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平方イコルスン 『うなじ保険』 & 三島芳治 『児島まりあ文学集成』 第2巻 : 言葉が紡ぐ〈世界〉の虚実

書評:平方イコルスン『うなじ保険』(楽園コミックス)、三島芳治『児島まりあ文学集成』第2巻(torch comics)

たまたま、異質な2冊のマンガを続けざまに読んで、「これは面白い対照性だ」と思った。
その2冊とは、平方イコルスン『うなじ保険』と、三島芳治『児島まりあ文学集成』(第2巻)である。

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たぶん、前者の読者と後者の読者は、ほとんど重ならないだろうし、特に、後者の読者で、前者を読んでいる人は、ほぼいないと断じて良いだろう。
もちろん、前者がマイナーマンガであり、後者が特異な作風ではあれ基本的にはメジャーマンガであるということもあるのだが、そのようなジャンル的な違いは、さほど重要なことではない。むしろ、私たちが注目すべきは、両者が共に「青春(思春期)マンガ」であり「〈言葉による逃避世界〉に生きる主人公たちを描いた作品」でありながら、その「描き方」が、真逆であるという点だ。この「描き方の真逆性」が、前者をマイナーマンガにし、後者をメジャーマンガにしているのである。

同様に「青春(思春期)マンガ」であり「〈言葉による逃避世界〉に生きる主人公たちを描いた作品」でありながら、両作はどのように「真逆」なのだろうか。

前者、平方イコルスンの『うなじ保険』は、「〈言葉による逃避世界〉に生きる主人公たち」の「滑稽さ」を描いた、少々「自虐的なユーモア作品」であるが、後者、三島芳治の『児島まりあ文学集成』は、「〈言葉による逃避世界〉に生きる主人公たち」を、ロマン主義的に描いた作品だと言えよう。
つまり、『うなじ保険』では、作者は自身を主人公たちに投影しながらも、それを笑い飛ばす「批評性」が強く、『児島まりあ文学集成』では、そのような「批評性」が皆無だとは言わないまでも、前面に出てくるのは、あくまでもロマン派的な「ナルシシズム」である。

したがって、『児島まりあ文学集成』の主人公である児島まりあは、自身を崇拝する盲目(強度の弱視?)の少年・笛田について『笛田くんの妄想が私を守っているの』(第2巻P42)と語り、その「美的(文学的=韻文的)な世界」を固守しようとするが、『うなじ保険』の作者の方は、そうした「逃避的自閉世界」への固執を、同情と痛みを持って「笑いで打ち砕く」のである。
そして、そうした『うなじ保険』の作者の「批評的」な態度もまた、「美的」であり「文学的」ではあるのだが、それは「韻文的」ではなく、真逆に「散文的」なものなのだと言えるだろう。

喩えて言うなら、三島芳治の『児島まりあ文学集成』は、ドイツロマン派の作家ノヴァーリスの『青い花』(あるいは、日本浪漫派・保田与重郎の『日本の橋』でもいい)を連想させるし、その一方『うなじ保険』の平方イコルスンは、『堕落論』の坂口安吾を思わせる。
そして、安吾がそこで語ったのは、「堕ちよ」ということであった。徹底して堕ちきることでだけ、真の生活が開けるのだと。

だが、今も昔も、日本人にはそうした徹底性が、どうにも欠けているようだ。だからこそ、そこがマイナーとメジャーの分岐点にもなるのである。

初出:2020年9月25日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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