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若林稔弥 『幸せカナコの殺し屋生活 (1)』 : カナコになりたい日本人

書評:若林稔弥『幸せカナコの殺し屋生活(1)』(星海社COMICS)

少年少女の初々しい恋愛模様を、4コマ連作のコメディーマンガとして描いた傑作『徒然チルドレン』の作者・若林稔弥の新シリーズだが、ちょっと想定の範囲を超えた異色作だ。

著者らしいと言えば著者らしい「心理的なすれ違い」を笑いに変える作品ではあるのだが、本作で描かれる心理は『徒然チルドレン』での〈恋愛〉とは違って、あきらかに異常なものだ。異常を異常と感じない主人公と、その周囲との心理的ギャップがギャグになっている「殺し屋コメディー」である。

しかし、こう書いたからといって、主人公のカナコが、怒りや怨みにとらわれた、暗くおぞましいサイコパスだというわけではない。
カナコは、いちおう「人殺し」を倫理的にいけないことだと理解しているし、それを反省しもするのだが、人殺しに対して「負い目」を残さず、まったく引き摺らないという点で、普通ではない。だが、そこで「コメディー」が成立する。

もちろん「殺し屋コメディー」なら、「人の死」が、深刻なものやリアルなものとして描かれないのは当たり前だし、主人公の心理もそれに応じた、形式的に軽いものになるのだろうとは考えられる。また、一般的にそうした作品は多いだろう。
だが、本作の場合には、そうした作品とは明らかに異質であり、そこがこの作品の興味深いところ、「面白かった」で笑って済ますのがもったいないと感じさせる、なにか「社会心理学的な深さ」を感じさせる部分なのだ。

かつて大人気を博したテレビドラマの「必殺シリーズ」(『必殺仕掛人』『必殺仕事人』など)では、「世の中の、法で裁かれない悪にたいする庶民の怨みを、プロの殺し屋である仕掛人たちが晴らす」という基本パターンがあり、視聴者は、現実の世の矛盾によって抱え込んだストレスを、この勧善懲悪のフィクションで代償的に晴らしていた。
しかし、「必殺」で裁かれるのは、あくまで「法で裁けない極悪人」たちであって、単なる「傍迷惑な人」などではなかった。そこが本作『カナコ』の場合と大きく違う。

カナコが殺すのは、勧善懲悪のドラマで描かれるような「極悪人」ではなく、たいがいはカナコが単に「嫌な奴」と思った人間に過ぎない。ある人間の、ある一瞬の理不尽な行動が「殺し」によって裁かれる。その人間が、その他の部分でどのような人間であったかといった「全人格」的な側面は、初めから問題にされない。
と言うのも、作者は、初手からカナコに「正義」を与える気など無いからだ。カナコは「正義の味方」などではなく、あきらかに「サイコパス」なのである。

では、なぜサイコパスであるカナコが、「殺し」以外の部分では、むしろ共感を呼ぶ「小市民的」な女性として描かれるのだろうか。なぜ、いわゆる「嫌ミス」(嫌なミステリー小説)の主人公のような、嫌な感じの異常者として描かれないのだろうか。

それはたぶん、読者の多くもまた、日常的に怒りや怨みを向ける相手とは、極悪犯罪者や極悪権力者などではなく、学校のクラスメートや会社の同僚、電車やバスでたまたま乗り合わせる見知らぬ隣人だからなのではないか。
そういう「身近な・小さい悪」に対して多くの人は、より「リアルな怒りや怨み」を感じており、「できれば殺したい。でも殺せない」と本気で思って、日々ストレスを溜め込んでいるのではないだろうか。

なぜ、多くの人とって、「巨悪」が問題にならず、より「身近な・小さい悪」に対して「リアルな怒りや怨み」を感じるようになったのか。
それは無論、「日本の現状」を見れば、明らかだ。
「巨悪は裁かれない」ということを、多くの人は、事実として嫌というほど知ってしまった。だからこそ、そこにはもう目を向けたくはないのだ。その結果として、人々の視野は、自身の狭い世間に収斂されていき、怒りや怨みの対象も、その範囲のものに限られて、そうしたものにしかリアルさを感じられなくなっていった。
そして、そうした変化の反映が、カナコというキャラクターなのではないだろうか。

ただ、「小市民」である私たちは、どんなに怒りや怨みを抱いても、その対象を「殺す」ことはしない。じっさい、殺してしまう人よりも、自分の方で死んでしまう人の方が多いのではないか。では、なぜそうなるのか。

それはたぶん、私たちが「小市民であること、小市民的な生活」に対する、意外に強い「愛着」を持っているからではないだろうか。つまり、自分が「殺人者」になることによって「小市民であること、小市民的な生活」から逸脱すること(孤立すること)を怖れるからこそ、「殺し」ができないのではないか。
「殺し」が倫理に反するからでも、法律に反するからでもなく、単に、自分が「(他人から見ての)今の自分」ではなくなり「今の生活」を失うことが怖いから、「身近な・小さい悪」に堪えているだけなのではないだろうか。
だとすれば、カナコの属性は「理想的」であると言えよう。

人を殺しても、他者からは無論、自身からも「倫理的責め」を負わず、「日常の平凡な私」に還っていける「特異なメンタリティ」と、「平凡な日常生活」を失わずに済むような「殺し屋としての天才」。
もしも、この二つが揃っていたなら、私たちは喜んで、カナコのような「殺し屋」生活を始めるのではないだろうか。

そして、カナコの近いメンタリティの持ち主とは「ネットにおいて匿名で、正義のリンチを行う人」たちなのではないか。そういう人ほど、自身を「正義感が強いだけの小市民」だとでも思っていそうではないか。

所詮は「殺し屋コメディー」マンガ、なにを真面目に論じているのだ、と感じた人も少なくないだろう。
しかし、私としては、あの『徒然チルドレン』を描いた人が、このような作品を描いたことの重みを感じずにはいられなかった。

作者・若林稔弥は「天才」である。そんな彼だからこそ、「今の日本の精神状況」をブラックなコメディーとして描けたのではないだろうか。そして、そんな傑作を、ただ「面白かった」の一言で済ませるのは、いかにももったいないと、私には思えたのである。

初出:2019年5月12日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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