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湯上がり奇譚 【ショートショート】

他人の家の風呂に入るのはどうにも落ち着かない。
見知らぬ脱衣所の空間で、
服を脱いで裸になるのは少なからず躊躇われる。
浴室に入っても
蛇口の握りの形から、風呂桶、風呂蓋、
タイルの目地まですべてが見慣れない。
熱い湯を肩にかけてやっとひと心地つくものの、
湯舟に浸かって天井を見上げながら、
自分は今何をしているのだと思う。
湯上がりの火照った体が丸ごと映る大きな鏡が
恥ずかしく、
そそくさと汗ばむ体に下着をつける。

それでもしばらくは
この家の風呂を貰いに来ることになっている。
自宅の風呂釜が故障してしまい、
直るまでに七日はかかると宣告されたのだ。
たまたま近場に住んでいたとはいえ、
ここは遠縁の家。
肩身の狭い思いは致し方ない。

「あら、気を遣わないでいらして。
親戚同士じゃありませんか」

と、女主人は笑って云うけれど、
落ち着かないものは落ち着かないのだ。


しかし人間というものは慣れる生き物なのだ。
二度三度と通ううちに
躊躇う気持ちも少しずつ薄れ、
湯温の調整も上手くなった。
あの大鏡の前に立ち
湯上がりの紅い体を映すことさえできるようになった。
肌の上を転がる雫を拭い、
湯気越しにうなじから肩、乳房、臍へと
鏡の中の自分の体を眺めてゆく。
先月よりも少し痩せたような気がする。
その時
鏡の中の自分だけが
唇の端を微かに上げて笑ったようだった。
そんなことがあるものか。
視線を合わせる。
あちら側の自分が
面白がってこちらの真似をしている気配がした。

「なんだよ」
「なんだよ」

口の動きは同じだが、
声が幾分あちらの方が低く聞こえたのは
気のせいだろうか。

「明日は見合いだろう。綺麗にしておけよ」

鏡の中の自分が呟き、
こちらがそれに合わせている感覚があった。
何も話そうなどと思っていないのに、
口が勝手に動くのだ。

「先月よりも痩せたのか。
見合いの相手が痩せ型が好みじゃないといいけれどな」

憎まれ口を叩くあちら側の自分に、
何か言い返そうと思うのだが
うまく口を動かすことができなかった。

「代わりに行ってやろうか、明日の見合いに。
本当は他に好きな男がいるのだからな、
見合いになんか行きたかないだろう」

さも可笑しそうに笑う鏡の中の自分の
乳房がぶるんと揺れた。

「見合いを壊すのは自分には造作もない。
お前があの北の男と一緒になれるようにしてやろう。
そのかわり」

鏡の中の自分が云った。

「望みを叶えてやったら、お前がこちら側に来るんだ。
お前と自分は同じ人物なのだから、
どちらが鏡の外で暮らしたってかまわない筈だろう。
自分が北の男と一緒に暮らす。
あの男には自分とお前の区別はつかないさ」

理不尽な言葉に苛立ち、鏡に映る自分を睨みつけた。
どこをどう見ても、自分の顔だった。
次第に自分がいるのは
こちら側なのかあちら側なのかわからなくなってきた。

今ここにいるのは誰だ。
どちらも自分だった。

熱かった体からすっかり汗がひいている。
二の腕に薄く鳥肌が立っているのが見える。
それは湯冷めのせいばかりではないようだった。


fin.

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