見出し画像

信頼の喪失が国際政治に及ぼす影響を説明したTrust and Mistrust in International Relations(2007)の紹介

政治学の研究で最も基本的な分析対象に交渉があります。交渉を分析する場合、研究者は何が争点になっているのか、その争点に利害がある行為主体の立場がどのように異なっているのかを調べます。また、その交渉の結果は、それぞれの行為主体が自らの立場を守り、あるいは相手に自らの立場を強要することを可能にする権力によって左右されると考えられます。そのため、権力関係の調査も重要な課題です。しかし、国際政治では権力関係がすべてではありません。

国際政治の領域では、国家間が何らかの合意形成が見込める状況であっても、その合意を相手が将来にわたって確実に履行し続けるかどうか確信を持てない場合が少なくありません。国際政治学の文献では、これをコミットメント問題と呼びますが、ここでは一般向けに分かりやすく信頼の問題と呼ぶことにしましょう。信頼(trust)とは、ある行為主体が、相互に影響を及ぼし合う状況の中で、相手は裏切るよりも、協力することを好むはずだと信じていることをいいます。その反対が不信であり、相手は協力するよりも、裏切ることを好むはずだと信じることを意味します。

直感的にも、交渉の当事者が相手に対して信頼を維持できるかどうかは交渉の結果を大きく左右してしまうことは理解できるはずです。たとえ、双方が協力することによって、大きな利益を得ることができると分かっていたとしても、どちらか一方が他方を信頼できないなら、相互協力に辿り着けません。少なくとも、そのような合意に辿り着くために協力することを躊躇することが予想されます。

信頼の問題は、国際的交渉がどのような要因によって失敗に終わるのかを理解する上で欠かせないものであり、この視点から冷戦の始まりと終わりについて考察した『国際関係における信頼と不信(Trust and Mistrust in International Relations)』(2007)という著作があります。

Kydd, A. H. (2007). Trust and Mistrust in International Relations. Princeton University Press.

この著作はゲーム理論的分析を踏まえて、冷戦の歴史を捉え直した研究成果であり、信頼の問題が国際政治における国家の行動を説明する上でいかに重要であるかを改めて確認させる研究です。ゲーム理論が優れているのは、交渉に参加している行為主体が、それぞれの利得を最大化できる行動を選択しており、しかも、ある行為主体の行動から得られる利得は、別の行為主体が選択した行動の内容によって変化することを想定することによって、どのような交渉結果が得られるのかを計算することです。

ここではゲーム理論それ自体の内容に踏み込んで解説しませんが、著者は議論を展開する第一歩として、有名な囚人のジレンマを取り上げています。囚人のジレンマは信頼の問題を提起する状況であり、交渉の当事者にとって協力した方が最善に思える状況であったとしても、どちらか一方に裏切られ、他方だけが著しい不利益を被るような場合、どちらも裏切るという行動を選択することが「合理的」になると考えられます。著者は、囚人のジレンマでは当事者が不確実な状況に悩まされていないという前提を置いているので、そのままでは信頼の問題が交渉の結果に及ぼす影響を分析することができないことを指摘しています。これは国際政治における交渉をゲーム理論で分析しようとするときに大きな限界となります。

「国際関係では、ヒトラーに支配されたドイツのように、過去に近隣諸国を侵略し、残忍な行動をとった国家は、将来的に他の国家からの協力を得られなくなることが予想できる。その理由は、他国が信頼に足らない国家なのではない。問題は、ヒトラーが信頼できないと各国が考えていることである。ヒトラーは、イギリスを世界で最も信頼できる国だと思っていたのかもしれないが、チャーチルが協力する可能性はゼロだと認識している」

(p. 11)

著者は、必ずしも国際政治で協力的な関係を維持できないと主張しているわけではありません。なぜなら、国家は時間が経過するたびに経験を積み、学習を重ね、どの国家が信頼できるのか、どの国家が信頼できないのかについて、より現実的な信念を獲得していくと考えられるためです。もちろん、他国の善意を過大に評価し、現実から乖離した信念を持ってしまう可能性は捨てきれません。

実際、ヒトラーは、自らの野心を隠し、平和を望んでいるかのように振舞うことで、再軍備を推進させながらも、他国に脅威と見なされないように注意を払っていました(メモ 開戦準備を進めている指導者は、どのような嘘で自分の意図を隠すのか)。著者はアメリカとソ連との間で冷戦が始まったのも、ソ連が当初からアメリカと対決することを考え、その勢力を拡大しようとしたために、アメリカはソ連に対する信頼を喪失してしまったことが原因であると主張しています。

第二次世界大戦の末期にアメリカの対外政策では4種類の目標が置かれていました。第一の目標は政治的な変革であり、1941年の大西洋憲章でアメリカはイギリスと相互に承認した領土の不拡大、民族自決の擁護、侵略国の軍縮で合意していました。第二の目標は世界経済の安定化を可能にする国際貿易、国際金融の再構築であり、これは1944年のブレトン・ウッズ協定で具体化されました。第三の目標は大国間の外交的協力の維持であり、アメリカはイギリス、ソ連、中華民国で戦後の国際秩序を維持することを構想し、これを基礎として国際連合の安全保障理事会に拒否権制度が導入されました(4人の警察官構想)。第四の目標は安全保障体制の強化であり、アメリカは太平洋と大西洋の両方でアメリカ軍が依拠できる基地を拡大しました。

これらの目標を達成できるかどうかは、ソ連の協力にかかっていましたが、第二次世界大戦においてアメリカ大統領を務めたルーズベルトは、ソ連の最高指導者であるスターリンに対して信頼を置いていました。そのため、イギリスのチャーチル首相がソ連に対して抱いていた強い警戒感をルーズベルトは共有しようとしませんでした。ルーズベルトの外交政策において、イギリスとソ連の協力をいかに促進するかが重視されていたのは、このような対ソ認識があったためであると考えられています。著者は、ルーズベルトから特命全権大使に任命され、ソ連との交渉を担当していたハリマンが次のように考えていたことを紹介し、ルーズベルト政権がいかにソ連を信頼していたのかを示しています。

「ソ連に赴いた特命全権大使アヴェレル・ハリマンは、1945年1月にソ連が求めた60 億ドルの融資を熱烈に支持し、『借款によってソ連が健全な経済を発展させるように、あらゆる援助を行うべきであるというのが私の基本的な確信である。人民が生活を送れるようにソ連が速く発展できれば、彼らはそれだけ寛容になるであろうと強く感じている。(中略)大規模な軍隊は維持されるであろうが、スターリンとその側近の大きな関心は、ソ連の人民によりよい物質的な生活を送れるようにすることであるに違いないと思われる』このような楽観論はアメリカで広く共有されていた。1945年3月の世論調査の結果によれば、回答者の55%が戦後においてロシアはアメリカと協力すると信頼しており、信頼しないと回答したのは31%にすぎなかった」

(p. 89)

このようなアメリカのソ連に対する認識は、ソ連の指導部の考えを正しく反映していませんでした。スターリン政権の下で外務大臣を務めたモロトフは、退任した後に自らの職務を振り返り、「我が祖国の国土を拡大することであった」と述べ、ルーズベルトを「帝国主義者」と見なしていたことを明らかにしています。第二次世界大戦の最中にソ連はアメリカから援助を引き出して利用できたことを自慢しさえしていました(p. 90)。スターリン自身の考えも、これとおおむね一致するもので、社会主義イデオロギーに基づく信念から、ソ連がアメリカと共存することは不可能であり、最終的に対決することは避けられないと予想していました。そのため、スターリン政権は軍事的手段で可能な限り多くの領土を獲得し、それが不可能な場合は非軍事的手段を駆使してソ連の勢力圏を拡大するように努めました(p. 91)。つまり、ソ連はアメリカを信頼していないにもかかわらず、アメリカだけがソ連を信頼していたことになります。

1945年2月、アメリカ、ソ連、イギリスがクリミア半島のヤルタで会議を開催したとき、イギリスはソ連とポーランド問題で激しく対立することになりました。スターリンはポーランドに自身の対外政策に従順な共産主義政権を発足させようとしましたが、チャーチルとルーズベルトは、ポーランドに正当な新政府を発足させなければならず、そのためには自由かつ公正な選挙が実施されなければならないと主張していました。スターリンは、選挙の実施を受け入れ、いったん合意がまとまりましたが、合意を履行する段階でソ連は政府の再編や選挙の実施を妨害し、事実上、選挙が実施できない状態に追い込みました。この事件を受けてチャーチル政権はソ連に対する強硬路線を強化することになり、ルーズベルトもヤルタ会談で共産主義政権を存続させようとするスターリンの非協力的な姿勢は受け入れ難いと抗議しています(pp. 93-4)。

しかし、この段階でもルーズベルトはスターリンが協力関係を維持する可能性は十分にあると期待し、その姿勢は次のトルーマン大統領にも受け継がれました。結局、ポーランドでは共産主義体制が確立されることになり、ポーランドを民主化するという合意は実効性を失いました。ただ、アメリカがソ連は信頼できない国家であるかもしれないという疑念を生じさせた意味で、この出来事には重要な学習効果があったと著者は指摘しています。その効果は政府関係者だけにとどまるものではありませんでした。1945年8月までに、アメリカの国内でもソ連に対する認識が変化し始めており、世論調査ではソ連が平和を愛する国であり、自国を守るためにのみ戦争を遂行すると考える回答者は39%、ソ連が好戦的であり、欲しいものを手に入れるために戦争を始めるかもしれないと考える回答者は38%となっていました(p. 96)。

アメリカのソ連に対する外交を見直すもう一つのきっかけとなった出来事として、核兵器の国際的管理体制をめぐる交渉が取り上げられています。1945年8月にトルーマン政権は、核兵器の技術がそれまでの通常兵器の技術とは異質なものであると認識し、核兵器の軍拡競争を回避するため、国際的管理体制を構築しようと外交交渉を始めました。その成果としてまとまったのがバルーク案(Baruch Plan)と呼ばれているもので、これは原子力の国際的な管理を目的とした国際原子力開発機関を立ち上げること、安全保障理事会の拒否権制度を原子力の国際管理体制には適用しないことなどを盛り込んだ大胆な構想でした。しかし、ソ連はこの提案に反対したため、交渉は具体的な成果を上げることができなくなっています。この時期にソ連に対するアメリカの不信は別の議題をめぐる交渉でも深まり、1945年の秋にはブルガリア、ルーマニアでソ連が共産主義体制を確立し、間接的にソ連の支配下に組み入れたことに関してアメリカ政府はソ連を厳しく非難しました。

先述したハリマンも、この段階でソ連に対する信頼を捨てました。当時の彼は「ソ連は我々を含めたあらゆる外国人に対して根深い疑念を持っていることを認識した。他者の疑念に対応するための自然な方法は、寛容と配慮を通じて善意を示すことである。我々は真剣にこの政策を試みたが、成功しなかった」と外交的な失敗を認めました(p. 100)。また、1946年2月にスターリンは演説を行い、資本主義と社会主義は共存することが不可能であり、資本主義が存続する限りは戦争が不可避であること、ソ連は次の戦争に備える新しい計画が必要であるなどと自らの信念を表明したこともアメリカのソ連に対する認識を変える上で大きな影響がありました(p. 101)。アメリカの外交官のジョージ・ケナンはソ連の意図を分析し、その内容を長文電報で本国に送付し、その際にトルーマン政権の対ソ認識を見直す必要があることを強調しました。1946年3月には、チャーチルがアメリカを訪問し、演説の場でバルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが降ろされたと述べたことも、ソ連の勢力拡大に対する封じ込め政策の必要を広くアメリカの有権者に認識させるものでした(鉄のカーテン演説)。

その後、アメリカとイギリスの不信は、1946年にソ連がイランに軍事侵攻を開始したことで裏付けられました(1946年イラン危機)。トルーマン政権はイランからソ連の軍隊を撤退させるために、外交的な圧力をかけましたが、その際にソ連がルーマニアとブルガリアに配備した部隊の規模を増強しているという報告を受け取りました。その部隊の規模が占領行政の必要をはるかに超えるものであったことから、トルーマン政権はソ連がトルコに対する軍事侵攻を準備していると判断しました。1946年6月、トルーマンはアメリカがソ連と戦争状態に入る可能性が高いという判断に基づき、急ぎ戦争の準備を開始するように命じました。この決定の後でソ連がイランから軍隊を撤退させたことにより、国際的な緊張は部分的に緩和されましたが、これは冷戦を通じてアメリカが展開する封じ込め政策の最初の一歩となりました。また冷戦が本格的に始まったことを示す画期的な出来事でもあったと考えられています。

ソ連はこの危機の後でも拡張路線を思いとどまったわけではありません。その後もハンガリーとチェコスロバキアでも共産主義体制が確立され、1950年に朝鮮戦争が勃発するなど、トルーマン政権はソ連に対する封じ込めの対応を迫られています。著者は、アメリカのソ連に対する信頼が失墜していった経緯を踏まえ、それが軍事的な意味での能力の問題によって引き起こされたものというよりも、信頼の問題によって引き起こされたものとして理解すべきであると主張しています。

「信頼は、回復に何十年も要するほど低い水準に落ち込んでいた。アメリカがソ連に対して抱いていたイメージは、険悪だが戦争におけるビジネス・パートナーというものから、東欧と中東における小さな隣国に自国の意思を押し付ける注意深い拡張主義者に、そして、衛生国を通じてではあるが、戦争に訴えて自国の勢力圏を拡大しようとする侵略的な拡張主義者へと変化していった。このパターンと並行し、アメリカの政策は、ソ連と交渉しようとする政策から、主として経済的資源によりソ連を封じ込めようとする政策へと変化し、そして、ヨーロッパに常態的にアメリカ軍の部隊を駐留させることを伴う恒久的な同盟に基づいて軍事的に封じ込める政策へと移行していった」

(pp. 115-6)

著者の研究は、国際政治において外交的な解決がどのような条件の下で可能になるのかを考える上で参考になるものです。この著作では冷戦を終わらせるために、そしてアメリカとソ連との間で信頼の問題を乗り越えるために、どのような外交的努力があったのかについても分析されています。著者の見解を踏まえれば、たとえ、軍事バランスが変化しないとしても、各国の信頼を裏切るような国が出現したときに、世界の情勢がどれだけ不安定化するのかがよく理解できると思います。

関連記事


調査研究をサポートして頂ける場合は、ご希望の研究領域をご指定ください。その分野の図書費として使わせて頂きます。