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平方イコルスン 『スペシャル』 第1〜3巻 : 他者を求める〈怖れと喜び〉

書評:平方イコルスン『スペシャル』第1〜3巻(torch comics)

第1巻から第3巻までを、まとめて読んだ感想である。
評判を耳にして、これは期待できそうだと、既巻3冊をまとめ買いしたのだ。

第1巻を読了した段階では、正直言って「失敗したかな」という感じだった。もしも、買っていたのが第1巻だけだったら、もう続きは読まなかったろうが、しかたなく第2巻、第3巻と読み進んでいった。
その結果、第2巻半ばあたりから、私の評価は徐々に高くなった。
当初は「変な人」たちの登場する、よくある学園コメディーに見えたのだが、そのあたりから作品のテイストが変わってきて、それが私の好みに合致したのである。

私が敬愛するマンガ家・阿倍共実は、第3巻に次のような推薦文を寄せているが、その意図するところは、私の共感とほぼ同様だったと思う。

『平方イコルスンが初めて長編で紡ぎだした世界。そこに生み落とされた青い瑞々しさの正体は、短編で発揮されていた言葉、空気、描写などの鋭い表現能力の更にその奥にある平方イコルスンという人間そのものが濃く現れたのではないかと勝手に感じ、この愛おしい世界に感動している。
今もこんな漫画があることに幸福を覚える。』(第3巻、帯・表側の推薦文)

そうなのだ。この作品は「変な人=理解不能な人」、つまり「他者」を描いて(それで満足して)いるのではない。
「他者」は、たいがい理解困難であり、そうであるからこそ「他者」なのだが、それでも求めずにはいられない(理解したいと思わずにはいられない)のが、「他者」なのである。

視点人物である葉野さよこは、転校生であり、言わば「他者」の中に放り込まれた「異物」的存在である(だからこそ「神」的なのだ)。彼女は、そうした環境から「友達」を作ろうとするが、「他者」を求めることにおいて、彼女は極めて慎重だ。なぜなら彼女は、「他者」理解の困難性をよく知っていたからである。
彼女は、他人のことが簡単に理解できるなどとは思っていないので、級友たちにたいして、接近を試みつつも、踏み込み過ぎないように気を配り、つい踏み込みすぎたと思えば、即座に「ごめん」と謝罪して、距離を取る。この謝罪の言葉が、彼女という存在の特徴ともなっている。

「他者」に近づきたい。その究極は、一体化したいという願望だ。しかしまた彼女は、「他者」と完全に一体化することなど出来ないことを知っている。なにしろ、私とあなたは「他者」であるからこそ、私であり、あなたなのだから。
それで彼女は、最も好ましい距離を慎重に測りながら、踏み込んだり、退き下がったりしながら、徐々に関係を築いていく。

しかしまた、他者に対する「理想的な距離」というのは、絶対的に存在するものではない。
というのも、「他者」の魅力とは、その「他者性」にあり、その「他者性」とは、「違い」だからだ。そしてその「違い」とは、おのずと「怖れと喜び」を喚起するものであり、どちらか一方というわけにはいかない。
多くの喜びを味合うためには、多くの危険を犯して踏み込み、多くの苦痛に堪えてこそ、多くの喜びを得ることができる。逆もまた真であり、傷つくことを怖れていては、他者から喜びを受けることもできないのである。だから、「他者」にどこまで求めるのかは、その人の覚悟次第なのである。

慎重な葉野さよこの場合、当初、その距離感は「ほどほど」のもので、ひとまず良しとされる。しかし、人間関係とは一方的に規定できるものではない。他人との関係ができれば、相手側がどのような距離感を求めるのかは予測しきれないし、コントロールすることも困難だ。その結果、彼女は好むと好まざるとにかかわらず、友達との関係を深めていく。
友達を「変な人」だとだけ見ていた頃には知る由もなかった、友達の「人間らしさ=人間性」に接して、彼女はもはや退きかえせなくなっていく。「他者」が、真の意味での「他者=理解不能な人」ではなくなった時、つまり「自分の一部」になってしまった時、どうしてそこから退き下がることなどできるだろう。もはや「友達」は「他者」ではなくなっているのだから。

阿倍共実の推薦文からも窺えるとおり、作者・平方イコルスンのそれまでの作風に満足していたファンの中に、こうした方向性の変化を歓迎しない人が多くても、なんら不思議ではない。だから、私は第1巻のテイストを否定するつもりはない。
だが、私個人は、長編の故にか変化を見せ始めた作者のこうした表現にこそ興味を持ったし、それはたぶん、阿倍共実が指摘したとおり、作者の「素顔」としての「人間性」が見えてきたところに、私は惹かれたのだろうと思う。

作者はそれまで、葉野さよこのように、「他者」に一定の距離をとって接していたのだろう。だからこそ、「他者」の奇妙さや理解困難性を、安全に、面白おかしく描くこともできたのだろう。
しかし作者は、葉野さよこと同様に、結局は「他者の引力圏(深い魅力)」に惹き寄せられていったのである。

その危険な道行きに魅力的と感じるか、それとも、本能的にそうした危険な道を回避するか、それはもう読者の選択次第であり、事の良し悪しではないのだろう。
だが、表現者としてはやはり、一度は踏み込むべき「人間という八幡の薮知らず」なのではないかと思う。

物語的な結末としての「謎」の解明が、どのようなかたちでなされようと、どんなに残酷な事実が待ち受けていようと、大切なことは、それを葉野さよこたちがどう受けとめるか、読者がそれをどう受けとめるか、なのだと私は思う。

初出:2020年8月20日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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