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武田一義『ペリリュー 楽園のゲルニカ』 : この世界との〈情報戦〉

書評:武田一義『ペリリュー 楽園のゲルニカ』第1巻(ヤングアニマルコミックス)

すばらしい作品だ。だが、これは「戦争」そのものではない。
ピカソの『ゲルニカ』がそうであるように、本作もまた、この世界から切り採られた「意味」の断片群を、再構成して作られた「作品」だからである。

しかしそれは、「戦争体験者」にとっての「戦争の記憶や体験」とて、まったく同じことだ。
誰も、誰一人として「戦争」そのものを見たことも体験したこともないし、そもそも「戦争そのもの」など、実在しないのだ。人が「戦争」と呼んでいるものは、それぞれがその「特殊状況」について、個人的に持っているだけの情報から捏ち上げた「個人的な作品としての観念」でしかない。
当然、それらの「戦争」は、他者のそれとは異なっており、同じ「戦争」などというものは、存在しない。私たちが「戦争」と思っているものは、曖昧に重なり合った「イメージ」に集積でしかない。つまり、「戦争は実在しない」。

したがって「戦争」がどういうものであるかという「意見」や「解釈」が食い違うのは当然のことで、そこに正誤があるわけではない。それは、ある人にとっては悲惨きわまりないものであろうし、べつのある人には美しく崇高なものだということもありえる。後者は、決して嘘をついているわけではない。彼はただ、そうした肯定的側面しか見なかったか、それ以外を無視したり忘れたりしているにすぎない。

いずれにしろ、「戦争のすべて」を知っている人など、この世にはいない。「戦争」もまた、所詮は「個人の定点観測」を出るものではない。仮に、経験者の話を聞き、本を読み、現場に足を運ぶなどして「情報量」を増やしたとしても、あるいは「実体験」してみても、それは、そのひと個人の目を通して集積され、その人の価値観で分解・解釈・再構成されたものでしかないのだ。

だから、本作が「戦争そのものを描いていない」という評価は(作者自身も認めている事実だが)、なんら本作の欠点を指摘するものではない。この世に「戦争そのもの」を描いたものなどないし、「戦争そのもの」を知っている人もいなければ、「戦争そのもの」の体験者もいない。すべての人が知っているのは、「戦争」と呼ばれる状況の「断片的情報」でしかないからである。

ならば、私たちは「戦争」に対して、どのように向き合えば良いのだろうか。

それはたぶん、「私たちは、戦争のすべてを知らない」という自覚を持って、その「戦争」という「掴みきれないもの」の「陰に潜むもの」を想像する努力を惜しまない、といったことであろう。

誰かが「戦争」のことを教えてくれるわけではないし、何かに「戦争そのもの」が描かれているわけでもない。もとより「戦争そのもの」は、パッケージなどできないし、すべてを個人の頭の中に収めることなどできないはしない。

しかし、だからこそ私たちは「好みの戦争イメージ」だけを蒐集して「好みの戦争像」をでっち上げることで満足していてはいけない。当然のことながら、「戦争」とは、個人の「好み」に収まるようなものではないのだから、私たちはむしろ「好み」からこぼれ落ちる部分にこそ、目を凝らすべきではないか。

したがって、本作の描くものが「戦争のすべて」ではないし「戦争そのもの」でもないというのは事実であるにしろ、そのように「評価」している人の頭の中にある「戦争」もまた、「戦争のすべて」ではないし「戦争そのもの」でもないという事実を忘れるべきではない。
私たち「群盲」が、「戦争」という「捉えきれない闇」に向き合う際に必要なのは、それが完全には捉えきれないものであるにしろ、しかし、今も、またこの先も「無縁ではあり得ないもの」であるという事実だけはしっかりと認識して、その「闇」と向き合い続けなくてはならない、という覚悟なのだろう。

そのためのきっかけとして、本作はじつに素晴らしい作品だと言える。
だが、その先に、私たちは「面白くもなければ読みやすくもない情報」とも向き合えるようにならなければならないだろう。もはやそこでは、「面白いもクソもない現実(情報)」が、私たちを待っているからである。

これは、私たちと「この世界」との、「情報戦としての戦争」なのではないだろうか。

初出:2020年9月10日「Amazonレビュー」

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