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哲学エッセイ | 悩み事を人に話すと楽になるのはなぜか?

 この前、noteに哲学者・國分功一郎先生の「哲学の先生と人生の話をしよう」の感想文を書いた。その本の中で「人に話すと楽になること」(pp.209-215)について言及されていた。
 悩み事があるとき、ただ人に自分の話を聞いてもらうだけで、気分が少し楽になる。國分先生は40歳を過ぎる頃にはじめてそのことを知ったとおっしゃっている。
 自分でよく考えれば解決できる場合が多い國分先生にとっては、新鮮な発見だったようだ。しかし、なぜ、人に話すと気持ちが楽になるのか?、ということに対する「哲学的な解明」はなされていないとのことである。
 ネットで検索すれば、それらしい解答がありそうだが、あえて「人に話すと楽になる」理由を自分で哲学してみたい。

 この記事では、自分が話したことに対する相手の「アドバイス」に関しては問題としない。あくまでも「悩み事を人に話して聞いてもらうだけで、気分が軽くなるのはなぜか?」ということに論点を絞って考えてみたい。


 何か悩み事があるとき、それは得体のしれない漠然としたものである場合と、なすべきことは分かっているのだが、なかなか踏み出す決断ができない場合とがある。

 どちらかというと、私の場合、人に話したくなるのは、悩みが漠然としているときである。悩みが漠然としているときは、自分でも自分の悩みがいったい何であるのか?ということが把握できていないことが多いのだろう。

 私も國分先生と同じで、人に悩みごとを相談するよりも、まず自分で何とかしようと考える。

 しかし、一人で考えるにせよ、誰かに相談するにせよ、問題を解決するためには、問題自体を客観視する必要がある。自己内対話にせよ、第三者的な視点が要求される。

 人はみな、言葉を使って思考している。だから、相手に理解してもらうためには、自らの問題を言語化することがまず最初に来る。
 言語とは、万人に開かれたものである。個人の内にある間は、モヤモヤしていたとしても、もう一人の自分あるいは他人を説得するためには、そのモヤモヤしているものを言語に結晶化しなければならない。
 他人に話を聞いてもらうとき、おそらく一人で考えているときよりも、ヨリ客観的な言語に自分の悩みを翻訳しなければならないだろう。
 モヤモヤした状態とは、極めて不安定な状態である。そして、不安定な状態というものは、ヨリ悩みを深刻化させる。 思うに、他人を意識すると、自分の悩みを理解してほしい気持ちが、一人で考えているときよりも、よりクリアな言語になりやすいのではないだろうか? 悩みを言語に置き換えていく中で、すぐに解決できるかどうかはさておき、モヤモヤした不安定な悩みが「言語」という、ある程度安定化したものに変化していくと考えられる。
 いったん言語化されれば、自分の悩みは、他人にも共有されうる悩みになる。言語化というプロセスは、得体のしれないものを「得体の知れたもの」に変えるプロセスに他ならない。それが、悩み事を人に話すと楽になるということなのだろう。
 ドイツ語のことわざに、Geteile Freude ist doppelte Freude und geteilter Schmerz ist halber Schmerz. というものがある。 

「喜びを共有すれば二倍の喜び、痛みを共有すれば、半分の痛み」。

私なりの答え

 他人に悩み事を相談することは、モヤモヤした不安定な悩み事を、ある程度普遍性をもつ「言語」というものに置き換えることで、他者と共有されうるものへと昇華させるプロセスであり、そのプロセスそれ自体が自らの気持ちを和ませる効果を生んでいるのではないか?


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