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冷戦期の米国はどのように対外援助を利用していたか?Foreign Aid as Foreign Policy(2007)の紹介

国際政治では、対外政策の手段として軍事力だけでなく、経済力が使用されてきました。貿易や投資を通じて経済的相互依存を深めるという方法もありますが、対外開発援助のような方法もあります。冷戦期のアメリカはこの方面で多くの事例を残しており、その効果について研究者が調査を進めています。

歴史的に注目すべき事例の一つとして、ジョン・F・ケネディ大統領(在任1961~1963)のラテンアメリカに対する援助があります。ケネディ大統領は個別に行われていた開発援助を一元的に管理する体制を構築し、大規模な開発援助を推進しました。その手法はリンドン・ジョンソン大統領(1963~1969)に引き継がれており、次第に外国の内政に干渉する目的で使用されるようになっていきました。

2007年にJeffrey Taffet氏が出版した『対外政策としての対外援助:ラテンアメリカにおける進歩のための同盟(Foreign Aid as Foreign Policy: The Alliance for Progress in Latin America)』は、この時期のアメリカの援助外交を理解する上で興味深い成果です。ラテンアメリカの政治史を学ぶ人にとっても有益な知見が得られます。

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ケネディ政権が発足した1961年にアメリカの議会で対外援助法という法律が成立しました。この法律によって政府の内部で分割されていた開発援助の機能がアメリカ合衆国国際開発庁(United States Agency for International Development, USAID)に集約されました。ケネディ政権の狙いは、アメリカの開発援助を政策手段として管理し、対外政策として利用することでした。ケネディ政権は発展途上国の経済発展を促し、貧困や混乱を取り除くことに関心があり、それによってソ連の影響力が拡大することを防止し、民主主義を普及させることが可能になると期待していました。つまり、キューバで発生したような共産主義革命がラテンアメリカ諸国で広がることを未然に防ぎたいという思惑があったと著者は説明しています。

ラテンアメリカ諸国に対するアメリカの外交政策でキューバの問題がいかに重要であったのかについて著者は詳しく説明しています。キューバでは1959年のキューバ革命によってフィデル・カストロが政権を掌握し、ソ連との外交関係、防衛協力が急速に強化されつつありました。発足直後のケネディ政権は1961年に情報機関の工作でカストロ政権を打倒しようと試みましたが(ピッグス湾事件)、この工作は失敗に終わり、キューバとの対立をさらに深めてしまいました。ソ連はキューバに対する軍事援助を拡大し、ケネディ政権はラテンアメリカ諸国でもソ連の影響力が拡大することを懸念するようになりました。

ラテンアメリカ諸国に対するアメリカの開発援助外交の基礎となったのが1961年に発表された「進歩のための同盟(Alliance for Progress)」という構想であり、これはアメリカが提供する開発援助によってラテンアメリカ諸国の社会と経済のあり方を近代化し、政治体制をより民主的なものに変革しようとするものでした。ケネディ政権が表向きではラテンアメリカ諸国と対等な関係を構築したいという姿勢を打ち出しましたが、著者はアメリカの開発援助をラテンアメリカ諸国を統制する手段と位置付けていたと指摘しており、「アメリカの政策立案者はコントロールを手放すことを望んでおらず、コントロールを手放したように見せかけることを望んだ」と述べています(p. 52)。

著者の研究で最も意義深いのは、進歩のための同盟を通じて提供された資金の大部分が社会や経済の近代化ではなく、政治的活動のために使用されていたことを明らかにしていることです。被援助国であるラテンアメリカ諸国はそれぞれの理由からアメリカの開発援助を歓迎していましたが、基本的に各国の保守層は既得権益を脅かす改革に対して抵抗する立場をとりました。そのため、アメリカとしては各国の保守層と政治的に妥協し、共産主義に反対する勢力を支援するという名目で開発援助の予算を利用していました。例えば、第5章で取り上げられるブラジルは1962年度(1961年7月1日)から1969年度(1969年6月30日)にかけて、アメリカから合計18億3300万米ドルの援助を受け取りました(p. 95)。これはラテンアメリカ地域全体で支出されたアメリカの資金のうちの29.2%に相当する金額であり、進歩のための同盟の予算を通じて支出されています。

もちろん、ブラジルが一方的にアメリカの優越的立場を受け入れさせられたわけではありません。1961年1月に大統領に就任したジャニオ・クアドロスは、ブラジルの外交的な自立を主張し、アメリカとソ連のいずれからも距離を置く中立の路線を掲げることで、アメリカから可能な限り多額の援助を引き出そうとしました(p. 97)。ケネディ政権はブラジルがソ連に接近することを阻止するため、クアドロス政権が前政権から引き継いだ多額の債務に着目し、財政的な援助を申し出ました。その見返りとして、ブラジルとキューバとの関係を強化するという外交政策を見直すように促しました。詳細な経緯は明らかではないものの、当時のクアドロス政権はアメリカの提示した金額があまりにも少額であったことに不満を示しており、ブラジルの自主的外交を推進しました(p. 98)。

ブラジルとアメリカの交渉が決裂に終わった後に、クアドロス政権はユーゴスラビア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアとの国交を回復し、中国が国連に加盟することを支持し、ソ連との国交を再開する方針を打ち出すなど、アメリカに対して外交的な圧力をかけました。アメリカは間もなくブラジルと改めて交渉を試み、クアドロス政権はアメリカに5億米ドルを融資することを約束させました(p. 98)。これは外交的な成果でしたが、1961年8月にクアドロス大統領は辞任することを表明し、その後のブラジルでは政権の交代が続きました。1961年9月にジョアン・グラールが大統領に就任しましたが、彼には共産主義者として反米運動に従事していた経歴がありました(p. 99)。

グラール政権はブラジルの自主外交の路線を強化し、1961年11月にはソ連との国交を回復しました(p. 101)。ケネディは、1962年4月にグラールをアメリカに招待し、この動きに歯止めをかけようと試み、ここでも援助を外交の手段として使いました。ケネディ大統領は、1958年に干ばつで被害が出ていたブラジル北東部を開発するために4年で1億3100万ドルを拠出することを約束する代わりに、ブラジルに対して財政の改革を要求しました(p. 103)。当時のグラールは深刻なインフレーションの進行に悩まされていたため、アメリカの援助は財政の運営にとって有益でした。グラールは、ケネディを出し抜き、財政改革の約束を履行しないつもりだったようですが、アメリカはすぐにその動きを察知し、改善しなければ援助を引き上げると通知しました。

ブラジルはアメリカの駆け引きに対して憤慨しましたが、グラールは財政の運営で援助に依存していたために、これを打ち切られることを恐れて従いました(p. 108)。しかし、アメリカが財政再建のために政府支出を削減するように要求されると、グラールは激しく抵抗したため、ケネディは1963年から開発援助を受け取る主体をブラジルの中央政府ではなく、地方政府とすることを一方的に決定しました(p. 110-111)。つまり、アメリカはブラジルの中央政府を迂回し、地方自治体に対して直接的に資金を提供する経路を確保することで、ブラジルの政治に対する影響力を確保したことになります。

冷戦期のアメリカの対外政策にはさまざまな側面がありましたが、著者の研究はラテンアメリカ諸国に対する援助外交の展開を明らかにしています。先に示したアメリカとブラジルの外交関係の歴史は、援助外交が意外な方法で政治的影響力に転換されることがあることを示すものであり、ブラジルの地方政治を巻き込むことによってアメリカがブラジルに対する影響力を確保しようとしたことは、国内政治と国際政治が地続きであることを認識させるものだと思います。

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