみを持った。ああ!我らもいずれこの昆虫のように死なねばならぬ。しかし何故に厳吾は昆虫の生き死にをここまで神のごとく偉大に描くのだろうか。厳吾は呆然とする新入編集者に更なる地獄を見せた。

「お主、次は底知れぬ恐怖を見せてやろう。その顔を上げてまずは柱の下の大きな穴を見よ」

 その穴の中には空洞が広がっていた。恐らくこれはネズミが掘った穴だろう。だが新入編集者は穴の周りに書かれた文章を読んでそれがネズミの穴ではなく、地獄への入り口である事を知った。彼は恐怖のあまり叫んだ。穴の向こうには百鬼夜行のために出て来そうな魑魅魍魎たちが蠢いていた。人間たちへの恨みつらみを持った化け物が牙を研いでこちらを睨んでいる。ああ!恐ろしい!一体厳吾はどうしてこんな化け物たちと同じ場所で暮らしていられるのか!自分には耐えらない!彼は恐怖に耐えられず思いっきり泣き叫んだ!両隣から両隣の住人による壁ドンが部屋が揺れるほど響く、これに慌てた厳吾は若者に向かって天井を見よと一喝した。若者は救いを求めて天井を見た。新人編集者はそこに蜘蛛の巣を見た。陽の光に照らされた蜘蛛の巣は一筋縄の光の糸のように輝いていた。彼はそこにも厳吾の文章を見たのである。それは芥川龍之介の小説などよりはるかに美しい物語が書かれてあった。まさに絶望からの救いであった。カンダタは邪な心で神の糸を掴んだから、途中で神から見放されて地獄に突き落とされた。だが、厳吾によって地獄を見せられ魂の救いを求める新人編集者はまっすぐな思いで糸を掴んだ。ああ!彼は地獄から救われこうして再び現世に帰って来た。

 こうして厳吾の文章による極楽と地獄を巡った新人編集者はしばらくして我に帰り厳吾に向かって土下座して感謝の言葉を述べた。先輩編集者もほっとしたように彼を見ていた。しかし、我に帰った新人編集者はふとこの部屋のドアに釘付けられていた貼り紙を思い出し心配そうな顔でこう聞いたのだ。

「あの、厳吾先生。ちゃんと毎日食事食べてますか?」

 この新人編集者の質問を聞いて先輩編集者は震え上がった。なんで今そんなもの持ち出すんだ!っていうか、あれは今絶対触れちゃいけない案件だろうが!ディスりにも程があるぞ!先輩編集者はバカの新人編集者の頭を掴んで床に擦り付けて一緒に謝ったが、しかし厳吾はもうよいとにこやかに先輩編集者を止めた。

「この者が、文学に無知なること、先刻承知の故、気にすらしておらぬ。さぁ、その者の頭から手を離せ。ワシの教育はまだ終わっておらぬのじゃぞ」

 先輩編集者は自分の時とは全く違う作家の態度に驚いた。俺の場合おんなじ事言ったら絶対ハエとかゴキブリとか履いてる黄ばんだワイシャツとか大小のシミがついたブリーフとか投げて文学を知らぬ痴れ者は去れとか抜かす癖に!やっぱり文学を知らないって得なのか?比喩と隠喩の違いさえわからないこのバカみたいに、この部屋の落書きに感動してりゃいいのか?ああ!といったところでまたこの無駄に長いモノローグを無視して厳吾は新人編集者に言った。

「お主、今ワシが日頃何を食べているのかと問うたな。その答えは今ワシの目の前にあるちゃぶ台が全てを語っておるわ!」

 新人編集者はすぐさま埃しか乗っていないちゃぶ台を見てそこに書かれている文章を読んだ。ああ!そこにはかつての中華の皇帝が食べたであろう高級料理がいかに美味いかが綴られていた。厳吾の文章を読んでいるともう全て食べた気になってきた。ああ!美味い!いつも食べてる天かす生姜醤油全部入りうどんなんて比較にもならない!ああ!こんな文章読んだらもう何もいらないって気分になる!

「もしかして先生の食べ物はこのちゃぶ台の文章なのですか?」

「うむ、お主もだんだん文学がわかってきたようじゃな。いかにもワシは文章だけで飯を食っている。いや、文章があれば飯など要らぬのじゃ」

 新人編集者は涙ながらに厳吾の言葉に頷いた。それを見て厳吾はにこやかに彼に言った。

「これでとりあえず今教えられることはすべて教えたぞ。もっと深く文学を知りたくばいつでも参るがよい。おっと肝心な事を忘れておった。今原稿を渡すから少し待っておれ」

 そう言うと厳吾は部屋の隅の破れまくりのダンボール、いや江戸の職人が精を込めて作った玉匣を開いて色鮮やかな和紙を差し出した。

「これが昨夜書いたワシの新作じゃ。心して受けとれい!」


 それからこの編集者二人は原稿を手に厳吾に丁重に暇の挨拶をして部屋を出た。アパートから出てから二人はしばらく無言で歩いた。そうしてアパートが見えなくなった辺りで新人編集者は先輩に向かって話しかけた。

「だけど俺今日ほど凄い体験したことないですよ。なんかアパートにいる間ずっとクスリでもやってるみたいな感じになって。これが文学の力なんですかねぇ。あの人が言語芸術の神様みたいに言われているのよく分かりましたよ。今貰った原稿なんでただのチラシの裏紙なのに高級な和紙に見えるんですから。でも、なんであんなゴキブリとハエの死体しかないとこで暮らしている人があんなすげえ豊穣な文章書けるんですかね」

 先輩編集者は後輩のこの素直な問いに笑って答えた。

「全くいい気なもんだぜ。お前先生にどんだけ無礼なことしたのかわかっているのか?俺は先生がいつぶち切れるのか恐ろしくて仕方なかった。全くまるで文学を知らないって事が却って功を奏するとは思わなかったよ。だけどいいか?その無知ぶりが通用するのは最初だけだぞ。出版社に入ったんだからいい加減にちゃんと文学を身につけろよ。で、お前の質問の答えなんだけど、俺が考えでは、その何もないって事が却って先生の文学の力になっていると思うんだよ。十九世紀のアメリカってのは文学にとって全く不毛な地だった。その頃のアメリカってのはヘンリー・ジェイムズの「アメリカには文明がない、歴史もない、王もいない、宮殿もない、貴族もない」で始まるないない尽くしの有名な評言で表されるようなどこだったんだ。小説ってのはある程度文明が発達しないと書けないものだからね。当時のアメリカンルネッサンスの作家たちそのないないない尽くしの不毛な環境で文学を書くにはどうしたらいいかってのを日々考えたのさ。そして彼らは一つの解決策を編み出した。それは文明や歴史のなさを聖書や過去のヨーロッパの文学で埋める事だった。ニュー・クリティシズムの評論家ジョージ・スタイナーはアメリカンルネッサンスを代表する作家ホーソーンやポー、そしてその中でも最大の作家であるメルヴィルについてこんな事を言っている、『彼らの文学は歴史のない文学である。彼らの生きているアメリカという国はヨーロッパのような小説を産むにはあまりにも未発達であった。その地であえて小説を書くにはその文明や歴史の代わりとして歴史あるヨーロッパ文学を持って来なければならなかった。ゆえにその文学は文学のための文学。つまり言語芸術的にならざるを得ない』とね。僕は厳吾先生を見ているとそれを思い浮かべるんだ。先生もメルヴィルなんかと同じように何もない部屋で古事記から源氏物語を経てさらに漱石から大江に至るまでの文学を取り込んで書いていたんだから。けどまぁ、このジョージ・スタイナーの言葉も実際に本人が書いたのか、単に俺の記憶違いかどうかもう分かんないけど……」

 新人編集者は先輩編集者の長たらしい文学講釈を途中から聞いていなかった。彼はふとまた厳吾の部屋のドアに釘付けられた貼り紙を思い出し、いつまでも講釈を続ける先輩に向かってその事を言った。

「あの、先輩。お話中の所申し訳ないですけど、厳吾先生やっぱり大丈夫なんですかね。先輩もドアに釘付けられた貼り紙見たでしょ?俺先輩が触れないからずっと黙ってたんですけど、あれってマズいでしょ?『この野菜泥棒め!さっさとこのアパートから出ていけ!』って。あの人このままじゃアパート追い出されちゃいますよ。そうしたらあの華麗なる文章書く場所無くなっちゃうじゃないですか?先輩どうするんですか?」

 先輩編集者はこの後輩が自分の文学講釈を邪魔したことに頭に来た。今お前に文学を教えてやっているのに聞きもしないとは。彼は後輩を黙らせようと思って彼を遮ってこう言った。

「いくら先生が野菜泥棒するまで落ちぶれようとも俺たちはボランティアじゃないんだから原稿料以外のものは一切払わん!それに今はあの人の素晴らしい文学について話しているんだからそんなくだらん現実なんか持ち出すな!」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?