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客観と主観の境界はどこか。

昨日『アサーション』についての記事を上げた。

この中で「まずはじめにできるだけ自分の感情や憶測は避け、課題に対して客観的に説明する必要がある」ということを書いた。

――客観的に説明。

それはまず僕が他人に何かを伝える上で大切なものの一つになるという予感があった。


例えば「お腹が鳴った」という言葉はどちらかを考える。

これは生理現象であって、そこには何の感情もないと思われる。

だからたぶん、生理現象を客観的に捉えていると言える。

「お腹が鳴ったから、なにか食べたい」
こうすると欲求になり、主観になる気がする。

なぜ客観的なことが大切なのかというと、それが相手と自分をつなぐ共通認識になるからだ。

「なにか食べたい」

これだけ言われても、その欲求が何に起因しているのかわからない。

もしかしたら、相手は唐突にカニバリズムに興味を抱いている可能性もある。眼を血走らせているかもしれない。こわい。


では「お腹が空いた」ならどうだろうか。

単純に考えれば、『お腹が空く』ということも生理現象であり、客観の靴を履いているような気がする。

しかしこれだけを聞いても、カニバリズムの疑念は浮かんでくる。まだこわい。

つまり「お腹が空いた」は客観だけど、主観にもなりうるということではないか。

「カニバってるのはあなただけで、私はカニバっていませんよ」という状況も想像に難くない。


ではきっと、何かを伝えるうえで肝となるのは(人間の肝という意味ではなく)、客観的な現象を一度、相手とのやりとりのテーブルに置くということだろう。

テーブルの上、大皿に載せられたメインディッシュ。格子模様がついた、赤みのある分厚いステーキ。

「これなんの肉だ……?」
と訝しむのも、一つの主観で。

その客観に対して抱かれる主観を説明するというセットメニューこそが、自分の気持を伝えるということなのだろう。

それは、概念を一つずつ共通認識としていく哲学にも似ていた。

そして小説にも繋がるものがある。

そんな主観を抱いたという記事でした。



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