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【目印を見つけるノート】602. 勧善懲悪というほど白黒つかないですが

『荒野の七人』、テレビで見てしまいました。みんなカッコいいなあ。惚れ惚れ♥️

『荒野の七人』(トレーラー)

この映画のもとになった『七人の侍』も見てみたくなりました。
『七人の侍』(予告編)

何かを、誰かを欲得なく命を賭けて守るという行為に打たれるのですね。ストーリーをあまり書くと、クラシックといえどネタバレになりますので控えますが、根っこはそのようなことだろうと思います。

勧善懲悪というのがあります。
時代劇でいえば、
黄門さまが印籠を出したり、
大岡越前が裁定の場に出たり、
将軍みずから大立ち回りしたりします。
絶対的な力(=幕府)が善の立場に立つのですね。
表だって出てこないものに、表だたずに立ち向かうパターンもあります。
『カムイ伝』や『必殺仕事人』のシリーズ、『眠狂四郎』もそうかもしれません。この場合は立ち向かう主体が表だった存在でないことが多いですね。ダークヒーローというのはこのジャンルにあたるのかな。それに手を付けることで自分もきれいではいられないというアンビバレンツ(二律背反)が生じます。

今はこのような勧善懲悪のお話が減りました。現実はそのような白黒はっきりしたものではないからでしょう。それが浸透しているから、ぱっきり善悪に分かれた内容はあまり顧みられないのかもしれません。

私もお話を書くときにどちらかを断罪して終わるような書き方はしていません。
ただ「目の前に戦うべきものがある」というのは歴史の事実として通例ですので、それを当事者の目で書くようにはしています。どちらが偉いというのではなく。そもそも、歴史を見ていると、どちらかが全面的に悪だということはーーありますがーーないことも多いです。

さきに挙げた『七人の侍』も、野伏せり(のぶせり、盗賊)がどうして生まれたのかなと考えると、敗軍の兵なのです。七人の侍もたいていがそうで、行動の差はあれど元は同じ。映画はフィクションですけれど。

そして、戦いに敗れた土地は収奪されることが多かったという事実を思い出すのです。許されていた、といったらいいのかな。敗れたのが悪い、ということになります。

『荒野の七人』にしても、意地悪く見れば『弱いのが悪い』と見えるかもしれません。話は戦争ではありませんが、テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』という戯曲の舞台は、「弱い者」に容赦がありません。

ただ、ふたつの映画とも、完璧な強者を描いているわけではありません。だから涙腺にくるのでしょう。

さて、
実はお話を書くようになるまで、戦国時代って嫌いだったのです。「人が殺されるばっかりじゃん」と公言していましたから。日本史も得意ではなかったし、もっとも書かないと思っていたジャンルでした。

でも、書いていますね。
どうしたのでしょう。

と、それほど大げさではないのですが、嫌いといってきた時代にも目を見張るような人が多々いることがわかったからでしょう、きっと。それに、ふたつの映画のしめくくりのように、もっとも尊いのは地を耕し働く人たちだということも。
それは、今も同じなのではないでしょうか。

大いに泣けて、学ぶところの多い映画でした。

ここで、映画のテーマ曲を引用しようと思いましたが、トレーラーで流れています。ということで、こちらを。

THE CLASH『The Magnificent Seven』

タイトルは『荒野の七人』の原題と同じですが、映画のことは歌っていないですね。この曲はもっとも初期のラップだという説明がありましたが、何より、ややぼかしている気もしますが歌詞がとんがっていますね。
本当の偉人(Magnificent)はどのような人でしょう。と言われているようにも聴こえます。

それでは、お読みくださってありがとうございます。

尾方佐羽

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