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"世界史のなかの"日本史のまとめ 第4話気候の変動と狩猟採集定住生活の危機(前2000年~前1200年)

Q. 東日本と西日本に、なぜ「違い」が生まれたのだろうか?

―長い長い縄文文化にも、ようやく変化の時がやってくる。

 この時代の終わり(注:縄文時代後期(前2000年頃~前1000年頃))になると、気温が寒くなっていったんだ。


どんな影響があったんですか?

―海水面が急激に低下したよ。
 特に東日本では潮干狩りのできるような干潟が減ってしまい、貝に頼る暮らしは打撃を受けることになる。


気候が寒冷化すると、気候や動植物の分布も変わりそうですよね。

―そうだね。
 寒くなるといっても、地域によって差がある。
 日本は北東から南西に向かって南北に伸びた形をしているから、基本的には南西にいくほど暖かい気候になるよね。

 そういうことが、「北東日本」と「南東日本」の間に文化的な違いの生まれていった背景にあるだろう。


東西で例えば何が違うんでしょうか?

―例えば、亡くなった方の葬り方だ。

 地面に穴(注:土壙(どこう))を掘って、手足をていねいに折り曲げる方式(注:屈葬)がとられることが多かいのは東西に共通している。


 でも、東日本ではその上に石を置き、その石が連なって全体として「○」の形になることもある。
 いちばん有名なのは秋田県の十和田温泉の近くにあるものだ(注:大湯環状列石)。

それって似たようなものが世界にもありませんか?

―同時期にイギリスでもストーン・ヘンジっていう巨石を円形に並べたものがつくられているよね。


 この秋田県のものも、石が夏至の方向を指し示す並び方になっていて興味深い。
 「この世」と「あの世」をつなぐ場として、人間が共通して思い浮かべるイメージがあるのかもしれないね。


北海道や沖縄はどうなっていますか?

―アザラシやオットセイなどの狩猟生活を基本とするのが、北海道の北部だ。



 さらに、ジュゴンやウミガメ、その他の魚釣りに基盤を置く南西諸島の文化など、多様性も生まれている。



 北海道の北部はシベリアオホーツク海沿岸の人々、南西諸島の文化はオセアニアの人々との「つながり」も深い。


同じ日本列島なのに、バラエティ豊かですね。

―同じっていっても、「日本」と「日本の外」との間に壁があったわけではないからね。


現在の「日本」が、昔からずっと「日本」っていう「部屋」に区切られていたわけではないってことですかね。

―海に囲まれている島国だから、周りとの「かかわり」がないんじゃないかって錯覚しがちだけど、そんなことはないわけ。

でも、「日本史のまとめ」って言ってるからには、どっかで区切らないとじゃないですか?
 

―そうだね。
 さしづめ「日本史」っていうのは、「日本列島上で活動していた人たちの歴史」っていう捉え方で行こうと思う。
 そのためには、現在の日本の「枠」を外して、外との「つながり」を意識することが大切だと思うよ。
 そうすることでより一層、日本列島の文化の「多様性」にも気づくことができるはずだ。


* * *

ちなみに同じころ、世界ではどんなことが起きていたんですか?

―この時代には、そのような乾燥エリアが従来よりも拡大し、ユーラシア大陸だけでなくアフリカのサハラ砂漠でも乾燥化が進んだと見られている。
 ただ乾燥の進み具合は地域によって差はあるし、逆に雨が降るようになったところもある。

 ユーラシア大陸の西のほうでは、西アジアに入り込み定住民を支配下に置く国も現れる。
 南のほうでは、インドに入り込み、もともといた定住民を支配下に置いている。
 東の方では、中国の「殷」という王国にも影響を与えているようだ。


中国の王国はどんな支配をしていたのですか?

―大規模な王の墓もみつかっていて、王は占いにより「神の気持ちを聞く」形をとって、人々を「納得」させて支配していたとされている。
 占いの結果は文字に表されたのだが、これが現在の漢字のルーツとなる。


 王は親戚や部下に町を支配させ、武器や農具として青銅器が使われていた。お金としてはタカラガイという南の島でとれる貝がつかわれている。

 ほかには、中国南部の長江沿岸にも稲作をベースとする都市文明ができていた。
 日本に稲作を伝えたルートとして、長江から日本に伝わったと考える研究者もいるね。
 ほかに、九州の西部で活動していた漁業民たちが、朝鮮半島から持ち込んだという説もあるよ。

日本と中国南部の文化には共通文化があるんでしょうか?

―中国の特に南西部から、西に連なる山岳エリアとの共通性はよく指摘されるね。
 「照葉樹林」が生えていて、気候面でも似ている点が多いんだ。

 東南アジアにはこの頃、中国から稲作が伝わっている。
 山が多く雨の量もハンパないので、農業をやるときにはまず草むらや森に火を放ち、その灰を肥料にする。これを焼き畑という。
 米づくりには十分な雨量が必要だから、東南アジアでは焼畑による稲作が広まっていった。

 米づくりにより人口が増えると、山あいの谷などを単位にしてリーダーが現れる。彼らは中国から伝わった最新鋭の青銅器のつくりかたをモノにし、青銅器製のドラムをつかった儀式で人々を支配しようとしたんだ。青銅器は今でこそ錆びてしまって青っぽいけど、当時はキラキラ輝く宝石のような外見だった。魔法のようなモノを見せびらかすことによって、人々に「すごい」と思わせる作戦だね(注:ドンソン文化という)。

ヒモをひっかけるところで吊るし、バチで叩いて演奏する(動画の11:10)。似たようなものは中国南部にも分布している(上海博物館の展示がわかりやすいのでおすすめ。ほか、こちら九州国立博物館も参照)


それって、弥生時代にありませんでしたっけ?

―そう。銅鐸(どうたく)だね。朝鮮半島から伝わった「お米の神様」(注:穀霊信仰)との信仰に深く関わっているようだ。

じゃあもう弥生時代はすぐそこですか?

―「稲作の導入」と「農業を基盤とする社会の成立」をもって弥生文化が始まったとみれば、たしかに弥生文化がスタートしたといっていいね。


あれ? 弥生土器を使うのが「弥生文化」なんじゃないですか?

―たしかに、かつては「弥生土器」が使われている時代が「弥生時代」って区切られていたね。

 でも、①縄文時代の終わりごろになると、縄文土器と弥生土器の区別がつきにくく、それだけではその人たちが「狩猟採集民」なのか「定住農耕民」なのかの判別を下せないこと、②そもそも縄文土器も弥生土器もともに野焼きで作られたもので、厳密に区別がつきにくいこと、③縄文人の側も弥生土器の製法を取り入れて使用した例があることなどなどから、「土器では人々のライフスタイルの違いを判断することは難しい」ってことになったんだ。


なるほど、土器ではなくてライフスタイルの変化が重要ってことですか。

―となると、まだまだこの時期には農耕を基盤とする大きな集落が形成されていたとはいえないね。

 確認されている最古の水田は佐賀県の菜畑遺跡(なばたけいせき)だ。そこに水田が整備されるようになるのは次の時代からになるけど、すでにこの時期から陸稲が栽培されていたことがわかっている。

植物の栽培はすでにおこなわれていたんですもんね。

―そうだね。東京の東村山市というところにある遺跡(注:下宅部遺跡(しもやけべ))では、ウルシが栽培・管理されていた跡ものこっている。
 ウルシからは、味噌汁のお椀に塗られているあのツルツルの塗料で、耐久性を持たせる作用がある。


 ただ、水田耕作ほどの収穫は見込めなかったから、食料採集にベースを置く縄文文化自体を変化させるには至らなかった。

 文化の変わり目にあたって、土器のスタイルも変化している(注:突帯文土器(とったいもんどき))。

 この突帯文土器には朝鮮半島の影響がみられ、新たに稲作をはじめていった東日本の「弥生人」が広めていったもののようだ。
 この「弥生人」と朝鮮半島からの「渡来人」がどれくらい関連があったかについては論争があるが、朝鮮半島からの「渡来人」の影響があったことは間違いない。

 ここではひとまず、朝鮮半島の影響を受けて新たなライフスタイルを導入した人々を「弥生人」と呼ぶことにしよう。
 でも、西日本の「縄文人」は、なかなか稲作の文化を受け入れようとせず、独自の土器(注:亀ヶ岡式土器)を使い続けている。

農業中心の社会と、狩猟採集中心の世界の対立ですか。

―地域により差はあるけど、「縄文人」の中にもすすんで「弥生人」の技術を導入していったグループもいたようだ。

 しだいに稲作をベースとする弥生文化は、模様のみられない頑丈で新しいスタイルの土器(注:遠賀川式土器(おんががわしきどき))とともに東日本へと広がっていくことになる。

遠賀川式土器。シンプルだ。図説 福井県史HPより)



 東北地方の日本海側を北上するように短期間で拡大しているから、どうも海上ルートで拡散していったんじゃないかな。


今でも「東日本」と「西日本」ではいろんな違いがありますよね。

―そうだね。同じ「日本」っていってもいろいろと違いはある。
 東西ともに「醤油」をつくる文化は共有しているけど、
 西日本は醤油は薄口、東日本では濃い口が好まれる。
 また、西日本のほうが、酢や味噌の消費量が多く、東日本では少ない。
 西日本はうどん、東日本はそば…、のようにね。
 

どうしてそんな違いが生まれたんでしょうか。

―ユーラシア大陸の中国や朝鮮では、早くから都市文明が発達する。その影響を受けた朝鮮から距離的に近い西日本は、絶えず大陸の文化の影響を受けていくことになる。
 貝殻でつくられたお面のように共通性のある文化も多い。注口式の土器にはお酒が注がれ、儀式に用いられたのだろう。

 カシやシイの木などの常緑広葉樹林(照葉樹林)が多いのも特徴だ。

参考貝のお面については、古澤義久「玄界灘島嶼域を中心にみた 縄文時代日韓土器文化交流の性格」や、黒住耐二「東アジアにおける貝製仮面およびその類似製品に利用された貝類の同定」(上記画像)など。

西日本に多い照葉樹林の葉っぱは分厚いので、森の中は暗い。東西文化の違いを、このような自然環境の違いから説明しようとする人もいる(照葉樹林文化とナラ林文化)



 一方、東日本は距離的にユーラシア大陸や朝鮮半島と離れている。大陸の都市文明の影響はよりも、北方の寒冷エリアからの影響のほうが大きいね。
 こちらはナラのような落葉広葉樹林(注:幅が広く紅葉する木々)が分布する(上記動画の8:45を参照)。



日本の東西文化の違いにも、いろいろと歴史的な事情が隠されていたんですね。

―縄文時代には西日本の照葉樹林エリアのほうが人口密度も低く、逆に東日本のナラ林エリアのほうが人口が多かった。
 ナラ林の落とす大量のドングリのほか、豊富なサケやマスといった魚介類によって狩猟採集生活が安定していたからだ。

 でも、次の時代に稲作が西日本で導入されるようになると、豊かな東日本>貧しい西日本という構図はひっくり返ることになるよ。


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 以上で「”世界史のなかの”日本史のまとめ 第四話」は終わりです。
次回は「第五話 前1200年~前800年」を見ていきましょう。
いよいよ稲作が西日本に伝来し、東日本との差が生まれていくことになります。
 世界史と異なり「文字による証拠」(注:文献史学)がありませんから、基本的には出土した物の分析に頼るほかありません。年代の測定法が発達していますから、以前よりも正確な年代が明らかになりつつあるものの、世界史に比べると詳細には不明な点も少なくありません。


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