崩壊した世界の空の下で


崩壊した世界であっても

生きるためには、息をして食をして雨風を凌ぐ場所が必要である。

自分を自分として生きていくための戦いでもある。


もちろん、そう簡単なことではない。

ただ最近、崩壊した世界での生き方が少しづつ見えてきた。

順応してきたという結果なのかもしれない。


2000社近くの企業に落とされ

多くの選考に係わるテストに落とされ

孤独の中で生きていき

多くの人に愛を与え続けて

自分のことをゴミのように扱われいくと


怖いものが少しづつなくなってくる。

もう心が傷つきすぎて鈍感になってしまったのかもしれない。

そして、自分の世界に必要なものや見なくていいものも選別しやすくなってくる。


僕の世界には、あまりにも敵が多すぎたのかもしれない。

そして、他者を基準としてルールに自分自身が巻き込まれすぎていたのだろう。


でも、こうやって自分自身の夢や希望、可能性をどんどん自分でも壊していっているんだよね。

人はどんなにつらい人生であっても、帳尻合わせがあるけじゃない。

多くの人は助けがあっても、自分自身にないのは「死」を早めなかった罪である。

崩壊した世界でも、自分自身を清潔に保ち、たとえ無意味であって、たとえ世界に誰も存在していなくても「人としての綺麗さ」を維持しなければならない。

もしかしたら助けてもらえるかもしれないから。もしかしたら望む世界へと行くことができるかもしれないから。

もちろん、100%叶うわけではない。信じなければ、行動しながらば、という問題ではない。信じても、行動しても、努力しても、社会の壁やルールなどのレッテルからは逃れられないのである。

あまりにも行動しすぎると、次にどんな手にでればいいのか分からなくなってしまう。時間をかけすぎるのも自分の首を絞めることになってしまう。


ああ、後悔しないために頑張ってきたのに、どうして余計後悔しているのだろう。

ああ、どうしてできることをしているのに、助けてもらえないのだろう。

ああ、僕の人生なのに何もかもが壊れてしまった。


ああ、ああ、ああ、ああ、ああ、ああ、ああ

どうして、何をしても愛してもらえないのだろう。


何が何が、あと何が足りないの、あと何をどれだけ命を使えばいいの。

そうか、そういう意味なのかもしれない。


自ら内部崩壊させるためのなのか。

なら、できる限り引き伸ばしていかないといけない。

まだ行けるだろうか。まだ大丈夫だろうか。

僕は、僕として笑えるだろうか。

本当に僕が僕として生きていい世界へ迎えたときに。


夢はルポライターなどです。(/・ω・)/「声なき声を」届けることや草の根活動を頑張っている人や世に出せるように、そのために使えたらなと思います。