見出し画像

【エッセイ】安房①─館山城と里見家の歴史─(『佐竹健のYouTube奮闘記(57)』

 上総に行って以来、関東城めぐりを辞めることにした。自宅から安房までかなり遠いからだ。そのうえ、交通費もかかる。あと、そろそろ紅葉の時期が始まったり、年末で忙しくなったりするので、再び休止することにしたのだ。

 休止している間、私は川越に行ったり、鎌倉に行ったり、大宮に行ったり、東京都内を巡って紅葉狩りを楽しんだ。そして年末は大掃除を少し少し進めるなどしていた。新衣装公開の動画も撮った。そうこうしているうちに、あっという間に年は2023年から2024年へと変わっていった。

 1月は風邪を引いたり、物を書いたりしていたので、どこかへ行くということは無かった。

 月が変わって2月。このまま行かないのは面目が立たないと感じた私は、月の真ん中あたりで時間を取って行こうと考えた。


 2月16日。私は大手町駅で降りて、地下道で東京駅へと歩いた。改札を通り、総武線の快速列車に乗った。途中君津で降り、館山行きの列車に乗り換えるためである。

 君津で乗り換えをしようとしたとき、館山へと向かう列車のドアの前に立った。が、ドアが開かなかった。

(もしかして……)

 前にも似たようなことがあったので、電車の壁を見てみる。そこにはしっかり開閉ボタンがあった。

(あ、やっぱりこのタイプか)

 どうも、開閉ボタンがある車両には慣れない。いつも乗る電車は、自動でドアが開いてくれるから。でも、常陸編での教訓を活かし、こうして乗ることができたのはよしとしておこう。

 電車は上総の田園の中を駆け抜けていく。

 車窓から見える景色は、上総から安房へと近づくごとに、小さな住宅街や田畑から、山々としたものへと変わっていった。通る場所によっては、海が見えた。

 房総の海は、手つかずの自然が残されていた海だった。屹立している岩場と空。人工的な東京の海や湘南の観光地化された海とは違い、自然そのものが持つ神秘的な感じがある。


 館山駅へと着いた。

 駅を出ると、いきなりヤシの木が出迎えてくれた。ヤシの木は潮風に揺られ、ゆらゆら揺れている。その向こう側からは、安房の海が見えた。帰りに見に行こうかな。

(やっぱり南国だ)

 南国である。市川や松戸にはよく出かけていたが、ヤシの木なんてどこにも生えていない。だが、上総の木更津からは、ヤシの木が海岸に植えられている。

 駅前の大通りを抜けると、閑静な住宅街が広がっていた。

 家々を眺めながら、時折Google Mapを見つつ、目的地である館山城を目指して歩く。

 家の感じは、屋根の傾斜が緩やかであった。そして、生け垣のある家をよく見かけた。

 屋根の傾斜が緩やかなのは、あまり雪が積もらない土地であることを物語っている。生け垣の家が多い理由については、私もよくわからない。

(あと、肌寒いな)

 少し寒い。今日の気温は17℃なのに。やはり海が近いから、潮風の影響でここまで冷え込んでいるのだろうか。南国みたいな風景なのに、何だか不思議である。


 静かな海沿いの住宅街を通る小路を歩いていると、大通りに出た。大通りからは、漆喰で塗られた白亜の三層の櫓を持つ天守閣が出迎えてくれた。

 ここが、最後に巡る関東の城館山城である。

 館山城には昔から行きたいと思っていた。フォロワーさんが撮った写真でこのお城を撮ったものを見たことがあったので。あと『南総里見八犬伝』と関係があるから少し気になっていたというのもある。だが、資金や時間の問題で、行くのには少しためらっていた。

 去年の5月に関東七都県、そして関東八ヵ国の城を巡りたいという目標を掲げたので、ずっと行きたかった館山城へと行こうとなったのだ。立地も関東の南端にあるから、最後の地にふさわしい。


 小路を歩き続けること十数分。館山城へと着いた。

 館山城は名前が示す通り、山にある。そのため、天守閣に至る道は、少し急な坂道になっていた。

 その坂道を歩いていく。

 館山城は里見氏の城であった。

 前にも話したが、里見氏は河内源氏の一族である新田家の支流である。その里見氏が安房へと入ったのは、室町時代の後期に古河公方の命を承けたことに始まる。

 当時の安房には、神余氏や安西氏といった在地勢力がいた。これらの在地勢力を配下に入れ、里見家は安房を統一した。

 安房を平定した里見家は、戦国大名の先駆けとして、安房国の基礎を整えた。だが、事件はその後に起きた。里見家の分家である里見義尭が、小田原北条氏の力を借り、本家を継いだ兄義豊の系統を滅ぼして嫡流の座を奪ったのである。このときに里見家の歴史は大きく改竄された。

 系統の変わった里見家は、力を伸ばしていき、小田原北条氏と手を切った後、小弓公方と組み、上総南部を手にした。

 順風満帆な里見家。だが、ここで以前味方していた小田原北条氏が立ちはだかってくる。

 安房の里見家と小田原北条氏は、市川にある国府台で2回激突した。特によく知られているのが、2回目の国府台合戦だろうか。

 2回目の国府台合戦では、江戸川を挟んで、安房の里見氏と小田原北条氏の両雄は激突した。

 最初は里見氏が優勢であった。江戸川を渡ってくる北条氏の軍勢を退却させ、おまけに敵の指揮官を二人討ち取った。だが、勝利の美酒に酔っているところを、北条軍は夜討ちをかけた。里見軍は大混乱となり、上総の久留里まで追い詰められたのである。

 その後の里見氏は、同じく敵対している常陸の佐竹氏や越後の上杉謙信と連携し、立ち向かった。だが、どんどん北条氏は勢力を広げていったため、状況が悪くなっていった。そして義頼の代に、長かった安房里見家と小田原北条氏の争いが、和睦という形で一段落したのだ。

 北条氏と里見氏が和睦するまでの間には、いろいろあった。

 まず、織田信長が足利義昭を奉じて、京都へと入った。最初は信長は幕府の再興を目指し頑張っていたが、方向性の違いなどから仲違いし、義昭を追放した。また、信長は「天下布武」を掲げて、敵対している各地の大名や宗教勢力と戦った。

 一番の契機となったのが、長篠の戦いであろう。

 長篠の戦いでは、最新兵器である鉄砲の力で武田騎馬隊を壊滅させた。そして天目山へと武田勝頼を追い詰め、自害させたのである。

 織田軍の勢力は、武田の旧領を席巻していき、その影響力は関東の一部にも及ぶようになっていた。

 だが、また大きな変化が起こる。明智光秀が本能寺の変で信長を討ち取ったのだ。光秀は11日間天下を取ったが、中国地方から4日という物凄い早さで京都へ進軍した豊臣秀吉が、山崎の戦いで彼を追い詰めた。

 以来秀吉の天下となる。秀吉は織田家の敵対勢力を倒していき、東国へと手を出した。上杉景勝や伊達政宗といった大名は、恭順の意を示した。だが、小田原の北条氏政は、反抗的な態度を示したので討伐対象となった。

 このとき小田原城は大量の兵士に囲まれ、兵糧攻めにされた。また、八王子城や鉢形城などでは、大規模な戦闘が行われていた。『のぼうの城』で成田長親が石田三成の水攻めに抵抗した忍城の戦いも、小田原攻めの局地戦の一つである。

 小田原攻めは、氏政・氏直親子の降伏という形で終わった。ここに100年近く続いた小田原の北条氏は歴史の表舞台から姿を消したのである。

 里見家は秀吉に味方した。だが、小弓公方足利義明の遺児頼淳を擁立し、独自の軍事行動を起こしたことが、私的な目的での戦闘を禁じた惣無事令という命令に違反し、里見氏は上総を召し上げられ、安房一国に減封された。

 里見氏は近世大名として安土桃山、そして江戸時代を迎えた。その間に里見氏に不幸が訪れる。義康が31歳という若さで早逝し、11歳の忠義が家督を継ぐことになったのだ。

「11歳の少年」

 このようなことから、忠義少年が大きくなるまでの間、重臣たちがそのサポートに徹していた。

 忠義は徳川家の重臣大久保忠隣の孫娘を妻として迎えた。徳川家の一門と縁戚になる。このことが後々里見家の繫栄ではなく、断絶へと追いやることになる。

 その出来事は、江戸時代に入って少し経った辺りで起きた。大久保氏の一門である大久保長安が亡くなったのだ。

 これをいいことに、長安の主君忠隣と敵対していた本多正信と正純親子は、長安の悪事を告発し、忠隣を失脚させた。告発の内容は、長安が生前金山や銀山を管理する役職に就いていたときに不正蓄財をしていた、というものだ。これが世に言う大久保長安事件である。

 この関係で、大久保忠隣の孫娘を妻として迎えていた忠義にその累が及んだ。そして幕府から、安房から倉吉への転封を命じられた。

 忠義はお家再興を夢見ながら、遠く離れた倉吉の地で29歳という若さで亡くなった。

 忠義には嫡子がいなかったので、彼の死を以って里見氏は歴史の表舞台から消えた。

 これが、里見氏の歴史である。


 話は現代に戻る。

 館山城の坂道には、河津桜が咲いていた。河津桜は海から吹いてくる潮風に揺られている。

(春だねぇ)

 2月の中ごろから終わりに満開を迎える河津桜を見ながら、私は坂道を登った。

 坂道を少し歩くと、道が二つに分かれていた。右は博物館へと行く道、左は天守閣のある高台へと行く道だった。

 迷わず私は左を選んだ。引き続き天守閣を目指して歩いていく。

 坂道を歩いているとき、街頭やミラーに頂上までの距離が示された看板があった。

 私は150メートルのところまで歩いた。だが、あまりにも長く感じたので、近くにあった階段を登って頂上へと向かった。

 頂上には、満開に咲き誇っていた河津桜と天守閣の姿があった。


【前の話】


【次の話】


【チャンネル】


【関連】

この記事が参加している募集

日本史がすき

書いた記事が面白いと思った方は、サポートお願いします!