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"自分は何者なのか"という問いの答えを見つけた話。

僕はここ数年“自分は何者なのか”とか“何者かになれるのだろうか”とかいう問いに悩まされながら生きてきた。その問い対して自分なりの結論に至ったのでnoteに書き起こそうと思う。

その問いの始まり


N高のネットコースだった僕は自由な時間がたくさんあって、障がい者を支援するNPO法人の活動に参加したり、デザインコンサルやFab系の会社でインターンをしたり、渋谷にある拡張家族Ciftに行ったりしていた。

身の回りには社会で何かを成し遂げていたり、何か実績がある“何者かである大人”が多くて、彼ら彼女らの言動を観察したり、話を聞いたりして、一緒にいるだけで刺激的で自分の視野が広がった。

様々な業界でクリエイティブな生き方をしている人たち。知らない職業、知らない業界、知らないライフスタイル、知らない考え方、知らない世界を見ることができた。もし都立高校に通っていたらきっと知ることのないいくつもの世界線があることを知覚できたことが学びだった。

その活動的な日々の中で新しい人に出会うたびに、こういう類の質問をされる。「君は何をしている人なの?」

僕はそう問われて固まった。何も肩書きはない。ただ今までの学校生活とは違う生活しているだけの若者だった。いろいろなことをかじってはいたが、自分の内側から「僕はこれだ。」と言い切れるものがなかった。自分で自分を定義できるものがない。

だから、そういう質問をされたら、N高生だとか、インターンしているだとか、回答に困ったときは、何をしているかではなく、興味ある社会問題を答えたりした。もはや質問の回答になっていないが、返事をするのが精一杯だった。

自分で自分を定義できない苦しさを鮮明に感じ始めたのはその頃で、その問いはいつも付き纏ってくる。大分県に移住しても、東京にいても、どこにいても人と関わる中でどうしても楽しくない影を落としてくる。

その問いはそもそもなんなのか。鬱陶しさとその問いに答えられない自分への憤りで爆発しそうになる。いつしかその問いに答えることではなく、その問いそのものについて考えるようになった。

“自分は何者なのか”という問いの本質

大人:「え?N高生?へ〜。あっ!もしかしてメルカリにインターン行ったすごいN高生って君?」
自分:『いえ...(そんなすごい人じゃないけど...)』

大人:「N高校?初めて見た!なんかプログタミングとかすごいネットの高校だよね。君もそういうの得意なの?」
自分:『いえ...プログラミングはやってません。』

大人:「高校生なんだ〜!若いのにすごいね〜。君はなにをやってる人なの?」
自分:『インターンしてます。それ以外は特にこれといって何も(色々かじってるけど実ってない)』

大人:「今から活動してたら将来楽しみだね〜。君は何者になりたいの?」
自分:『何者に...。』

出会う大人たちは皆んなこんな質問をしてくる。N高生であることも、インターンをしていることも、自分を究極的な意味で定義してはいない。そうして、いつしか“自分は何者なのか”と強く悩むようになった。

その大人たちがしてくる質問というのは、相手を知って他者と交流をするための行為であると同時に、もう一つの側面として、その人物は、何をしてきて、何をしていて、何を成そうとしているのか、つまりは、どんな価値があるのか、またはどんな価値に期待できるのか。それを測定するための質問である。

自分の価値を問う文脈で考える“自分は何者なのか”という問いに対して「僕は『村上利光』という名前のついた人間だ。」と答えるのは回答として不自然である。

ここでいう価値とは有用性のことであり、つまり役に立つかどうかである。他人の価値を測定する言動の根底に流れる思想は、資本主義だ。

資本主義の本質というのは、価値があるかどうか。有用であるかどうか。役に立つかどうか。それを常に考える思想である。自分の役に立つかどうか。会社の役に立つかどうか。社会の役に立つかどうか。自分という軸なのか、会社という軸なのか、社会という軸なのか、その軸が移り変わるだけで、価値があるかどうかを見ることは変わらない。

つまり、“自分は何者なのか”という問いの本質とは、社会において自分は何の役に立つのか?を考える行為である。

不幸な問い

資本主義的な文脈で向き合うこの問いは、忌まわしくも僕たちの生きている正当性にまで干渉してくる。

“何者でもない”というのは、有用ではない、価値がない、生産性がない、極端に言えば“何の役にも立たない人間”だと言い換えることができる。

生産性がない人間は会社をクビにされる。子供でもわかる当たり前の常識だ。社会はそういう仕組みになっている。有用ではない人間に居場所はないというのがこの社会のあり方である。

資本主義社会は、生産性がない人、有用ではない人、価値がない人を歓迎しない。だから社会で居場所を見つけるためには、価値ある人間であらなければならない。ただ生きていることは許されない。

そうして憲法で保証された権利にしがみつかなければ、資本主義によって生きることの正当性まで否定されてしまう。

ただ生まれてきただけなのに、社会によって無用の人間と感じさせられることがどれだけ不幸なことか。反出生主義の人の気持ちがわからなくもない。

資本主義という物差しで自分の存在している正当性を決めるのならば、誰にも必要とされず、何の役にも立たない状態は、生きている正当性がないことになる。
高齢者や障がいを持つ方など、福祉の対象である社会の一部の特例を除いては、役に立たないのに、生きていることがそもそもの間違いだと、そう目に見えないものに脅されながら生きている。

生きている正しさを他者に肯定されない若者が、生きている意味がないと感じるのは至極真っ当な感覚ではないか。「何の役にも立たないのなら自分が存在している意味はない。」「誰にも必要とされないのなら死んでしまおう。」と考え、容易く自殺をしてしまう若者の気持ちが痛いほどわかる。

有用性という相対的なもので、人間の生きる意味を決めるならば、人間の生きる意味も相対的なものになる。
「より有用な人間になれば、より生きる意味がある。より無用な人間になれば、より生きる意味はない。」

人間の生きる意味というのは、他人と比較できる量的なものではない。そして、比較していいものでもない気がする。

生まれた時から競争することを強いられる世界で、いつも生きていることの正しさを否定されかねない資本主義の奔流。それを掻き分けて生きる選択肢しか若者には与えられない。(生まれながらにして裕福な家庭の若者は除く。)僕が社会に感じる閉塞感はそこに由来するものなのかもしれない。

生きる正しさ

人生を振り返ってみるといたるところに、資本主義の片鱗を感じる場面がある。

小学校の卒業文集では将来の夢について書かされ、高校受験の志望理由で塾の先生に「将来は社会の役に立つ人間になる」みたいなことを書けば印象が良いと教えられた。就活生もいかに自分が有用な人材であるかをアピールして生きるために戦っている。

幼少期に「将来の夢はなんですか?」「将来は何になりたいの?」と優しく聞いてきた大人たちは、子供の明るい未来を期待している。そして子供たちに自らの将来と向き合って、自分の人生を大切に歩んで欲しいと願いを込めように質問をしていたのだろう。

その曖昧な質問に対して子供たちは無邪気に「スポーツ選手になりたい」とか「お花屋さんになりたい」とか何かの特定の職業を答えるが、どうして労働をすることが将来の夢なのだろうか?どうして労働者になることを高らかに宣言することが、立派な志なのだろうか?労働は手段でしかない。

「将来の夢はなんですか?」と問われて「特定の職業に就くこと」を答えるのは、「果物はなんですか?」と問われて「りんごです。」と答えているようなもので、りんごも果物だが、果物はりんごだけではない。十分条件しか満たしてない答えをするように誘導している何かがあるのだろう。

この「将来の夢」を言い換えると「人生の目的」とも言える。人生の目的を問われたら必要十分条件の答えを見つけなければ、完全に回答したことにはならない。

僕は思うに、人生の目的は、幸せに生きることに他ならない。

何かの職業に就くことを通して自己実現をする生き方もそれはそれで素晴らしいものだ。将来の夢について必要十分条件の答えを考えた上で、十分条件である「職業」や「労働」や「肩書き」や「学歴」などを考えていけばいい。

僕たちは幼い頃から、“将来の夢”つまりは“人生の目的”について考えさせられる時に、自分の幸福追求よりも、自分の社会に対する有用性を優先するようにされてきた。
自分の幸せを追い求めることよりも、社会の役に立つ人間になることを教えられてきた。もっと言うなら、幸せは他人の役に立つことだと教えられてきた。

そういう考えは、産業主義からくる教育構造に影響してるのではないか。産業は資本を増やすための方法であり、その方法だけが教育という皮をかぶっているのかもしれない。もし僕が教育に目的を求めるのならば、それは、子供たちがどうすれば幸せに生きられるかを教えることだ。

だから僕にとっては、かけっこで1位になることも、良い成績を修めることも、有名大学に進学することも、良い就職先に進学することも、起業することも、お金を稼ぐことも、その人の幸福追求の一手段なのでしかない。もっと厳密に言うならば、それらは、あくまで幸福追求の一手段に含まれる価値基準でしかない。単独の価値基準を世界の全てのように、教えるべきではない。成績だとか学歴だとか、それらの価値観は有用性の価値体系から来ている。

資本主義的の枠組みに囚われたまま、誰かと比較し、競争し、ただ生きているだけでは失われていく自分の存在意義を相対的に高めようとする行為。それが、一般的に美徳とされる「成長」とか「努力」とかなのだろう。その行為だけが、唯一生きる正当性を成り立たせる原理とされている。

自分の生きる正当性を他人が決めた枠組み中でしか見出そうとしないのは、甚だばかばかしいのである。自分の生きている正しさを他人に決めさせてはならない。
たとえ自分以外の誰にも何の価値を提供していなかったとしても、何の有用性がなかったとしても、それでもその人は幸せに向かって生きていい。生きてる正しさの根拠は、生まれた時から自分の内側にある。

自由と幸せ

僕は、生きる目的は幸せになることだと思った。漠然とそう直感しているが、絶対的な幸せを定義することはできないし、幸せがなんなのかも肌感覚でしかわからない。

幸せに自由という要素が含まれているのならば、自由になりたいのであれば、資本主義に便乗することも、幸せになるための方法だと思う。

自由というのは欲望を叶えること。
「〜〜したい」と思うことが欲であり、それを満たすことが自由である。「食べたい」「寝たい」「セックスしたい」という三大欲求からより高度な欲、承認欲求や自己実現欲求まで色々な欲がある。

自由を得るためにはお金が必要で、お金を得るためには、生産性を高め、有用な人間になり、価値を提供すればいい。

価値を提供する→お金が稼げる→経済的自由→多少は幸せになるかも?
善や悪は一旦おいといて考えると、世界は思ったよりシンプルなのかもしれない。

誰かよりも有用な人間なることは、誰かよりも無用な人間になることである。誰かよりも生産性が高い人間になることは、誰かよりも生産性が低い人間になることである。誰かよりも価値ある人間になることは、誰かよりも価値がない人間になることである。

資本主義は僕たちにお金と自由をもたらす一方で、生きる正当性を否定する感覚が内包されたものである。その有害性は理解しておきたい。そうした上で自らの意思で資本主義のルールの中で戦って生きることを選択しなければならない。

若者は“有用性でなければ生きていてはならない”という恐ろしい感覚を持ちながらも、その恐ろしい部分を見ないように、知覚しないようにして生きている。なんだか恐ろしい部分がある予感がするが、予感は予感のままの解像度にしておく。そうしておけば資本主義の上昇気流に純粋な気持ちで便乗できるが、なんだかよくわからないが恐ろしい何かを予感がして便乗しきれない若者も多い。そして便乗できていない人は陳腐な奴とされるのだ。

“自分は何者なのか”の答え

資本主義に身を委ね、自分の生きる正当性を、有用性で定義することを認めている人間は、“自分は何者なのか”と自問自答することで、より社会に役立つ人間になるための動力を得ることができるのかもしれない。

しかし、資本主義社会に生まれていながら、自分の生きる正当性を有用性で定義することを完全に受け入れずに生きている人は僕を含めてたくさんいると思う。そもそも有用かどうかで自分を定義していないのに、他人に有用になることを求めら続けて生きるのは苦しいのである。

資本主義はお金と自由を得て、今の便利な社会を維持するためだけの思想という道具に過ぎない。ただの1つの道具に過ぎない。だから資本主義は、人間の生きる正当性を規定する世界の原理ではない。

資本主義的はただの思想という道具であり、それは1つの生き方の選択肢に過ぎないのだとしたら、1つの道しか示せない教育になんだか未熟さを感じるが、まぁ国家というのはそういうものなのだろう。

だから僕はこう思う。何者でもないことは何も忌避することではない。何の役にも立たなくても生きることは正しい。何の生産性がなくても生きることは正しい。

福祉や生産性を期待されない特例として扱われる高齢者でなくても、障がい者でなくても、赤ん坊ではなくても、生きていることは正しい。

そして生きる目的は、自分が幸せになること。人の役に立つことや、価値を提供することは二の次でいい。幸せになるための逆算の方法は、資本主義の枠組みの中にたくさんあるはずだ。

人間の生きる正当性にまで格差を生み出す資本主義の社会で、本当の意味で、他者に思いやりを持つこととは、他者の存在意義を有用性で値踏みしないことだと思う。本当の意味で、優しくするということは、他者の生きる正当性に対して自分の尺度を押し付けないことだと思う。

高齢者や障がいを持つ方や病気で働けない人々の生きている正しさは、有用性なんてもので推し量ってはいけない。彼ら彼女らを本当の意味で人間として対等に接するのであれば、高齢者ではない人、障がいを持たない人、いわゆる普通の人も有用性なんてもので推し量ってはいけない気がする。

すべての人の生きる正しさを、純粋に認めるためには、人を有用性で測る習慣を捨てなければならない。

だから僕にとって“自分は何者なのか”“自分は何者になるべきか”の答えは、「僕は何者である必要もない。」である。

そもそもこの問い自体が、資本主義の有用性という価値体系の上でしか成り立たない質問である。他者に提示された価値体系に乗っかて思い悩むことが自分の幸福追求に寄与しないのならば、そんな問いは答える必要がない。

何をしたら幸せに生きられるか逆算して行動した結果として、何者かが後付けで出来上がる。だから、先に“自分は何者か”で悩む必要はない。

僕は何者である必要もなく、ただ「村上利光」という名前がついた人間である。それだけで十分に生きる正しさがある。そしてその生きる正当性は、他の誰が疑おうとも僕自身だけは疑わない。だから今日もその時々の気分で自分が心地よいと思ったことをして過ごす。

最後に

“何者になるか”なんて問いの最も究極的な答えは、“何者かになる必要なんてない”。まずは生きている正当性を自分で定義すること。

その後に、何者かになることについて、自分の頭で考えて、自分で選択して、自分で責任を持って、自分なりの幸せの形を探して探せばいい。

僕は口癖のように「生きてるだけでえらい。」と言っているが、その根底にはこのnoteで書いたような思想がある。だから、今日もみんな生きてるだけでえらい。皆んな幸せに生きられますように。

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