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【一章】少年死刑確定囚事典

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戦後犯罪の少年死刑囚のリスト/逮捕日から判決訂正申立まで網羅してます。新しい情報が入り次第更新しています。永続的に情報の引き出しとしてお使いいただけたらと思います。
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記事一覧

① 戦後犯罪最初?の少年死刑囚 文山将吉郎《文山徳次郎》(19)

【明治以降裁判統計要覧】には各年の死刑判決数が記されているが昭和16〜20年は『資料なし』として空欄になっている。 渡辺茂のように地方紙の記事から存在が判明するケースもあるが、文山もその一人でGHQの資料にも記載がある。 死刑関連のサイト管理者に情報を頂き判明している分をまとめた。 事件の概要 昭和20年9月11日朝に兵庫県相生市大島町でOさん方でOさん夫妻と長男、他一名が惨殺され2万5千円が奪われているのが見つかり、同居の朝鮮人の文こと文山特次郎(20)が手配され同月1

② 新聞記事より発見された少年死刑囚 渡辺茂(18-19)

渡辺茂の名は『刑集37巻6号』にもGHQ資料にも記載されていない。唯一の手がかりが静岡新聞になる。 静岡新聞で発見された少年死刑囚 渡部茂(20)仮名で【昭和20年9月25日の静岡新聞】に検挙された時の記事がある。渡辺の生い立ちなどは事件発生と同村に居住で三男という以外は不明だが、事件内容は同9月21日7時10分頃に静岡県志田郡葉梨村の農家の女性(58)がこん棒のようなもので殴打され殺害されているのを隣家の女性が発見し通報。上白米や蒲団が奪われ、リヤカーで運びだされ同月2

③ 埋もれていた少年死刑囚 中島昇(19)

昭和20年~22年までの期間は資料も殆どなく死刑事件でも新聞記事にすらならない事が多く、まだ未見や詳細不明の死刑囚が数多くいる。 中島昇もその一人でネット上のとある論文資料がきっかけで犯行時が少年と判明したので概要を記す。 事件の概要 昭和21年2月7日午前1時頃、愛知県岡崎市南康生町の菓子雑貨商方で母娘二人が侵入してきた強盗に頭や顔を刃物で切りつけられ、母(73)が死亡し娘(41)も瀕死の重傷を負い現金1000円などが奪われた事件で犯人は現場から逃走した。瀕死の娘も同日

④ 死刑合憲判決 邑神一行(19)

邑神一行(犯行時19)は事件そのものに触れた資料は少ない。新聞では中国新聞や夕刊ひろしまあたりも探したが一部しか見つけられていない。一番内容を詳しく知ることが出来るのは広島高裁の判決文 【D1-Law:ID24000076】 事件邑神一行は小学4年生の時に父が亡くなり料理店の板場や自動車会社で助手などをしていたが浪費が原因で辞めさせられ、母と妹が暮らす生家(広島県佐伯郡吉和村)へ戻っていたが、田舎の生活が肌に合わず仕事もせずにぷらぷらとしていた。 日頃から働かない事を咎めら

⑤ 戦後最年少死刑囚 鬼頭正一《伊藤孝助》(17)

事件伊藤孝助こと鬼頭正一は不良グループ愚連隊のメンバーのリーダー格で通称『隼の政』と呼ばれていた。 盗みを繰り返して、とうとう強盗殺人までやらかした。事件は愛知県愛知郡天白村で昭和22年6月21日に仲間ら数人と民家に侵入し、女性2人を布団で包み縛り上げて一人を窒息死させ、もう一人も瀕死の状態にしこの女性も3日後に亡くなった。衣類等30点以上を奪い屏風には「大阪八王寺に来い」などと落書きがされていた。 【中日新聞昭和22年6月23~26日】 【読売昭和22年9月29日】 奪った

⑥ 謎多き死刑囚 李祥根《松原三郎》(17)

『犯行時17歳の死刑囚』は戦後三人確認されているが、他の二人(鬼頭、青木)にくらべて李祥根に関する資料は極端に少ない。 死刑関連のサイトや書籍でもわずかに触れられてる程度である。 【刑集37巻6号】から「MことRは昭和22年4月9日に雇い主の妻に服の購入代金の借用の申し出を断られて口論の末に同女と長女と二男を包丁で刺殺し金品を奪った。」 昭和22年7月16日岐阜地裁高山支部で無期懲役 (朝8時半に開廷し求刑死刑での無期判決に検察と被告とも控訴) 昭和22年11月25日名古屋

⑦ 鹿児島雑貨商一家強殺 青木敏朗(17)

生い立ち青木敏朗(犯行時17)は静岡県で生まれ実父と死別し家出や盗みを繰り返し関東学院を二年で中退、仕事は何をやっても長続きせずに16歳の時に逃亡、強盗の罪で服役していた軍刑務所を釈放され鹿児島に流れ着いた。 【南日本新聞昭和23年2月21日】【恩赦と死刑囚】 雑貨商一家強盗殺傷事件の内容昭和22年12月10日頃に静岡の雇い主から盗みをして出発し鹿児島に流れ着いた。同16日に天文館付近で生け花用の手斧を買い、18日に鹿児島市西千石町の雑貨商宅に侵入し一家三人を襲撃し主人と長

⑧ つげ口された逆恨み 山本明秋(18)

生い立ち「知能普通。性格は怠惰にして陰険。持続性なし」 山本明秋(犯行時18)は高等小学校を卒業後に自ら志願して水戸航空隊に少年航空兵として入隊し復員するまで軍務していたが、昭和21年6月に復員した後は実家(和歌山県日高郡船着村)に戻り、筏乗りの手伝いや大工見習いなどをしていたが、正業にはついておらずぷらぷらとしていた。 【刑事裁判資料56号】略称は刑資 犯行動機と事件内容そんな山本を見た近所の主婦I(41)が「遊び暮らして金遣いが荒い」と山本の母に言った事で明秋は叱られ

⑨ 粗暴な大男 遠藤進(19)

事件発生まで遠藤進(犯行時19)は異父兄を含めると7人姉弟で貧しく、東京の原宿二丁目でバラックで生活していた。 遠藤自身は船員や米の闇売買などをしていたが、夫婦仲が悪い父が仙台で大工をしていると聞き、昭和22年5月下旬に仙台へ出向いた。 しかし、父とは会うことが出来ずに、仙台駅で寝泊まりをしていた所に共犯者となる藤倉二郎(20)と出会い、藤倉から「一軒家で相当金を溜め込んだ老夫婦がいる」と聞き、金に困っていた遠藤から「そこへ行って金を脅し取ろう」と持ちかけ藤倉がこれを了承した

⑩ 情交を装い女性を殺害 斎藤守(19)

生い立ちと犯行動機斎藤守(犯行時19)は農家に生まれ兄と妹二人がいる。家庭は中流以上。中学校卒業後は地元熊本で建築会社の現場監督を1年7ヶ月勤め、辞めたあとは野菜の仲介業などをしていた。満州から伯父が引揚げ仕送りをしていた金を母親に返済するように催促してたことがブローカー業を始めた理由だが商売がうまくいかずに借金が増え、期日までに八千円を返済しなければならなくなった。 そこで砂糖を買付けて売れば利益になると考え知人の女性(31)を誘ったが、そもそも斎藤は買付けの資金を調達出来

⑪ 典型的な虞犯少年 守護和雄(19)

犯行内容と逮捕日守護和雄(犯行時19)は小学五年生の時に両親が離婚し、家の金を盗んだり家出を何度もしたりして少年教護院(今の児童自立支援施設にあたる)に入院し、退院後は馬車引きや炭鉱夫などをしたが、長続きせずに北海道の各地を転々としていた。 昭和23年3月6日に小樽駅の待合室で共犯者となる佐藤茂(成人)と出会った。 守護から「以前、服を買ったことのある空知郡滝川町の一人暮らしの老女が、お金を貯めこんでいるから強取しよう」と持ちかけ、佐藤がこれを了承し翌7日早朝に犯行を決行した

⑫ 淋病の治療費目当て 山田秀則(19)

小さな農村での事件熊本県八代郡滝峰村で暮らす山田秀則(犯行時19)には父親はいない。11才で死別し実家の零細農家では母親が姉弟四人を育て切り盛りしていた。 秀則自身も農業の手伝いをしていたが、次第に熊本市内に通うようになり映画や女遊びに興じるようになり淋病を患ってしまう。 もともと盗癖があり、親戚からは煙たがられていた事もあり、肺の病気の治療費と嘘をいい金策していたが、うまくいかずに、近隣の老夫婦がアメリカ帰りで相当な現金を持っていると知り、この老夫婦から金を奪おうと計画した

⑬ 旭川三人強殺 山田作一(18)

戦後の少年事件に有りがちな生い立ち山田作一(犯行時18)は8歳の時に母、15歳で父を亡くし孤独の中で仕事も長続きせず、少年院に入り退院後に窃盗罪で懲役10月執行猶予3年の有罪判決を受けている。 その後は伯母の家に引き取られたが、居心地が悪かったのか?飛び出し、北海道を放浪するようになった。 ここまでは気の毒な生い立ちで同情出来る部分はあるが、山田作一は根っからの悪だったのか金のための悪事が強盗殺人にまで大きくなってしまった。 【刑資56号上】 悪質な犯行計画所持金が尽きた山

⑭ 広島両親尊属殺人 宗岡省吾(19)

厳しい家庭で育ち『父は元軍人で短気、母は厳しい倹約家』 宗岡省吾(犯行時19)の両親は厳しい。特に金銭面では相当激しく叱責され、一人息子だった省吾の疑心の強さを形成させるほどの厳しさだった。 広島に住んでいた省吾は昭和21年4月からとなり村の東志和村の小学校で助教員として働いていたが、まもなく同僚の女性と情交関係を結ぶ相愛な仲になり、この女性は妊娠する この事を両親に相談しても結婚を認めてもらえないと思い中絶を決意するが、その費用を知人へ金策していたことや、家からこそこそと金