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人生の中庭にある、ささやかな幸福をみつける

1週間ほど前、「私は私のままで生きることにした」というキム・スヒョンさんの本を読んだ。紫色の装丁と女性のイラストが目を引く可愛いデザイン。

最近、韓国のエッセイが流行っているようで、以前本屋でざっと目を通した時に「良さそうな本だな」と思ったので、購入して読んでみた。

読みながら、覚えておきたいなと思ったフレーズを書き留めたら、B5のノート8ページにもなったので、それらを交えつつ感想を記しておきたいと思う。

自分をみじめにする方法

自分をみじめにする、一番簡単な方法は、他人の生活を覗き見て自分の生活と比べること、らしい。

これは、読みながら心の中で何度も首を縦に振った。

SNSのおかげで、普通に生きていたら絶対にお目にかかれないような富豪や有名人の生活、友人の生活などが今やあっさり見れてしまう。「他人の生活」というのはきっと私たちにとってかなり強い刺激で、興奮剤でもあるのだと思う。芸能人のゴシップが売れるのと同じ原理だ。だから、私たちは、特に用もないのにSNSを見る。だけど人がSNSにアップするのはその人の生活の「綺麗な面」や「楽しい面」だけだ。疲れて洗わずに置いて寝てしまったままのシンクの食器や、掃除をサボったトイレ、積み上げた本と雑誌の山や、洋服を買った時についてくる予備のボタンをとりあえず机に放置しているところなんて、誰もアップしない。

だけど、「美しい生活」をアップしている人であっても、決して完璧でない、というところにまでは頭が回らない。その人の「美しい面」だけを見て「自分はこの人と比べて、なんて貧しく(経済面だけでなく)みすぼらしく情けないのだろう」と、ふっと思ってしまう。そうして、SNS上では「流行」がまるで「正解」のように、「だらしがない」のは「不正解」のように流布し、人々の不安を煽り立て、人々は、誰が作ったかも知らない「正解」を追っている。

私は、1週間、TwitterとInstagramをホーム画面から消してみた。代わりに色々な人のnoteを読むことにした。

感想は「すごく楽」。

Twitterは、世界に開けていて多種多様な情報に接することができる。ように感じる。しかし実際は、自分の閲覧とアクション(いいね、リツイート、フォロー、リプライなど)の履歴から割り出された「自分の好み」の情報が与えられているに過ぎない。

背中に羽が生えて羽ばたけるような感覚は、実は「青い鳥」から与えられたものに過ぎないのだ。Instagramも然りである。

しかし、noteは(もしかしたら上記の側面はあるのかもしれないけれど)、「人間の人間らしい部分」がしっかりと感じられるな、と思う。

側から見ていると「完璧だな」「悩みなんてあるのかな」と思ってしまうような人でも、紆余曲折、苦い経験を経て今があるのだな、と実感できるし、何より、短文では伝わらないようなその人の考えを垣間見ることができて、心の充実感が違う。

世の中は、便利になるにつれて、私たちの「感情」というか「感覚」を麻痺させている側面もあるなあと思う。

自分らしく生きること

「自分らしく生きよう」と散々目にする。仮想空間上での人とのつながりが近く濃くなった現代、世の中の均質性は加速しているのだと思う。ぼーっと生きていると何かに追われるような、型にはまらなければ不正解のような不安に駆られるようにできていると思う。だからこそ、自分らしさ、個性が重視されてきているのかなと思う。近頃、無印良品やGUに代表されるような「シンプルでベーシックでお手頃」なものが流行っている一方で、古着やジェンダーレスといった個性を重視する動きも出ている。きっと均質化に安心感を覚える一方で、自分と世界との境目が薄まるような不安感もあるのだろうな、と思う。し、単純に「正解」を追う、もしくは追われるのに疲れたのだろうなとも思う。私も疲れた。

では、「自分らしく生きる」とはどういうことか。この本によると、「経験と模索の中で、自分の力で判断し、自分の力でものごとを決める方法を学ぶこと」とある。

そして「自分が行った選択は心の深い場所に蓄積され、その蓄積を自尊心と呼ぶ」とも。

親やネットから「与えられた」人生は安心感はあれど、そこに自分の選択とその結果に責任を持つ覚悟がなければ、人はあっという間に希望と自信と自由を失うのではないかと思う。

自信をつけるには自分で選択するしかないし、自信がないから決断しないのではなく、自信がないからこそ決断し覚悟しなければならないのだと思う。

変化のために最も必要な資質は、くたびれないこと

これは、自戒の意味も込めている。

「変化のためには持続的な努力と時間が必要になる。変化のために最も必要な資質は、くたびれないこと。」というフレーズをメモした。

私は、何かと諦めがちというか、逃げがちだ。

ものすごく頑張ったな、と思える最後の思い出は中学校3年間で死ぬほど勉強したこと。逃げずに頑張ったな、と思える最近の思い出は簿記3級の資格を取ったこと。 

上記のように、勉強は比較的継続しやすいのだけれど、パーソナルジムに通っている割に精神的に辛いから、とチョコをバクバク食べてしまったり、上手くなりたいと意気込んでバイオリン教室に通い始めた割に家では全く練習をしていない。人とのコミュニケーションが苦手だという割に、自ら話しかけたり新しい場所に足を運んだりもあまりしないし、そんな自分が嫌だとばかり言っている。

何かを始めるまではいいのだけれど、何でも「始めて満足」「行って満足」「所属して満足」してしまうところがある。それに、初めのうちは練習をしていてもすぐにくたびれてしまう。私にとっての最大の課題は「くたびれないこと」だ。

人生の中庭にある、ささやかな幸福を見つけて、そこから生きる喜びを見つけよう

タイトルにもつけたこのフレーズが、一番印象的だった。

人生は難しい。何か大きなことを成し遂げることが正解だとも思えるし、高望みせずに自分に向いたことをやり、小さな幸せに微笑むことが正解のようにも思える。

人生の中庭って何だろう。なぜ庭ではなく中庭なのだろう。でも、庭ではなく中庭にしたのはちょっとわかる気がする。常に人生という家の真ん中にあって、家のどこにいてもすぐに見に来られるし、陽が当たっていて暖かい。小さい存在のように思えるけど実は家の主役のような。中庭にはそんなイメージがある。

家に飾る花とか、観葉植物とか、手の込んだ料理とか、そういったものの良さや、友人の大切さを噛み締めることが、人生の中庭であり、中庭にあるささやかな幸せなのかな。

おわりに

個人的な話で恐縮ですが、今はすごくすごく辛くて、本当に生きるのに耐え難いような毎日で、正直人生に希望が持てません。スーパーで買い出しをしていても、周りの大人を見て「みんな幸せなのかな」「何でみんな生きていられるのだろう」と思ってしまいます。自分で種まきした植物の芽が出たとか、作った料理が美味しかったとか、桜が咲いていて綺麗とか、それらがささやかな幸福であることはわかりますが、それらだけではどうにも辛さは和らぎません。調子のいい日が何日間かあったと思えば、調子の悪い日はぐんと落ち込む…というような日々で、自分の情緒の浮き沈みに翻弄されています。翻弄されるなら可愛いワンちゃんか猫ちゃんがいいですね。本当に。

今年度最後のnoteでした。もうすぐ4月です。出会いと別れの季節であり、私は社会人2年目になります。社会人2年目は「真心と思いやり」を目標に仕事をしていきたいと思っています。

今年度もご覧いただきありがとうございました。来年度もどうぞよろしくお願いいたします。

では、また次回。



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