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自分と世界の境目はどこか

こういう話がある。

田んぼには稲がある。稲は収穫されて米になる。我々は米を食べる。米は我々の身体を作る細胞になる。ならば、いま目の前にある稲は「将来の自分の一部である」といえる。未来の自分の一部は、そこら中に転がっていることになる。

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今回は、環境と自分の境目について考えたい。

世の中にある自然、その一部は、将来自分に取り込まれる。そしてやがては自分自身も朽ち果て、大地に還る。世界と自分の境目は、どこだろう。

多くの人は、「自分」を物理的身体的に把握する。

口の中にある唾液は「自分の一部」だが、それが外に吐き出された途端に唾という「汚いもの」になる。排泄物も同様。無意識的に、明確な線引きをしているように感じられる。

「自分」とは、大いなる流れの一部に過ぎないのではないか。

あらゆる生命が共存するこの世界の、ちっぽけな存在。しかし、ちっぽけなりの役割がある。ならばそれを全うしよう。そう思う。

宇宙の一部として、万物流転の一瞬一部として、この命を使い果たそうと思う。

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