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どうして人を怒らせたり悲しませたりすることはよくないのか。

タイトルを見て、え?と思う方は多いかもしれない。なぜなら、人を怒らせたり悲しませたりすることはよくないことだという認識は一般に浸透しきっており、それについて改めて深く考察、再考する機会は少ないと思うからである。

しかし私はある時から「なぜそれらがよくないのか」考え続けていた。なぜなら、そうした認識が浸透しているにもかかわらず、人を怒らせたり悲しませたりする人はいるし、自分もその被害者になったり加害者になってしまったりするからである。常識は常識として広く認知されておきながら、それに矛盾した出来事は往々にして起こってしまうようである。私はその原因について改めて自分で考えたかったのである。

私はその原因について、一つの仮説を立てた。「多くの人は"人を怒らせたり悲しませたりしてはいけない"という結論の部分には同意しているが、"なぜ"人を怒らせたり悲しませたりしてはいけないのかという理由の部分まで深掘りしていない」というのがそれである。そのため、よくないことと思っていながらも、なぜよくないのかという疑問については確固たる意思のもとで答えられず、結果として自身を制御するブレーキをコントロールできずにいる。そうして怒る人悲しむ人が生み出されていくことになる。(賛否両論あろうが、いまの私にはそう見える、ということである。)

整理する。
・人を怒らせたり悲しませたりしてはいけないという主張は社会的に広く受容されていながらも、ある場合においては実践されていない。
・その原因は、一般認識に関する理解の土台がしっかりしておらず容易に揺らいでしまうため。

それでは一体、どうすれば"土台"をしっかりさせられるだろうか。つまり、「人を怒らせたり悲しませたりしてはいけない確固たる理由」というのは何だろうか。
私の考えはこうである。

その人を怒らせたり悲しませたりすること自体がよくないというよりも、むしろ、その人が怒ったり悲しんだりすることで、その人のことを大事に思っている人が不快な思いをするからよくない。

ここには補足の説明が必要である。「その人のことを大事に思っている人」というのは必ずしも、家族や友人(三人称)に限られず、自分自身や相手自身(一人称や二人称)も含み得る、ということだ。

このままだと分かりにくいので立場を変えて換言してみよう。つまり「私は、自分が大事に思う人が怒ったり悲しんだりすることのないように努めなければならないし、同じように、誰かにとって大事な存在である人を傷つけてはいけない」ということだ。

ここで一つ問題が生じることに気がついた人もいるだろう。それは「もしある人が誰にとっても大事な存在でなかったとしたら、その人のことは傷つけてもいいのか」という問題である。しかしこの問題は、たった一つの方法で解決できる。

もし仮に誰にも大切にされていない人がいたならば、あなたがその人を大事にする一人目になればよい。その選択は、あなたを大事にしてくれる人に、更なる感銘を与えることだろう。

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