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道徳は示されるもの(2024/4/1)

今日の日記。

特に自己紹介はありません。
よくわからないまま、なんとなく読んでいただく中で浮かび上がる僕を
そのまま受け取ってもらえれば、
それがきっと一番僕らしい僕であろう、というような。
そういう適当な思いです。

今日から、大学4回生になります。
今年度は
・通信教育の年度末試験(受かれば卒業):5月
・教員採用試験:6月から8月
・教育実習:9月あたり
・浄土真宗本願寺派教師資格試験:時期が合えば
が主なイベント事。
頑張ろう。

今日のひとこと

今日は新渡戸稲造の『武士道』(大久保喬樹訳)を読み始めた。
最近は「日本の心」みたいなものに惹かれて、中山延ニの『聞ー人間存在の根源的理由』とかいう古い本を読んでみたりした。仏教的視点から説く、人格或いは主体的自己の定義を見るような内容で、まさに仏教的乃至宗教的な道徳の規範を思わせるところがある。
それに続いて読むところの新渡戸稲造は、一方で西洋への謙りを多少感じないでもないが、しかし欧米の文化に日本の理解を広めようとする内容としては、どこまでも有効な紹介となったことは言うまでもない。
その中で、やはり今の学校教育における道徳に言い及ぶべきが起こったがため、そのことについて。

価値の多様化

少し前に、日本では非法とされる「安楽死」をスイスで行い上へ昇った女性の番組放送が話題となった。

何より先に断っておくが、
ここでは、その是非についてとやかく述べる心の一切なきこと、御承知されたい。
その女性は、その生の中で彼女が選んだ法に則り生きたに過ぎないのであって、それは少なくとも彼女のみが評価し得る現象に過ぎない。
そして、その彼女は安楽死を救いと見てこれを選んだのだから、それは彼女にとっては選ぶに値する道だったのだ。

ただ、これが話題となって様々に議論される中で、健康な身体、健全な心ながらにして、この安楽死を良き美しきものと見る価値が決して少なくない数見受けられた。
自ら死ぬこと、死をもって楽を得ることに対するその善悪の価値判断、或いは美徳と感ずる判断の基準が揺らいでいることを、これは如実に現すものであろう。さらに言えば、個々人の間でその価値判断に大きな(大きすぎる)溝があるのである。

全部「正解」でいいの?

ここで、やはり問題とすべきだと考えざるを得ないことは、「賛成」も「反対」も「正解」である、という考え方である。

ここではあえて「安楽死」に限って話をしよう。
安楽死を良しとするのも悪しとするのもそれは個人の考えであるからどれもかれも否定されるべきではないという態度、即ち個人の価値は誰からも侵されるべきでなく常に既に「正しい」とする態度は、今日の道徳の基本的姿勢そのものだ。

ただ、それで果たして良いのだろうか。
安楽死は良いことだという価値が、「正しい」と判断されることは、果たして良いことなのか。

私は、その放送に取り上げられた女性の判断が客観的な価値として「正しい」とは思わない。
私はいかに苦しくとも、人は死ぬべきとき以外に自ら死んではならないと考える。これは、新渡戸稲造は当然にして、福沢諭吉や渋沢栄一などの偉人もまた異口同音に主張するところであって、それは即ち日本人の精神と言える。それに少なからず感化されたがために、苦しかろうと悲しかろうと、私はただ死ぬことを絶対の禁忌と据えるのである。
彼女に対して私はただ「彼女の判断は私の評価できるものではない」ということを述べた。彼女の判断は社会の中での価値と相違のあるものかもしれない。それでもそれはどこまでも個人的事情によるものであるから、その是非については語れないということである。

即ち、彼女は社会の「正しさ」に「彼女」という価値をぶつけたのであって、彼女は「正しさ」に逆らう価値を、そのまま「良い」と判断したのだ。
それは彼女の勇敢なところであり、その「正しさ」は他者が測れるものではない。ゆえに他者はその判断には沈黙せねばならない。

ただ、それはあくまで個人における話の場合であって、社会の「正しさ」或いは日本の心としての「正しさ」においては、自死は何よりの禁忌として扱われるべきではないのか。

道徳の「正解」とは

道徳における人の生き方在り方の最も優れた例は常に既に心に示されて然るべきだ。

否、示されているのだ。
道徳科における諸価値は学習指導要領に明確に示されているし、発達段階毎に目指すべき生き方在り方も同様である。

道徳科の授業の中では
子どもの「議論」によって展開する中に解を見出すような形でその価値を心に根ざすことが求められるとされる。
この「議論」ということについて、しかし非常に慎重に捉えねば、道徳を授けるどころか悪徳を良しとする心情をこそ与えかねないわけである。

既に示されている道徳的価値について議論し、その中で道徳的実践意欲の伴った道徳心情を養うことが期されるとすれば、
そこで議論されるべきは、
「自死は如何に悪か」であって、
「自死は善か悪か」ではないはずである。
それなのに、最近はただ意見をぶつけることが議論と同義化され、単純な二項対立に当てはめて主張を為そうとする者の多いことだ。

議論とは、目的がある。
道徳においては徳目への理解であり、その徳目を否定する主張は改められねばならない。
それなのに、それが一個の主張として尊重されるべきはずだといっておざなりになるのは、殊に議論の本質を理解していないことの現れと言う外ない。

道徳科で議論することが求められるのは、その道徳的価値への情緒的理解を助けることが期されるがためであり、その価値認識の広がりを望むものではないだろう。

自死が善か悪か、と問えば
「それは善である」と答えられるのであって、それを否定する所以がなくなってしまう。
自死は悪であるのが前提された上で
「なぜ悪なのか」を議論するからこそ、「悪とは言えない」場合もあることを認められるのであって、その前提がなくならば、社会は一体性を失い各々が気ままに自分の価値を振り回すことになりはしないか。

日本の心

日本には古くから武士の心があった。
それは日本の心であった。
それは古くは朝鮮や中国大陸の国から持ち込まれた文化を含む。
それは国や民族を超えて互いに理解し合えるかけ橋となり、全体を包む膜となった。
その武士の心が、日本人の生活における規範や徳目を芽生えさせた。

これは日本を一体とさせ、日本に色を持たせた。
その「色」なるものが、詰まるところは宗教なのである。

宗教なくして道徳なし、というのは多くの文化人が口を揃えて言う常識である。
今日の日本は、そんな「色」を置き去りにした拠り所のない道徳を教えようとしている。

ゆえにその「色」よりも個人の価値認識が重みを持つのである。
どこの宗教を見ても自死をただ良いものと見做すものなどありはしない。
常に人は生きるべきで、よく生きるべきであるのだ。
その社会全体の認識があるからこそ、社会は社会足るのだ。

その全体性を失くした今、人は一体何で繋がりを保てるのだろう。

古事記はただの歴史的作品となりその内容や心はほとんど忘れ去られた。
仏壇はどの家からも消えて、事物に手を合わせるという習慣もなくなった。
ただ示される徳目としての仁義は完全に忘れ去られ、それを体現する人もいなくなった。

日本はこれまでの2000年以上の歴史の中で脈々と受け継がれてきた伝統的精神の一切を忘れて、
日本の誇りや日本の心の根底にある「正しき生」の姿を失い、それを自らの手で一から作ろうとしている。
個々別々にこれを目指すから、その価値基準は四分五裂と化し、何の一体感もなくゆえに自分の拠り所とする国や文化への愛着も希薄化する。

なんと悲しいことか。

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