アニエス・アンベール『レジスタンス女性の手記』を読む

▼〈許されるのは眼差し、ただそれだけ!〉とアニエスは綴った。

▼東洋書林から出ているアニエス・アンベール『レジスタンス女性の手記』は、出版された時、なぜもっと評判にならないのかと不思議に思った本の一つである。2012年刊行。石橋正孝訳。3800円+税。

筆者はこの本の表紙をみて「ジャケ買い」した。寝る間も惜しんで読んだ覚えがある。ナチスに抵抗したフランスの人々の様子を知るための、第一級の、極めて貴重な当事者の記録である。

▼アニエス・アンベールの略歴は以下のとおり。

〈1896-1963、フランスの美術史家、民族誌学者。1937年、国立民族民芸博物館の上級研究員。第二次世界大戦中、「人類博物館ネットワーク」の一員として反ナチス運動に参加し、地下新聞「レジスタンス」紙発行に関わったため政治犯として逮捕、ドイツに抑留される。1949年に戦功十字章を受章。〉

▼1940年6月、パリが陥落した時のとても有名なエピソードに、やはり本書でも言及していた。大半のフランス人があきらめ、絶望した時の、かすかな希望。その声はラジオから聞こえてきた。適宜改行。

ああ! 知ること、なにが起きているかを知ること! 友人たちはどこにいるのか?彼らと再会する時が来るのだろうか? 彼らはなにを思っているのか? わたしと同じように苦しんでいるのだろうか? フリードマンが主張するように、わたしが「大げさに考えすぎ」ているとすれば、それはどの点でだろう? 

ラジオのつまみをひねる。針はロンドンに合わせられている。偶然フランス語放送にぶつかったのだ。名前を聞き損ねたが、フランスの将軍が呼びかけを行うという。あまりラジオ向きではない、小間切れの、断定的な話し方で、将軍は、自身を中心に結集するよう、戦いを継続するよう、フランス人に求めていた。

わたしは息を吹き返した。もう永久に死んだと思っていた感情がわたしの中によみがえった。希望が。

それでもひとりはいたのだーーたぶんそのひとりだけかもしれないーーわたしの心が絶えず繰り返していたことを体現する男が。

「まだ終わりじゃない」。そして、わたしは狂女のように庭を走り抜け、息を切らせて、老大尉に話しかけた。彼とは今まで一度も口をきいたことがなかったのだが、この際だから仕方ない、このニュースを彼に知らせねばと思ったのだ。「大尉、大尉、ロンドンからフランスの将軍が声明を出しましたよーー名前は知りませんがーー軍は彼を中心に再結集しなければならない、戦争は再開される、追って指示を出すっていってました」。

 老大尉は疲れた目でわたしを見上げて、次のように応じた。「そりゃ、間違いなくド・ゴールだよ」〉(15頁)

▼ド・ゴールのラジオによって希望を捨てなかった人々が、ナチスに対する抵抗を続ける。しかし、現実はそれほど劇的ではない。アニエスが話しかけたこの老人は、家族を養わねばならない。

〈「そりゃ、間違いなくド・ゴールだよ、将軍の‥‥‥。そう、ド・ゴール、おかしな野郎さ、奴(やっこ)さんのことなら知らん者はおらん。やれやれだ! そんなことは一から十まで戯言(ざれごと)もいいところだ。わしは予備役でね。パリでやっていた商売をもう一度始めるつもりなんだ。家族を食わせなきゃならんのでね‥‥‥。わしは‥‥‥ド・ゴールか、いかれた野郎だよ、まったくな‥‥‥」。

 その晩、わたしが自殺せずにすんだのは、その「いかれた野郎」のおかげだった‥‥‥。もはや世界中のなにものにも消せない希望をわたしは彼からもらったのだから。〉(15-16頁)

〈結局のところ、この傀儡政権もいずれは終わる。ラジオがわたしの唯一の楽しみだ。七月十四日、ロンドンからロマン・ロランの『七月十四日』が放送される‥‥‥。なんという慰めだろう! 

パリではドイツ軍のビラが貼られた端からびりびりに破られ、剥がされているという情報を今朝になって知る。

パリ市民は早くも抵抗を始めている‥‥‥。

ここで心は決まった。家に帰ろう!〉(17頁)

▼抵抗運動といっても、それは些細なものだった。しかし、些細だからといって価値がないわけではない。そもそも、自分が似たような状況になった時、何ができるだろうか?

〈(精神的な)治療法はただひとつ、同志を結集すること。

人数は十人程度、それ以上はだめ。

決まった日に集まって、情報を交換し、ビラを作って配布し、ロンドンのフランス語放送の内容をまとめる。

その程度のことをしたところでどうにもなるものではないとわかってはいるけれど、それで精神の安定を保てるのだったら御の字だ。わたしたちは十人全員が一致団結し、自分たちの置かれた状況をはっきりさせよう。ひと言でいえば、わたしたちは、精神衛生のために集まるのだ。〉(21-22頁)

▼本書の内容は大きく二つに分かれる。レジスタンス運動を描いた最初の数十頁。そして囚われの身となった後の長い後半。

後半の、囚われの身となった後の出来事は、驚くべき記憶力で復元された。解説によると、アニエス・アンベールは解放された翌日、1945年4月初旬にはこの手記を書き始めたそうだ。脱稿は1946年1月。手記の内容は〈経過した時間に覆い隠されたり、曇らされたり、さらには歪められたりする暇がなかった。〉(314-315頁)

捕まった後の、刑務所や紡績工場での日々の記録は、読んでいて、徐々に息苦しくなっていく。彼女が精神的に、肉体的に追い詰められていく様子が、丁寧に描かれているのだ。〈ほかの人たちの間に生還したら、自分たちが見たことを口にはすまい、この苦しみを理解できる者はいまいから。〉(206頁)

▼そんななかで、希望を感じさせる描写もある。そのひとつ。

〈今日、新入りが到着した。彼女は二十歳で、とても魅力的‥‥‥。こういう顔を眺めるのは実にいいものだ。ノラはオランダ人、お父さんはハーレムの近くでチューリップを栽培している。反ナチズムのドイツ人と婚約していた彼女は、彼の逃亡を幇助(ほうじょ)した。すてきな笑顔の持ち主で、ドイツ語とオランダ語を混ぜこぜにして話す時、その青い目はきらきらと輝く。

 「ヒトラーはわたしの国、家族、恋人を奪いました。でも、わたしの考えだけは絶対に奪えません‥‥‥。わたしの考えは自分のためにとっておきます‥‥‥

 この素朴な娘はまるでデカルトのような話し方をする。〉(163頁)

▼解放後の描写では、ドイツ人がたどった苦しみに思いを馳せる場面が印象的だ。

〈ドイツ人家族の受難話を聞かない日はない。ヒトラー・ユーゲントにはいろうとしなかった子供たちが受けたいじめは、両親にとって身を切られるような責め苦だった。

非ヒトラー支持者(反ヒトラー主義者とはいわない)の人生は毎日が落とし穴だらけだった。カトリック、民主主義者、共産主義者そのほかの反ナチズムの人々についていえば、全世界が彼らの苦しみをおぼろげに理解し始めている。

至るところで、「わたしたちはヒトラーが嫌いだった」という叫びを耳にする。この信仰告白は嘘ではないことが多い。そうであるならば、わたしとしては、なぜ彼らは自分たちが憎んでいたと称する相手を厄介払いしなかったのか、と問わざるをえない。

「そんなことはできなかった! 手足を縛られていたのだから」。「あなた方はわたしたちよりも自由ではなかったというつもりか?」とわたしは応じる。状況が異なっていたことはよくわかっているが、わたしたちなら、ヒトラーの支配下に長らえるより、いっそ命を賭けるほうを選んでいたと彼らにいってやる喜びを決して逃さない。(中略)

「奴らを痛い目に遭わせてやらねば」。その通り、ナチズム信奉者たちは痛い目に遭わせてやらなければならないし、多くの場合、もはやぐうの音も出ないようにしてやらなければならない。

だが、それ以外の人たち、すでにあんなにも苦しんだドイツ人たち、無気力で、抵抗する術もなければその可能性もなく、解放されるためには最悪の戦争が到来し、外国に占領されるのを待つしかなかったという残酷な宿命を背負わされた人たち、彼らを「痛い目に遭わせる」べきではない。

さもなければ、新たなヒトラーを生み出し、悲劇的であると同程度に愚劣な「復讐」の念を掻き立ててしまう。(中略)

ドイツ人には強い姿勢で臨まなければならず、それは必要であり、不可欠ですらあるが、正義が無節操に行われるようなことがあってはならず、無分別だけは絶対に避けなければならない!‥‥‥〉(301-302頁)

▼この最後の箇所、〈正義が無節操に行われる〉〈無分別〉という言葉は、時を超えて普遍的な指摘だと思う。正義は、無節操に行われたり、無分別に行われてはならないのだ。

「無節操な正義」というものがあるということを、今の日本社会でも感じることが多い。「無節操な正義」を振り回す人は、じつはとても「受け身」だ。主体性に乏しく、何かの「奴隷」になって安心しており、要するに自分が奴隷になっていることに気づいていない、という悲喜劇を、ネットの中でも、外でも、頻繁(ひんぱん)に目にする。

▼ナチスの狂気に、理性で立ち向かった一人の女性の記録。「どうも今の世の中、息苦しいなあ」と感じている人がいれば、この本を読むと、息苦しさを抜け出すヒントが見つかるかもしれない。

(2019年1月31日)

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