人は親を「老いるわけじゃない、病気になるわけじゃない、死ぬわけじゃない」と思って、親のことを無視して生活する。しかしわが親も無常なのです。病気で倒れたり、老いて寝たきりになったり、また亡くなってしまったりすると悲しむのです。何もしてあげられなかった、親孝行できなかったと、悩むのです。真理として心の底から「諸行無常」であることを知っている人に限って親孝行は後回しにできるものではないのです。親の面倒をみます。 『一分で読むブッダの教え』第3章 人生の悩みは、仏教で解決する《子
我々は世間で何者であっても、母親の前では子供です。それが親孝行ということなのです。ですから、素直に母親の前ではしっかり子供に戻りるんです。一言でいえば、母親に甘えたりするのがいちばんいいんですよ。お母様は大変かもしれませんけどね。しかし、それで母親は精神的に元気になります。明るくなります。最後まで親を悩まさず、明るく生きてもらうことが親孝行だと思いますよ。 『一分で読むブッダの教え』第3章 人生の悩みは、仏教で解決する《子育てと親孝行》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出
年をとることと、病気になることは避けられません。元気な人にとっては見ていられない。それでも「では、どうすれば?」と自分に聞くべきなんです。特に子供たちは自分の両親を見ないんですよ。 頭の中に、力強い母親、力強い父親というイメージがあるんですね。そうではなく、イメージではなく実際に生きている生(なま)の父親・母親を見てほしいんです。そうするといかに弱くなっていくかがわかる。 自分が小さいとき、あれほど力強かった父親が、今はもう自分にも抱き上げられるくらい縮んでしまった
親というのはおかしなもので、ただ「お母さん、お父さんのことが世界一好きですよ」と子供が言うだけで、充分なのです。散々苦労をかけられた子供でも、その一言でぜんぶの苦労を帳消しにしてしまうのです。 『一分で読むブッダの教え』第3章 人生の悩みは、仏教で解決する《子育てと親孝行》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【ありのままの自分 アイデンティティの常識を超える (お釈迦さまが教えたこと 4, 2007年) p129】
親孝行というのは、親を喜ばせて自分を満足させるためにあるものではありません。自分のすべては借り物であり、何者でもない。周囲の人に支えられて生きてきたのだ ― ― そういうことを自覚するために恩返しをするのです。 親に喜んでもらって、自分も嬉しくなるために親孝行していては駄目です。自分の人格を直すために、自分が善い人間になるためにやらなくてはいけないのです。自分が嬉しくなるための親孝行なら、結局一生をかけて親孝行をしても、人格者にはなれません。 親を喜ばせたくて親孝行
初期仏教では、日本の仏教と違って、遺族が自分で立派な人間になって、しっかりと人々を助けて生きなければ供養にならないのです。 ですから、子供に先立たれ、死んだその子をすごく心配に思うなら、人々を助けたり社会に貢献したりして善いことをして生きること。そうすればその衝動になったのは我が子の死ですから、子供の供養にもなるという考えです。 一人ひとりが独立している生命ですから、子供は子供の業を持っているし、親は親の業を持っています。子供に長寿になる業がなかったり、親のほうに子
家族はいくらけんかしても心は通じ合っているから、社会では強いのです。 しかし、自立するときはそれでは駄目です。親の責任というのは自立させることであって、それこそが愛情なのです。「うちの子はもう手がかかりません、一人で勝手にやっていますよ」と、自立して離れていることを自慢するくらいがいいのです。 歩き出すころから頑張らないと駄目だと思います。お母さんがまだ小さい子供に「一人でできるでしょ? 」と言いますね。あれはすばらしい言葉です。本当はまだ一人でできないことでも、子
教育とは生き方を教えることです。だから、お箸のもち方や、ご飯をこぼさないようにすることや、「いただきます、ごちそうさま」と言うことを、親が教育をしているのです。それは生き方を教えていることです。 学校にあがってからも、教えるべきなのは「生き方」です。ずーっと死ぬまで、どのように生きるべきかと教えるべきです。人生のある時期は結婚する、ある時期は子育てをする、ある時期はほかの何かをする。 人生はプロセスだから、無停止だから、ダイナミズムだから、過ぎた一日は戻ってこないの
子供にとって理想的なのは、ぶらぶら寄り道をしながら、遊びながら、ふざけながら、ゆっくり帰るようなスタイルです。 子供たちが当然知っている、学校から家までの道を、自分の考えでいろいろ遊んで帰るのです。学校から出たら、グループで走っていって、公園で遊んだりします。そのうち、またほかのグループがあると、そっちでも遊んで、母親が怒るギリギリのところで家に帰るのです。そういうのが、子供の美しい生き方です。 『一分で読むブッダの教え』第3章 人生の悩みは、仏教で解決する《子育てと
自己中心的で、わがまま好き勝手で、他人に対して何の思いやりもない人間にとっては、子供が生まれることは革命的な出来事です。人格が変わるのです。自我が薄くなるのです。慈しみ、思いやり、やさしさなどの性格が表れるのです。この点では、心の成長です。 愛着でなく、慈しみで、憐れみで、献身的に子育てすることは、人格改良に役立ちます。仏教はこれだけは評価します。 親が慈しみで子育てをして独立させること、子供は親を尊敬すること、その両方が、親子ともどもの人格改良の糧になります。子孫
我々大人が、子供たちに教えてあげるべきことは、「あなたは自分の幸福のために、何を他人に与えているのか」ということです。 この「自分の幸福のために」という言い方が必要です。これが、相互依存ということです。 ただ単に「あなたは他人様に何をしてあげているのですか? 」と聞いても、あまり言葉に力がありません。「なぜ、何かをしてあげなくてはいけないの? 」ということになるからです。 我々は子供たちや若者に対して、社会に貢献をするいろいろな方法、貢献する技術を教えるべきです
「私は何をすればいいのか」「自分はどんな仕事に向いているのか」、これは現代人、特に若い人によくある悩みです。 たとえば、高校を決めるとき、大学を決めるとき、仕事を決めるときなどにどうしたらいいかを悩むぶんには大きな問題にはなりません。それぞれの時期に二週間くらい悩めばいいのです。 そうではなくダラダラといつまでも悩み続けるのなら、これはかなり問題です。いったいなぜ、そうなってしまうかというと、小学生の時期に親や先生たちが、正しい生き方とは貢献する生き方だ、という道徳
我々は、宇宙の法則を自分の好き勝手に変えることはできません。 私の人生はこうであるべきです、私に生まれてくる子供はこうであるべきです、障害のある子など産まれるはずがありません、などと考えているのは傲慢(ごうまん)すぎ、ということでしょう。 そんなに傲慢に思うならば、「冬は寒いから春のようになってほしい。夏は暑すぎるから秋のようになってほしい」となぜ思わないのですか? しかし我々は、冬に文句を言うのではなく、冬に耐えられるように適応する。夏に文句を言うのではなく、夏に
育て方とか抱き方とか、あまり本で勉強してしまうと、現実から離れてしまいます。 子供の抱き方はそれぞれの子によって違っていて、決まった抱き方はありません。子供は母親を幾人も知っているわけではなくて、産んだ人しか知りませんから、その人の抱き方が正しいと思います。 ですから本はいりません。自分が産んだ子だから自分の抱き方が一番正しいのです。 『一分で読むブッダの教え』第3章 人生の悩みは、仏教で解決する《子育てと親孝行》アルボムッレ・スマナサーラ サンガ出版【いまここに
子どもがなにかしてしまったとき、つい感情的になって「こら!」と言ってしまいますが、それはアウトです。子どもの脳は成長しません。 脳は楽しいとき成長するものです。嫌な気分になったら脳が萎縮します。みななんの躊躇もなく、子どもを叱るのですが、子どもが嫌な気分になって脳が萎縮することを気にしないのです。叱るのは親の務めですが、脳が萎縮しないように楽しみを、ユーモアを入れたほうがよいのです。 子育てに限らず、人生全体にユーモアを入れて生活すれば、うまくいくと思います。短い人
母親が執着して子供を育てるということは、恐ろしい罪を犯すことにほかなりません。いわゆる個人の人権を侵害していることなんです。いわゆる個人の人権を侵害しています。 人間はみんな独立しているんだから。子供は一瞬たりともけっして、自分を母親の所有物と思うことはないんです。なのに母親が勝手にそう思ってあれこれ言うと、子供はすごく人権侵害を感じるんです。 そこまで知識がないから分かっていないだけで、人権侵害、つまり生命の尊厳を侵害されているということはものすごくどんな生命も敏