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【短編小説】 ブランド


海沿いの道を家に向かって車を走らせ、うねる波を見つめながら考えるのは、帰って最初に飲むビールのことだった。帰ってもすぐには食事をせず、まずは冷えたビールを飲むのがつねだった。翌日の仕事のことが心配で、夜はめったに食べなかった。

夜は事業レポートを見直したり、翌日取引先に話すべきことをメモしたりして過ごした。床についたあとも暗闇のなかでプレゼンは続いていた。夢のなかなのか、覚醒状態の想像なのか、暗闇のなかで判別するのは難しかった。

ひとりきりのプレゼンはときに何時間も続いているような気がした。そんな日には世が明けても、ちっとも眠れた気がしなかった。

そして、翌日実際にプレゼンをしてみていつも気づく。暗闇のなかで、ひとりきりでするプレゼンのほうが数倍うまく自分の考えを言葉にすることができていることに。



担当している化粧品ブランドはECサイトでの価格競争に巻きこまれた結果、特売を何度も打たざるを得なくなった。値下げして売られた商品がすぐに別のサイトで転売され、ブランドイメージは損なわれた。一般的には、高級ブランドは製品の価格を維持し、品質と独占性エクスクルーシビティを保つことで、ブランド価値を保持しなければなならない。しかしそれだけでは、ブランドは生き残ることができない。

ECサイトとの契約を見直したり、製品が再販されないように新たな規制を設けたりしても無意味だろう。そんなことをしたところで、死にゆくブランドを延命していることにしかならない。生き残る、、、、のではなくて、たくましく生きるための道を模索しなくては。わたしが今回提案するのは至極当たり前のことです。ブランドがどうしてブランドたり得るのかということを今一度考え、再び実行に移す必要があるだろうと考えるからです。製品の独自性と、付加価値を、今一度強調するのです。

スライドを次に送った。

真っ暗な会議室。プロジェクターのまばゆい光の先に聴衆が何人か座っている。表情は見えない。

ブランドのストーリーを、もう一度語り直しましょう。テレビや新聞、映画をつかうのではなくてもっと、若者に伝わりやすいメディアで、若者に伝わりやすい方法で、語り直すんです。われわれの製品が提供することのできる体験とブランドのストーリーをうまく噛みあわせることができれば、消費者は製品とブランドの価値に共感を示してくれるでしょう。ストーリーは、消費者とブランドに感情的なつながりをもたらすでしょう。また、SNSのような双方向性のあるメディアを利用すれば、よりパーソナライズされた商品やサービスを展開することもできます。ブランドと消費者個人個人との直接的な関係を重視していくことがこれからは、なおさら重要になるでしょう。



プレゼンが終了して会議室の電気が点くまで、自分はいつも通り暗闇のなかで、ひとりきりでプレゼンをしているんだと思っていた。部屋全体が照らされて、明るさに目がくらんだ。プレゼンに対する質疑応答。でっぷりと太った取締役クラスの人間が質問未満感想レベルの発言しているのを聞いてやっとこれが現実世界でのプレゼンなのだとわかった。



海沿いの道を家に向かって車を走らせる。うねる波を見つめながら考えるのは、帰って最初に飲むビールのことだった。そして、その夜の食事のことだった。ひさびさに夕食をともにとろうと、妻に連絡をした。新鮮な白身魚を一尾買った。それから上等なシャブリを1本。ラジオをかけるとクライスレリアーナが流れていた。ロベルト・シューマンが1838年に作曲した8曲からなるピアノ曲集。シューマンはこれをショパンに献呈した。すぐにウラディミール・ホロヴィッツの演奏だとわかった。緩急のことをたいへん気にして曲を配置したシューマンの意図をしっかりくみとっている。いい演奏だ。ハンドルをきつく握りしめながら海岸線を下った。信号をいくつか越える。ガソリンスタンドを改装したカフェがある五叉路を右折すればもうすぐ家だ。シューマンのピアノ曲は子供の情景をよく聴くが、これはホロヴィッツよりもマルタ・アルゲリッチの演奏のほうが好きだ。シューマンはこの曲にえらく感動を示したフランツ・リストは、週に2、3回は自分の娘のために子供の情景を弾いているのだと、シューマンに手紙で打ち明けている。

この曲は娘を夢中にさせますし、またそれ以上に私もこの曲に夢中なのです。というわけで私は、しばしば第1曲を20回も弾かされて、ちっとも先に進みません。

曲自体の魅力を技巧によって最大限に引きだすのはホロヴィッツだが、しかしマルタ・アルゲリッチの演奏でこの曲を聴いたほうがより子供の情景を思い起こすことができてしまうのだ。


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