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リチャード・ドーキンス 『さらば、 神よ 科学が導く』 : 無神論者の覚悟と 〈平均的日本人〉

書評:リチャード・ドーキンス『さらば、神よ 科学が導く』(早川書房)

先行のレビュアー「小河沢」氏が、何気なさげに書いている次のような言葉に、本書を深く味わうためのポイントが隠されている。

『特に日本人に多い無宗教(特定の宗派は持たないが、神の存在を否定もしていない人)の方にこそ読んで頂きたい。』

これが何を意味するのか、ピンと来た人が、いったいどれくらいいただろうか。

私と違い、「小河沢」氏は、とても繊細な方である。それは、ドーキンスの『神は妄想である』についての、次のような感想によく表れている。

『(※ ドーキンスは、宗教批判の本を)世界各国へ発行しているため、著者には様々な宗教家、神学者、有神論者、または占い好きや霊能力者(自称)、死後の世界の信奉者など、専門家や一般を問わず大勢の神秘論擁護者から数え切れない批判の手紙が届いたそうです。
あまりのストレスに私だったら気が狂うかもしれません。』

つまり、「小河沢」氏は、批判的な意志を持ってはいても、ドーキンスのように「事を荒立て」られるほど、神経の太い人間ではない、ということだ。
で、そんな氏が『特に日本人に多い無宗教(特定の宗派は持たないが、神の存在を否定もしていない人)の方にこそ読んで頂きたい。』と書いているのだから、その含意するところは、「特に日本人に多い無宗教(特定の宗派は持たないが、神の存在を否定もしていない人)の方こそ読んで、我が事として考えてほしい。」ということなのである。

だから私は、その点について、より具体的に、突っ込んで書こうと思う。
「日本人に多い無宗教(特定の宗派は持たないが、神の存在を否定もしていない人)の方」たちが読んで、「嫌なことを言う奴だな」と思うようなことを、あえて書こう、ということだ。
やんわりと書いたのでは伝わらないであろうことを、ハッキリと書くことで、思考を促そうと思う。それが私の個性だからであり、それを書いてこそ、私が「小河沢」氏の後にレビューを書く意味もあるからである。

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本書の「凄み」を実感できる、日本人読者はそう多くないはずだ。
だから、本書は、日本人には過小評価されやすい。

本書が、日本人読者に「過小評価」されやすいのは、キリスト教徒ではない日本人読者の多くにとっては、本書に書かれていることは、言わば「当たり前」のことだからである。
だが本書は元来、著者ドーキンス自身がそうであるように、主にキリスト教圏の(中でも、原理主義者の多いアメリカの)読者を想定して書かれたものだということを忘れてはならない。キリスト教に「人生」を賭けている人たちが大勢おり、そんな人たちの、ある場合には「命よりも大切な信仰」を、あえて批判し否定するのだから、生半可な気持ちでできることではないのである。

明確な信仰も持たない人の多い日本で、明確な信仰を持たない日本人が、お気楽に「信仰批判」するのとは、わけが違う。
信仰批判をしたために、命まで狙われるというのは、なにも(サルマン・ラシュディ『悪魔の詩』翻訳者殺害事件の例に見るような)イスラム教ばかりの話ではない。狂信的なキリスト教徒だって大勢いるのだから、ドーキンスのような呵責のないキリスト教批判は、当然、命の危険だって、頭の片隅に置いてなされているのである。

本書もまた、生まれたときから、聖書の教えやキリスト教の慣習の中で生きてきた人たちに向けて書かれたものだ。だから、そうした読者が読むのと、私たち非キリスト教徒の日本人が読むのとでは、その「重み」が、まったく違っていよう。

本書の本来の読者である、キリスト教圏の多くの読者にとっては、たぶん、この一見「語り口の平易な、若者向けの啓蒙書」の文章は、その印象に反して、どすっ、どすっ、どすっと打ち込んでくる、ストマック・ブロー(腹部打突)のように「嫌なもの」なのではないだろうか。
ボクシングにおける「テンプル(こめかみ)」への被打は、脳が麻痺して意識を失うため、感覚的にはむしろ「気持ちがいい」くらいだそうだが、それとは対照的に、ストマック・ブロー(腹部打突)の被打は「地獄の苦しみ」と言われている。
それと同様に、本書における、ドーキンスの「平易な語り口」は、むしろ、地味だがじわじわと相手を追い詰めていく、ストマック・ブローに似ており、攻撃されている者には、とても嫌な、「堪える」攻撃なのである。

本書は、キリスト教についての最低限の知識、例えば「聖書」の中身をある程度は知っていることを前提としているため、聖書の「構成」がどうなっているのかすら知らない普通の日本人には、ピンと来ない部分、「当たり前の批判」としか読めない部分が少なくないはずだが、キリスト教圏の人が読めば、ずいぶんキツい皮肉だとわかる部分が少なくない。

この点を、すこしわかりやすく紹介しよう。
例えば、本書で紹介されている、聖書外典である「トマスによるイエスの幼時物語」における、少年イエスによる「呪殺」のエピソード。
少年イエスが歩いていると、走ってきた少年がイエスの肩に当たって、そのまま走り去ろうとした。腹を立てたイエスが「君はここで終わりだ」と言うと、その少年はいきなり倒れて死んでしまった。

この少年イエスが、いかに一般的なイエス像から遠いかは、誰にでもわかることで、多くの日本人にとっては「へえ、そんなキリスト教文書があったのか。面白いなあ。まるでダミアンじゃん」と笑ってお終いだろう。

しかし、当然のことながら、神学者や、神父、牧師は無論のこと、キリスト教のことをすこしでも勉強した人なら、この外典のエピソードは、あまりにも有名なものであり(講談社学術文庫『新約聖書外典』にも収録されている)、だからこそ、キリスト教徒としては、これは「触れてほしくない部分」なのだが、ドーキンスはそこに容赦なく触れてくる。
できれば「トマスによるイエスの幼時物語」の存在を無視したい、学のあるキリスト教徒にとって、こうした批判がどれだけ嫌なこと(腹立たしいこと)かは、想像に難くあるまい。

日本人読者が読めば「ダミアンじゃん」という笑い話で済ませる話が、キリスト教圏のクリスチャンにとっては「イエスを、ことさらに悪魔の子呼ばわりする、許しがたい行為」になってしまう。しかも「(キリスト教の)歴史資料に基づいて」なのだから、タチが悪いと恨まれるのは、必然なのである。
だが、こうしたドーキンスによる批判の「凄さ」が、日本の多くの読者には、ピンと来ない。

そこで私は、日本の読者にも、ドーキンスのやっていることに「凄さ」を、すこしでも「実感」してもらうために、話を日本に置き換えてみたいと思う。

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例えば、あなたは、自身を「無宗教」であり「宗教を批判的に見られる、科学的知性を備えている」と思っているかもしれないが、テレビニュースでも紹介される、天皇家にかかわる「大嘗祭」や、20年に一度行なわれる「伊勢神宮の式年遷宮」などの「宗教儀礼」について、果たして「批判的」であるだろうか。それとも、「文化だから」と、ぼんやりと容認しているだろうか。

後者だとすれば、あなたは、ドーキンスが体現するような「無神論者」でも「科学的思考の持ち主」でもなく、「自覚のない、半端な信仰者」であるにすぎない。

天皇の代替わりににともなって行なわれた「大嘗祭」には、27億円もの税金が投入されており、それに反対する人たちのデモもあったし、秋篠宮も「税金の過剰な投入」には疑義を呈したというのは、記憶に新しいところである。

また、20年に一度行なわれる「伊勢神宮の式年遷宮」は、最近の回では550億円もの巨費が投じられている。
無論、現在は伊勢神宮の自己財源で賄われているのだが、伊勢神宮は宗教法人であり、各種の非課税措置を受けているからこそ、こんなことも出来るのであり、結局のところ、この予算の少なくない部分が「税金(的補助)」だと考えることもできるわけだ。

「宗教法人」に対する各種非課税は、なにも「神道」教団ばかりではないのだが、もしも日本が「国家神道」の歴史を持っていなかったなら、つまり「神道」という宗教集団がなかったなら、はたしてこのように極端な「宗教団体に対する優遇税制」がなされていただろうか。
じっさい「宗教法人への非課税をやめろ」という声は少なくないのだが、これを阻んでいるのが「宗教は文化だから」という、日本人一般の、きわめて「ヌルい宗教観」なのである。

周知のとおり、アジア・太平洋戦争時における「国家神道」は、「宗教」ではなく、「国体」の礎であった。それは、日本の「国柄」の一部であり、それは「宗教」以上の、もっと本質的なもの(歴史であり伝統であり文化)であると、政治的に「設定」されていたからこそ、「国家神道」は、他の宗教と同列の存在ではなく、特別扱いされ、優遇され得たのである。

そして、この政治宗教的慣習が、戦後も生き残ったのが、天皇家の宗教的慣習だ。
本来なら、秋篠宮も言ったとおり、天皇家の予算や財産のなかでそれを「家族の宗教」として私的に行なうべきものなのに、今もそれを「宗教」ではなく「(日本の)文化」であるという理屈で、巨額の税金を投じることが正当化されている。

これは「靖国神社」の問題も同じで、同神社の「国家護持」運動こそ廃れてしまったものの、それが目指していたのは「靖国神社は、単なる宗教施設ではなく、国家のために戦争で死んだ英霊のための鎮魂施設という国家的事業なのだから、国家によって護持されなければならない(つまり、税金で運営されるべきである)」といったものだった。
これは「運動」としては失敗したものの、考え方としては生き残っており、「靖国神社は、公的な施設だ」という主張が、今も公然となされている。

「無神論者」の冷徹な論理からすれば、「誰を、何を祀ろうと、それはその人や組織の、個人的な趣味や考え方の問題でしかなく、国家だ税金だと言うのは、身の程知らずで、厚かましい話だ」ということにしかならない。
だが、要は、「無神論者」を自称している日本人の中で、そこまで考えて(合理的思考に徹して)、きちんと批判している人が、いったいどれだけいるであろうか、ということなのである。

本書でも紹介されているとおり、出自・教義的に、まったくお話にならないモルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)の、その「壮麗な神殿」を嘲笑うことのできる日本人は少なくないだろう。
しかし、基本的に彼らは、自分たちの浄財でそれを建てているのだから、一宗教宗派(つまり、天皇家の神道儀式)に莫大な税金を注ぎ込んでいるという事実を批判したこともなく、疑問に思ったこともない日本人が、彼らモルモン教徒を嘲笑う資格など、まったくないのである(つまり「目くそ鼻くそを嗤う」の類いなのだ)。

こうした、ある種の専門的な話ばかりではなく、「お守り」だの「七五三」だの「宗教的結婚式」だの「受験合格祈願」だのといったことを、「文化」だと言って疑問にも思わないような人は、決して「無神論者」ではなく、単なる「無自覚な、ヌルい信仰者」に過ぎない。

つまり、レビュアー「小河沢」氏が望んだ『特に日本人に多い無宗教(特定の宗派は持たないが、神の存在を否定もしていない人)の方にこそ(※ 本書を)読んで頂きたい。』という言葉の裏には、こうした「批判」が秘められていたのである。

しかし、日本人読者の大半は、そんなことには、まったく気づかず「あんな荒唐無稽な神話を信じて生活してるなんて、キリスト教徒って、知的レベルが低すぎるよね」などと言っているのであり、そんな読者には、金輪際、本書の「凄さ」はわからない、ということになるわけである。

初出:2020年7月29日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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