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noteを書くときの言葉選びで、大切にしていること


noteを始めて2ヶ月が過ぎた

noteを始める前、自分の作品を見てくれるのは大学の中の人が多かった。
でも、私が作品を見てほしい人たちは学校の外にいた。
学校に行けていない人や、子どもや子育てをしている人。もっと上の世代の人。
自分と同じように病気や障がいのある人。

人が見ている中で文章を書く

大学に入ってから、人目がある中で制作をするようになった。
周りの絵と自分の絵との距離に、敏感に過ごしてきたと思う。
油絵というと写実的なものも多いけど、それを自分に当てはめると何か違っていた。私の絵は少しずつ写実から離れていった。

美術に馴染みのない人への作品をつくりたい。
じわじわとnoteはそんな私が目指していた環境なのではと思い始めた。
自分の体調に向き合っている方の投稿や、いろいろな分野の投稿を読むことができ、新しい世界と繋がって活動できるのがうれしいかった。

大学ではありがたいことに友達がいて、
でも大人になってから、社会的に障がい者になってから会った人たちに
自分のことを自分の言葉で話せていない。

周囲との関係の中で絵を描くように、見ている人がいる中で文章を書いていく。
そこで私の大切な一部である”障がい”について書く。
それは自分の中の、自己開示への挑戦だった。

ネガティブなことを書いてみたら

予想外だったのは、美術に馴染みがない人へ向けて書いていた文章を、大学の友人たちが読んでくれたこと。
noteを始めてから人に会う機会も増え「note読んだよ!」と言ってもらう場面に出会った。
とてもうれしくて励みになった。

「note読んだ」と言ってもらった瞬間はちょっと恥ずかしくなる。
「note読んだんだ…」てことは障がいのことも、彼氏のことも、あんなこともこんなことも知っているってこと…..?
でもそのあとで、大きな安心が私を包む。

知ってくれていて、それでも変わらずに接してくれる。
周りの人が自分を理解してくれる。
そんなサイクルが日常の助けになっている。

ユーモアを持って自分を表現したい

作品をつくる中で「どのくらいの自己開示をするのか」
という意識に、とても気遣うようになった。
たくさん考えて、自分の日常を明るく表現することが目標になって、
そのうえで本当のことを全て語る必要はなかった。

半年ほど前に初めて自分のエッセイ本をつくったとき、あとがきに
「自分のことをもっと正直に、みんなに話したい」
「いまどきの言葉を使うと私はヤングケアラーでサバイバーだ」と記した。
それが初めての自己開示への挑戦で、意識して記した言葉だった。

私は学校の授業や行事に参加した話を、友人とすることができない。
子どもの頃に家族と旅行へ行った話に混ざることができない。
私が経験したことのない、またはたくさん経験した話が始まったとき、
黙ってあいづちを打って、その時間に入れない自分を眺める。
何だかずっと、みんなに嘘をついているような、隠しごとをしているような気持ちになる。

自分でも少し不思議だけど、私は自分の経験や障がいに誇りを持っている。
あのとき本の中で使った言葉は、真剣に考えて考えて、それでもまだ仮の言葉なんだと思う。
これから先の大人を過ごす中で、子ども時代への解釈は少しずつ変わっていけるかもしれないから。やさしい言葉をいつも使っていたいから。

”読まれる文章”との距離

文章を書くときにはわかりやすい言葉を選択することが多い。
私は宇宙人に例えるのが好きだけど「発達障害」と書いた方がわかりやすい。
ADHD、ASD傾向、
通信制高校、美大生 …
そんな単語がネームバリューになってしまいたくないなと感じながら、たくさんの人にとって親切な場合には直接的な表現を選んでいる。

私は漫画を読むことができない。漫画の表現が直接的すぎるとトラウマになってしまい、フラッシュバックを起こすからだ。
記事の見出しを決めるときにも、直接的な表現を使うか迷うときがある。
でも言葉を広告として使いたくない気持ちもある。

ときどき、人に読まれる文章ってどんなものだろうと考えてしまう。
実際ネガティブとされる話題を直接書くと読んでくれる人が増えるのか?
私はどの記事にも少しずつ、ちょっと言いにくいことを書いていて、それを盛り込むことで”伸びる”のかは正直わからない。
私の活動はまだまだ小さなものだけど、記事を”伸ばす”ことからは少し距離をおいていたいと感じている。

人との距離感を大切に、親切な言葉を使いたい。
誰かの理解のために文章を書く。
そんなnoteをこれからも継続していきたいな。

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