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解説 断食とは何か(第二説教集4章1部) #104

原題:An Homily of Good Works.  And first, of Fasting. (善き行い、特に断食についての説教)


第二説教集第4章に入ります。この章は二部構成です。まずは第1部の解説です。テーマを聖句で言えばこれでしょう。

花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が取り去られる日が来る。その日には、彼らは断食することになる。(ルカによる福音書 第5章34~35節)

第一説教集の第5章も「善き行いについて」でしたが、この第二説教集の第4章は「その中でも断食について」説かれているところであると言えます。

第1部のポイントは次の5点です。
①御恵みがあっての善き行い、二つの断食
②旧約世界における断食
③新約世界における断食
④目的によっては断食も悪しき行いとなる
⑤まとめと短い祈り

「私たちは神の作品であって、神が前もって準備してくださった善い行いのために、キリスト・イエスにあって造られたからです。それは、私たちが善い行いをして歩むためです(エフェ2・10)。」

冒頭のこの聖句にあるとおり、神の作品であるわたしたち人間は、御心に適った善き行いを為すことが求められます。ただし誤解があってならないのが次の点です。

善き行いによって御恵みがもたらされるのではありません。御恵みによって善き行いを為すことができるのです。

人間が善き行いを為すのは神の御恵みによるものである。この前提に立って、私たちは善行の何たるかと、その目的とするところを覚えるべきと説かれ、その善行のなかのひとつとして断食があるということが述べられます。断食には外面的な肉の断食と内面的な心の断食の二種類があるとされます。

外面的な断食とは、肉や酒といったおよそ口に入るものすべてを、つまりこの世にある美食の喜びや楽しみを節制することを指します。

そしてこのように外面的な断食が定められていた上に、善良な人々は機会を得て内面的な断食を行いました。(略)心から悲しみにくれるときに断食という形をとり、粗末な喪服を着て塵や埃にまみれて、地面に座ったりそこに横になったりと目に見える身体の動きでそれを表します。

前者は国や民族の全体で行う公的なものであり、後者はそうではない私的なものとも言えます。これらの例として旧約聖書からダビデやエステルなどが紹介されます。そして新約聖書からも断食の例が出されるのですが、まずこのように述べられます。

私たちが断食をするべきであるというのは聖書の中で詳しく説かれており、これ以上ここで詳しく述べるまでもなく明らかです。ただ疑問があるとすれば、断食をする間わたしたちは肉や酒の一切を遠ざけるべきかどうかということでしょう。

これはいわゆる外面的で公的な断食がともすれば形式主義に陥ってしまうということへの懸念と批判の表れと見ることができます。キリストが来臨されたのちの新約世界の断食はより内面的で私的なものであるということが、次の言葉の引用によって示されます。

「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食させることがあなたがたにできようか。しかし、花婿が取り去られる日が来る。その日には、彼らは断食することになる(ルカ5・34~35)。」

何事にも時がある。断食も同じである。そうであるからこそ、断食の意味をはき違えてはならないということが強く述べられます。

それ自体はそれとして行われるものの、それが目指すところは善とも悪ともなります。善い目的を持てば断食は善き行いとなりますし、目的が悪であると断食もやはり悪しき行いとなります。心を決めて断食をしさえすればそれが善き行いとなって、それをする人が全き人となって天の国に至るなどと考えるのは悪魔的な考えです。

このうえで、神殿に上ったファリサイ派と徴税人の喩え(ルカ18・10~13)が引き合いに出され、断食の在り方についてこう説かれます。

義とされるのはそもそもわたしたちの功績によるものではなく、神の御業でしかありません。週に二度も断食を行うなどいろいろな行いをしたところでたかが知れていて、この世の尺度に照らして善であり聖であるように見えているだけです。

定められたところを超えた断食をして神に喜ばれようとするのは、人間が自らの力で自らを義としようとする傲慢な罪のほかの何物でもない。不信仰な行いが生み出すのは悪でしかない。このことが強く説かれています。この上で断食の要点が三つに整理されています。

第一には肉体を打ち叩くことであり、そうすることによって肉体は淫らなものにならず、穏やかになり魂に従いやすくなります。(略)第二には、魂が祈りに対して熱誠に溢れるようにあることです。(略)第三には、わたしたちが罪を認めて神への信仰を告白し、心の内にある悲しみに触れているとき、断食をして身体の苦痛にかかわる悲しみを嘆くことによって、神の御前にあってその大いなる御稜威に慎ましく従っていると示すことです。

このように、断食とはどのようなものであり、何のために行わるものであるのかが説かれ、結びの短い祈りをもって、第1部は終わります。


今回は第二説教集第4章「善き行い、特に断食についての説教」の第1部「断食とは何か」の解説でした。次回はこの試訳をお届けします。一度でお届けするには長いので、次回と次々回にわけて投稿します。


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