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青木理『時代の異端者たち』 : 〈異端者〉となることの覚悟

書評:青木理『時代の異端者たち』(河出書房新社)

『熱風』誌インタビュー集『時代の反逆者たち』に続く、同第2集『時代の異端者たち』。

「異端者」とは何か。これは主に、キリスト教に由来する概念なのだが、「異端者」とは「異教徒」とは別概念であることを、まず確認しておく必要があるだろう。

「異教徒」とは(キリスト教から見れば、イスラム教徒や仏教徒、あるいは「淫祠邪教の徒」を含む、要は)「違う神(教え)を奉ずる(部外)者」のことであり、一方、「異端者」とは「同じ神(教え)を奉じながら、その奉じ方(理解)が違っている、同信の徒(身内)」を指している。
そして、基本的には、「異教徒」というのは「間違っているけど、関係ないから放っておけば良い(その存在を容認しうる)」存在である一方、「異端者」というのは「身内(部内者)であるからこそ、その正統主流と違った考え方や意見は、主流派の正統性を揺るがすものとして、絶対に容認できない」存在ということになる。つまり「異端者」こそが、真に「撲滅すべき敵」だと見做され、しばしば焚刑の過酷な憂き目をも見た存在なのだ。

だから、本集のインタビュイーたちは、単なる「違う意見の持ち主」ではなく「内部にあって、異論を唱える、反逆者」なのである。「安全圏にあって、高説を垂れるだけの評論家」や「仲間内で盛り上がるだけの内弁慶」ではなく、「批判対象を目の前にして、異論を発する、勇気ある者」たちなのだ。

したがって、彼らの「非凡さ」とは、その「意見の正しさ」には止まらず、我が身の危険を顧みず、「現場」にあって、異論を発する「勇気」なのだと言えよう。
そこが、「凡百」の私たちとは違うところであり、だからこそ、私たちが「痛み」を持って、彼らから学ばなくてはならない点で、要は「私も、彼らと同意見だ」で満足するのではなく、「彼らのように生きられているだろうか?」と反省してみる必要があるのだ。

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9人のインタビュイーとインタビュアーの青木理の10人は、それぞれに置かれた立場や業界は違っても、「この時代」における「非主流」であり「反主流」でありながら、「主流」派に、面とむかって異論を発し続けている。
だがまたそれは、おのずと客観的には「蟷螂の斧」とも映ろうし、事実、即効的な力を持たないのかも知れない。

しかし、最後のインタビュイーである平島彰英が語るとおりに、自身の良心や信念を偽ってまで無難に生きたところで、それで人も羨む地位や名誉やお金を得たところで、死ぬときは「体ひとつ」でこの世を去るしかないのだ。
だから、その時に「最低限、やるだけのことはやった」と、そう思える生き方をしておかなければ、きっと後悔することになる。

その意味で「異端者」とは、誰よりも「わが神」を信じ切ることの出来た、「祝福されたる殉教者」だと言えるのかも知れない。

初出:2021年4月4日「Amazonレビュー」
   (同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年4月16日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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