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自己受容の本質とは。「合理的で言葉を大切にする」

今回自己受容の本質とはという題名にした。

私的には、願望の言語化も自己分析の1つだと思う。
後でも書くがやはり”自分がそもそも何を望んでいる(いた)のか”という本当に自由に思い描いていいことすら自分自身で理解できていない、ズレているというケースがかなり多いからだ。
そしてかつての自分もそうだった。

私は前回自分自身が骨格ストレートなのにもかかわらず、骨格ウェーブの服を好んで着ていたこと、
その理由が小さい頃から女の子らしくないことをかなり気にしていて、女子っぽくなりたかったから、無理矢理自分に合わないもの着用していたと書いた。簡単に言えば、本当はすごくジーパンやデニムズボンが似合うタイプ(何なら、究極的に1番似合うタイプらしい。)なのに、無理矢理似合わないフリフリのスカート着ていたイメージ。

思えば、中学の時、肌にハリがあるという風に言われ、他の子には髪を下ろすよりポニーテールの方が似合うよと言われた。
さらに小学校のときには意地悪な子に太ももが太いって言われたことがある。

いずれも骨格ストレートの特徴である。

一方で、この骨格診断以外にも顔診断やパーソナルカラー診断といったものがある。私はその中の顔診断では、フレッシュと言って実はこの骨格ストレートとは相反する顔タイプで、似合うものを探すのが大変難しい体である。
加えて、私は骨格ストレートの中では、比較的華奢なのでウェーブの要素も多少なりとも持ち合わせている。それにパーソナルカラーもイエローベースが中心だが、ブルーベースも持ち合わせている。

要は色々な要素を複合的に考えないといけない難しいタイプである。

イメージコンサルタントなどウェブを見ているとバックなどを顔から遠いところにあるので、骨格を優先させる一方で、顔に近いようなブラウス、トップス等は顔タイプ、つまりフレッシュ若々しい感じのものでも良いということ。つまりボトムスは骨格に合わせていくと言うことだ。

簡単に言うと高そうなカジュアルが似合うそう。ちょっと厄介だ。

そこで、私が考えたのは、白いコットン混じりのパンツ、若干フリルが付いたストライプワンピース、ベージュのジャンスカなど、自分のこの相反する性質タイプたちに合わせたものを見つけるのが、最近のブームである。

私の決定的な変化は、ただ目指すところに向けて努力するのではなく、変えられない要素、例えば骨格や顔タイプなどを受け入れて、それにどう合わせていくのかを考えられるようになった点だ。

ちょっと前まで私の1番好きな映画は『ガタカ』と言う近未来を描いたSF作品だった。
私の好きなイーサン•ホークが主演しており、今よりも更に遺伝がものをいう時代を想定している。生まれた時点で就ける職業などが差別区別されていて、劣勢と優勢に分かれている中で、劣勢の主人公が優勢にまじろうと、猛烈に努力する話である。

こういった形で、ゴールに向けてバリバリ努力すると言う系がかなり好きだった。

努力信仰そのものが危険というより、背景が問題である。
この努力信仰が危険な理由は、私の場合、自己受容ができていなかったことである。

私の中の今柱となっている考え方は、必要な毅然さは保べしと言うものである。

前に書いた小さい頃からの教えでネガティブなことを言うことにためらいを感じていた。
本質より、小さい頃からの教えと刷り込みが優先してしまっていたのである。今では反省し改善今でさえなかなか難しいこともある。
私は自己受容できていなかった頃はかなり縁起恐怖があった。
バチが当たるといったことを本気で信じていた。
何か悪いことがあった時その前や直前にネガティブなことを発話していたりしたら、そのせいだ、バチだ、と無理矢理関連付けをしていた。
言葉を大切にするを通り越して、ある種強迫性障害の域だと思う。

今も信じているが、一方で、「必要な毅然さは保つ」ということの方を優先しているし、太い柱となっている。

10代で手に入らなかったものに、人は一生執着
し続けるという。
おそらく本当にそうなのだと思うし、私の趣味の音楽も14歳の時に聴いていた音楽は一生聞き続けるというデータもあるそうだ。

それでは、私が10代で手に入らなかったもの、つまり一生執着し続けるものは何だろうか。

Twitterに書いてあったけれど、そもそもの根本の自分の願望とか何が欲しかったのか今何が欲しいのかという、何にも制限されない単なる自分の欲までも理解や言語化できていない人、ずれている人が多いという。

私もついこの間までは人気になることとか愛されることとか、安直な思考の持ち主だった。
しかし、最近自己分析を詰めていく中で気づいたのが私が本当に欲しかったものは、「平穏な人間関係」であったのだ。

私が人間関係にこだわっていたこと、「1人で生きていけないこと」を強く自覚と意識し、それを小さい頃から意識して行動に移していたというのは前も書いてきた。

私が実際に中学や高校の時に入っていたのはオーケストラ部だったが、
実は本当は中学受験の時に思い描いていたのは、文学部に入ることだった。
理由は書くことが好きだから。

文学部の私の学校での活動は、一人一人が創作の小説などを書いて年に1回、それを冊子にして全校生徒に配るといったものだった。
1人では成立しないオーケストラとは対照的な個人作業である。

しかし、結局私は文学部には入らず、”人は1人では生きていけないから鍛錬しなくてはいけない”と言う自覚から、人間関係が大変複雑で難しいオーケストラ部の活動に10代の大半、つまり12歳から17歳までこの活動に捧げたのである。

10代と言うのは、小学校4年生から6年生までも入っている。
この時期も、私は人間関係に苦労している。集団の中学受験塾でも嫌な思いをしたし、更に習い事を辞めなくてはいけないのもストレスであった。
他方大学の最初のほうも10代である。
この時は、比較的人間関係には恵まれていたように思う。一方で、アルバイトはしていたので、人間関係からは逃げなかった自分は褒めてあげたい。だからか、大学の10代最後は本当に楽しかったし大切な人間関係も見つかった。

私はこれからも「平穏な人間関係」に執着し続けると思う。
それは10代でほとんど手に入れることができなかったからだ。そして私が渇望していたことだからである。

前の記事では、もし私が会社員なら人事部に入りたいと書いた。
これも咀嚼すると、私は10代で手に入らなかった”平和な人間関係”に執着しているから、
逆説的、いわば皮肉だが苦労したはずの、そしてそこまで好きじゃないはずの”人間”を「最早極めたい」と思うようになってしまった結果である。

それだけ私は公私の公の人間関係に全力で向き合ってきた。
何度も繰り返しになってしまうが、それは小さい頃から「人は1人では生きられないこと」を自覚してきたから。
また教えとしても言われてきたこと、将来必要なのだから早めにやっておかなくてはと言う自分のある意味心配性な性格、慎重な性格の表れでもある。

人の悩みは、かなり大半が人間関係に由来していると聞いたことがある。
そうである、というのは今自分が暮らしていても思うから。
それだけ痛感する位「人は1人では生きられない」のである。自分が人生の中で大きな柱として、抱いてきた信念、ポリシーは間違ってはいないのだと感じる。
しかし、やはり履き違えないようにしておきたいのは、それは苦労せいとか七転八倒せいということではないということだ。

私が尊敬する友人の言葉に「小さく、早く失敗する」というものがある。
若いうちの苦労は買ってでもしろと言われることがあるが、そこでぽきっと折れてしまってはダメだからこの表現に行きついたのだろう。

未だに時折イメージすることがある。
それは私が文学部に中学や高校で入って、大好きな書くこと、創作を活動として、年に1回冊子を全校生徒の皆に配っていること。

もしそうだったらどれだけ幸せでどれだけ平穏だったんだろう。
ここまで病んだり繊細になることもなかったんだろうな、とさえ思ってしまう。

しかし、そこも含めて”自分”である。
つまりそういう風に本当は渇望していた、平穏で、何事もない平和な人間関係を差し置いて、自分のしたかったことと、真逆のことを将来のために鍛錬した、という選択をした自分をも受け入れる。
それにokを出すっていうのが、本当の意味での自己肯定感であると思うし、自分自身の自己受容であると思うし、自分自身のベース、つまり植物なら土の部分、土壌を整えることにつながっているのだと痛感する。

今まで私はここ(変えられない過去の自分)を否定し続けて、単なる努力信仰をしていた。
努力する事は当たり前に大切だが、努力すれば、何でもいいと言う発想は大変危険であったと思う。
根本的な自己肯定感が低い。自己否定などをしている上での努力と言うのは、つまり基盤の部分がガタガタになっているから、大変危険なのだ。 

例えば平面な場所ではなくて、ボコボコのコンクリートの上でジェンガをやっているイメージ。
小さい頃、友達の家や小学校のカウンセリングルームの開放時間に遊びに行くとジェンガをよくやっていた。
ジェンガってほんとによく崩れる。それは平らなフローリングや机の上でやっていてもである。それをコンクリートや泥上でやっていてはいわんやと言う話だ。

つまり、積み上げてきたものも、基盤の自己肯定感がなっていなければ、崩れるのは本当に一瞬であるということだ。

私は以前自分の好きなタイプも安直に優しい人などと考えていたとかいたが、それを言葉を大切にする人に変えたとに表現した。
私はだんだんそれが確固たるものになってきたと思っている。
肉付けして、私は好きなタイプを「合理的で言葉を大切にする人」としたい。

面白いというか、若干皮肉なことだが、これはやや相反する性質である。
骨格と顔タイプの話に似ている。

相反することだからこそ、考えることが大変に多いということだ。私は実はこうした複雑に考えること、は得意としているのかもしれない。

理由は、やはり自分が10代で、あえて将来のために好きでは無い複雑な人間関係に身を投じて行ったことも大きく影響しているんだと思う。
文学部に入っていればと言ってはあれだが平和な人間関係だって選ぶことができたはずである。だが、私は自分の鍛錬のため、自分の将来のために茨の道を選んだのだ。

だから、本当は平穏な道に行きたかったと言いつつも、自分は複雑に考える事は得意通り越して最早強みなのだ。

更にいえば実際に異論もあるし、自分としても意外なことだし異論はいくらでも認めるが、苦手と自分で言っていた勝負事だって実は意外に勝負の方が良いのかもしれないと最近感じる。

それは勝負だと逃げも隠れもできないというか泣いて笑っても1回きりだから。
おしりが決まっていることの方が自分は得意かもしれないと思ったからだ。

つまり、自分で動かせないこの日、というところまで全力で努力すると言う、定点を決めてそこまでガーっと努力して、白黒はっきり出る方がめんどくさがりな自分的には好きなのかもしれない。

相反する性質は複雑だし難しい。
「合理的かつ言葉を大切にする人」は、そうそう存在はしないんだと思う。
実際ほとんど会った事は無い。

合理的な人は、言葉がきつかったり難しいがちだ。なんでも熟語や名詞化したり、カタカナだったり。
時折私は頭が良いアピールなのだろうかとさえ感じてしまう。合理的な人は大抵頭が良い。
私が苦手な打ち消し用語、ムーミンの皮膚(無未非不)等も平気で使う。

他方、言葉を大切にする人は、話が長いがちだったり、やや自分的にあれ、と思うことも多い。
理想が高いと言ってはなんだが、自分が”ギャップに生き、ギャップに死ぬ”あまのじゃくタイプだったからこそ、このようなことを好む傾向にあるんだと考える。
人生整理をしてみて、好きではないことにさえ鍛錬のためあえて身を投じる底力やガッツがあるから同じように鍛錬できる人や相反する複雑さ、よくいえば深みを求めてしまうのだと思う。
なんだか修行みたいな性格だなと自分でも思ってしまう笑。

本当に、好きなことを行う時、人は夢中で無心だ。
一方で本当は好きではないけれど、鍛錬のためにやる時、そこに軽蔑などが入りやすいと思う。
自分も猛反省している。

要は、自分がしたいことを我慢して執行鍛錬してきたことをある意味鼻にかけるというか、そこも”自分の選択”なのにもかかわらず、そのサンクコスト”やりたいことができなかった事”を割りきれていないのだ。
だから私はやりたくてやっていると言う意識を強く持ちたいと思う、人生整理や自己分析もその1つである。

人生整理や自己分析で自分を受け入れていくプロセスは何かをベリベリと剥がしていく感覚に近い。
いわばメッキのようなものである。
もちろん、メッキを全力で塗る力も大切だが、「メッキを塗らない状態を受け入れる」ということはもっと基本だし、大切である。

ディズニーシーの私の好きなアトラクションの最後に「冒険に終わりはない」と言うサインがある。
私はこのサインが好きで毎回ディズニーに行くと見ている。

同じように、自己分析にも人生整理にも終わりは無い。ただ分析や整理をすると傾向がつかめてくるし、言語化が進む。何より当然だが、自分への理解が進む。

以前、「ありのままの自分を認める」というのは、楽そうに聞こえること、何もしなくていいように聞こえることがトラップであると書いた。
確かに、私もきちんと自己分析をして、ある程度納得するまでの精度まで詰めるまでとても時間がかかった。約1年かかった。

でも私は人生整理や自己分析に価値があったと思う。
いろいろなことを味方にしていて、褒められた「人生への真剣さ」を強みとしていきたいと思う。

複雑にものを考えることができる力はこれからも生かしたい。

「合理的で言葉を大切にする」
これは好きなタイプとしつつ、自分も目指していきたい人そのものである。


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