すべて必要必然ちょうどいいタイミングだった!移住するまでの経緯

1977年1月

神戸市兵庫区で生まれ育つ。

「なみはずれてすぐれた人物」という意味がある「傑士(けっし)」から画数もいいので、傑士(たかし)と命名されるが、誰もたかしと読めず、「けつし」、「けっしくん」、「おけつ」と呼ばれる。

小中高と弱小ながら野球に打ち込む。(小、高の時はキャプテン)

1995年1月(18歳) 
「震災に遭って受験失敗」

大学受験勉強中、大をしようとトイレに座った瞬間に阪神淡路大震災に遭う。

大は出なかったが、暗記したことは出てしまい、大学受験失敗。浪人するいい口実になる。

現役ですんなり何となく大学に行っていたら、コンパやサークル三昧のチャラい大学生になって今のような人生を送れていなかったのでよかった。

震災により、多くの人が亡くなり、生かされている有難さを感じ、漠然と生きていては駄目だと思う。震災中の報道などを見て「人にいい影響を与えることのできる仕事がしたい」と思い、そこから志望校、志望学部を考え、目標設定したので、受験勉強にも身が入った。

1996年4月(19歳) 
「19歳から丁稚奉公、個人事業主に」

偏差値50も満たないところから気合と根性と明確なイメージングで、第一志望の立命館大学政策科学部と滑り止めの大学のみ合格。

期待に胸を膨らませ、やる気満々で入学したが、コンパ、サークル中心のチャラい現役生と、つまらない授業になじめず、期待と現実のギャップにショックを受ける。

そんな時、下宿に英会話の訪問販売員の若い男が来る。

悶々とした気持ちを訪問販売員にぶつけると、段々熱くなり、「英会話を売る為に訪問販売しているわけではないんだ」と意味不明な事を言われる。

「今まで会社をいくつも起こしているお爺ちゃんが、若者を寮に住み込みさせて、商売のイロハを教えてくれて、その修業の一環で、訪問販売しているんだ」と説明を受け、「藤本君もよかったら一緒に勉強してみないか」と誘われ、経営者育成塾に入門。

商売の基本は「行商・掃除・片付け」だと言われ、住み込みで飛び込み営業をし、ハードな丁稚生活を送る。財界のひとたちと将来お付き合いができるように、酒席での作法や旧制高等学校の寮歌、軍歌、ド演歌などを宴会で学ぶ。

ランニングや筋トレも毎日あり、体と精神も鍛える。

・松下幸之助も本田宗一郎も、日本を代表する会社を作った人はみんな丁稚奉公から。

マーケティングやマネージメントのような経営理論や技術論、方法論ではなく、経営者になる人格作りのための修業。

・飛び込み営業では口先だけでは買ってもらえない。モノを売るのではなく、お客さんのことを思い、自分を売り込む。

・籠に乗る人担ぐ人そのまたわらじを作る人。それぞれに役割があり、どんな人物を籠に乗せたいかを意識する。

・完全歩合制、実力主義。自分で餌が獲れる野生になれ。家畜になるな。大学はサラリーマンを目指すところ。逆をすればいい。

など経営者になるマインドを叩きこまれる。

「心が変われば行動も変わる。行動が変われば習慣も変わる。習慣が変われば人格も変わる。人格が変われば運命も変わる。」と書いてある紙がトイレに貼ってあり、24時間365日洗脳される。

大学よりも塾での勉強の方が有意義に思い、1回生の5月からほとんど大学に行かなくなる。

1999年3月(22歳)
「浪人までして入った大学をあっさり辞める」

ようやく営業で飯が食えるようになって、大学を辞めるお許しが出たので辞める。塾では許しがでないと勝手に大学を辞めることはできない。
厳しい環境なので途中で塾を辞める人や就職活動する人も大勢いた。
1週間で40万円稼げることもあったが、4か月収入がなかったこともあった。どこの大学出身だとか歳だとかは一切関係なく営業成績で塾での序列が決定し、座る順番まで決まっていた。

しかし足の引っ張り合いは一切なく、同じ釜の飯を食う仲間として、切磋琢磨していた。

塾の先輩で人生の師匠となる花田さんにも出逢い、「結果には必ず原因があり、その原因はすべて自分自身だ」と教わる。

今はもうこの塾はないが、塾出身者は、様々な業種で社長として活躍しているし、今でも強い絆で結ばれている。

2002年1月(25歳) 
「塾を辞め、ラーメン屋を目指す」

そろそろ自分で商売を始めたいと思い退塾。
ラーメンが大好きだったのでラーメン店開業を目指そうと考えていた時、当時住んでいた寮の近くにラーメン店ができ、そこの大将と意気投合。
修業させてもらうことになる。

2004年7月(27歳) 
「ネットで出逢った最大の修行相手と結婚」

男女交際禁止だった丁稚の時に、ネットで出逢い、こっそりつきあっていたが、一度別れて、新たな出会いを求めていたら、ネットで再会。

運命だと思い結婚。

結婚後、開業資金を貯める為に、割のいい仕事をしようと思い、修業先のラーメン店を辞める。

開業する為にどれくらいの資金がいるのかをリサーチする為に、物件を探す。

案内された居抜き物件がイメージしていた内装だったが、資金もなく諦めていたら、妻が独身時代、留学する為に貯めていたお金を貸してくれることになり、とんとん拍子に話が進む。

2005年4月(28歳)
「貯金ゼロだったのにラーメン屋開業」

神戸市灘区の六甲道で、餃子も炒飯も大盛もやらない化学調味料無添加・潮らあめん専門店「麺道しゅはり」を開業。
8坪足らずでカウンター9席のみ。

「化学調味料を使わない塩ラーメンだけで勝負するなんて大変だからやめとけ」と修業時代に知り合った色んなラーメン屋の先輩方に反対されたが、根拠のない自信と確信があったので、自分の直感を信じる。
案の定、仕込みは大変だし、味は安定しないし、お客さんには「味噌ないの?」「醤油ないの?」「餃子ないの?」「炒飯ないの?」「大盛できないの?」と言われ、1日中開けても10人ちょっとしか客がこない暗黒の日々を送る。 

2005年10月 
「長女のおかげで目覚める」

そんなときに長女誕生。
暇だったので店を閉めて立ち会う。
感動し号泣。気合いが入る。

笑顔で人に接するなどお金がなくてもできる7つのお布施「無財の七施」から
七聖(ななせ)と命名。

乳児湿疹が酷く、アレルギー体質だったので、それを機に食などを見直し、勉強を始める。

化学調味料を使わなかったのは、美味しいものを純粋に作りたかっただけで、安全性は気にしておらず、マクドや吉牛、コンビニなどにもよく行っていたが夫婦共々改める。
買い物も成分表をチェックして買うようになる。
色々勉強しているうちにマスコミはスポンサーの不都合なことは言わず必ずしも正しいことは言わないと気づく。
また日本は製薬会社など一部の既得権益の組織や人たちの都合のいいようにコントロールされているんじゃないかと思い始める。
情報を鵜呑みにするのではなく実体験したことを信じて行動するようになる。

2007年10月(30歳)
「やっと軌道に乗る」

化学調味料を使わない潮ラーメン専門店で珍しいこともあり、狙い通り、雑誌やテレビで取り上げられ徐々に有名になる。
ローソンからカップ麺のオファーもあり商品化する。
関西限定で4万食、1個298円の高級カップラーメンだったので、それなりのロイアリティーを期待していたが、なんと1個につき1円。
後から知り合いのラーメン屋さんから「ローソンは渋ちんで、他のコンビニならもっともらえた」と教えられる。

2007年11月
「再び号泣」

長男誕生。忙しかったが店を閉めて立ち会う。再び号泣。
長女がデトックスしてくれたおかげで、アレルギーもなく綺麗に産まれる。

般若心経の「色即是空」から空良(そら)と命名。

2009年10月(32歳)
「転機」

軌道に乗り、行列店となり、ラーメンオタクの間では全国的に有名になり、周りからも成功者として認められるが、満たされるどころか、いつも焦燥感を抱いていた。それを解消する為に、移転や多店舗化、ネット通販など次の展開を模索するがしっくりこず、これからの生き方や幸せについて考えるようになる。

好きな事を仕事にして幸せになるつもりだったのに、忙しくなればなるほど、家族との時間もなくなり、体もボロボロになり、このまま続けても幸せになれないと思っていた時、お客さんに長野県安曇野にあるシャロムヒュッテという宿を薦めてもらい、気分転換に家族旅行に行く。

シャロムヒュッテのオーナー臼井さんの宿は、気の利いた設備はないが、自給自足の生活を実践し、みんなが幸せに「地球 1 個」で暮らせる持続可能なライフスタイルに興味のあるひとが全国から、その生活ぶりを観たり臼井さんの話を聴きに来たりする人が集まる。

臼井さん曰く、「今の日本人の生活をもし世界中の人がしたなら、地球 2.5 個いる。それなのに僕たちは地球 1 個で生きている。ということは、他の誰かにしわ寄せがいっていることになる。他を犠牲にして自分たちだけ、便利・愉快・快適に過ごして、本当に幸せになれるのでしょうか?」。その言葉に衝撃を受け、物質的な豊かさよりも精神的な豊かさを目指す。

関西でシャロムヒュッテのような生活提案型の店をやりたいと思う。

2010年1月(33歳)
「自然農を学ぶ」

シャロムヒュッテで観た自然と調和した自然農をやりたくて、近くで自然農をやっている人をネットで探し、定休日を1日増やし、週1回、妻と共に篠山へ自然農を学びに行く。

同時に転職、移住の準備を始める。

2010年6月
「ひょうご在来種保存会に入る」

新規就農駅前講座で、ひょうご在来種保存会の山根成人氏と出会う。

種の重要性を知る。

2010年7月 
「メンター河名さんと自然栽培と出逢う」

ナチュラルハーモニーの河名秀郎氏の講演を聴き、生き方と繋がる無農薬無肥料の自然栽培を知り、眼から鱗がボロボロ落ちて体中に電気が走る。

自然に習い、自然と調和し、土・種・人をよくしていく自然栽培は、単なる技術論方法論ではなく、生き方そのものにつながっている。自然栽培的な生き方をしたいと想う。

講演後、河名さんに連絡を取り、直接話を聴きに東京へ行く。

それ以来、メンターのひとりとして様々な事を学び、事あるごとに相談に乗ってもらう。

2010年11月 
「どんどんつながる」

ひょうご在来種保存会主催の半農半Xの生き方の著者、塩見直紀氏の講演を聴き感銘を受ける。

自分が目指しているものは、半農半Xの生き方だと想った。

講演後、河名さん同様、連絡を取り、直接話を聴きに行く。

そこで岡山にある自然食の宿わらの船越さんと重ね煮料理を知る。

2011年4月(34歳)
「ラーメン屋あっさり売却」

常連さんでラーメン屋をやりたいと言っている人に店の看板とレシピを売却し、丹波市春日町へ移住。

篠山に移住するつもりでいたが、家探しが難航。
そんな時、山根さんに丹波市春日町で在来種の黒さや大納言小豆を栽培している柳田さんを紹介してもらう。
春日に行った途端、一気に色んな人とつながり家も見つかる。
中古の古民家を買って農家レストランをやるつもりだったが、住みたい地域にいい物件がなく、ひとまず違う地域の借家で仮住まいすることにする。
しかし神戸のマンションを引き払って引っ越し業者とも契約が完了していた引っ越し2週間前に家主の親戚の茶々が入り白紙になって一家が難民になりそうになる。
それから必死で探して1軒だけ住みたい地域に空き家があるという情報を得て見学に行ったものの天井の至る所に獣が通った穴があったり、雨漏りで廊下中に苔が生えていたり、怪しい人形が玄関に座っていたり、トイレはボットン、風呂はボイラーでしかも故障していたりしていたが、そこしか選択肢がなく、借りることにする。
修理箇所が多く、修理する代わりに家賃をタダにしてもらう。

NPO法人CS神戸の支援を受け、農業研修開始。

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